おぞましい事件が名古屋で発生した。
19歳の女子大学生による殺人事件。殺人の動機は、「誰でもよかった。人を殺してみたかった」。
今回の事件といい、佐世保の事件といい、少し昔になるが神戸の事件といい、もう私たちははっきり認識したほうがいいのではないだろうか。今のこの日本社会には、人を殺してみたい願望を抱いている人間が少なからず存在しているということを。
その思いは、人間どうしのかっとうから生まれるのではない。対社会のあつれきから生まれるのでもない。ただただ純粋に自分の心の中からわいてくる殺人願望。そういう不気味で理解し難い人間が、私たちの社会に一定の割合存在する。認めたくないけど、ここまできたら正面きって彼らと向き合う必要があるような気がする。
彼ら・彼女らが学校の成績がよかったことが、今の日本の学校教育の何らかの欠陥を露呈させている。多くの学校は人を思いやる教育を実践していると口をそろえて言っているが、おうおうにしてそれらは、特別な時間割の中での取り組みだったり、全体集会での講話だったりする。要するに重要なカリキュラムとして設定されてないのだ。当然成績にはカンケーない。どうとでも位置づけられる「命の教育」なんて、子供はそんな大人(教師)のハラの中は最初から読んでいる。だからいくら口すっぱく「命は大切。人殺しはいけません」って言ったって軽い言葉が心の表面をなぞっていくだけ。彼女・彼たちの強烈な願望を改変させることはできない。
私も、つい最近まで、「人を殺したらいかん」というのは自明なことで教えられない、いわば人間概念の「本能?」のようなものであって、そもそも教えられないんじゃないかと思っていた。ところが不条理な10代の殺人事件を見るにつけ、やはり「人を殺してはいけない教育」が必要でないのかと、今、真剣に考え始めている。人に崇高な理念を期待することと、人にそれが備わっているのは別のこと。それがたとえ人として最低限の一線(?)~「人を殺してはならない」であってもだ。
そう、今の日本の教育で一番必要なのは、計画だおれの個性を伸ばす教育ではない。ましてや道徳教育でもない。「なぜ人を殺してはいかないのか」を考えさせる教育だ。
人を殺してはならない。どんなときであっても。だれであっても。正面きって、このテーマに取り組むのは難しい。どんな大人もこれはこううゆうもんだ式に教えることはできない。よって、具体的にはどうするのか。自然権=相手を殺す権利と定義したホッブズあたりから始める哲学の授業、ドストエフスキーの「罪と罰」を読み込んでいく授業なんかが考えられる。が、一番いいのは生徒自らが自分の言葉で自分なりに答えを探っていくことだろう。人の考えも聞きながら。意見発表や議論。その中で、戦時中の兵士は? 死刑執行人は?といった応用問題も避けて通れない。だから戦争してる国や、しそうな国、死刑制度がある国でこの教育を実践するのはハードル高いかもしれない。今のままの日本の学校でもやりにくいだろう。
ところで、今回の女子大生に代表される「異常」な心理状態は万国共通の人間のサガみたいなもんなのか、それとも、この一見平和な日本社会だからこそ熟成させてしまう特殊な心理状態なのか。よくわからないけど、日本の年間自殺者役3万人という現実と「人を殺してみたい人間」は何らかの共通項があような気がしてならない。両者とも命を軽く見ている。前者は自分の命、後者は人の命。
平和国日本を世界の中でも際立った「自国民殺し」の国にしないためにも、人を殺してはいけない教育の実践が早急に必要、そう思う。
19歳の女子大学生による殺人事件。殺人の動機は、「誰でもよかった。人を殺してみたかった」。
今回の事件といい、佐世保の事件といい、少し昔になるが神戸の事件といい、もう私たちははっきり認識したほうがいいのではないだろうか。今のこの日本社会には、人を殺してみたい願望を抱いている人間が少なからず存在しているということを。
その思いは、人間どうしのかっとうから生まれるのではない。対社会のあつれきから生まれるのでもない。ただただ純粋に自分の心の中からわいてくる殺人願望。そういう不気味で理解し難い人間が、私たちの社会に一定の割合存在する。認めたくないけど、ここまできたら正面きって彼らと向き合う必要があるような気がする。
彼ら・彼女らが学校の成績がよかったことが、今の日本の学校教育の何らかの欠陥を露呈させている。多くの学校は人を思いやる教育を実践していると口をそろえて言っているが、おうおうにしてそれらは、特別な時間割の中での取り組みだったり、全体集会での講話だったりする。要するに重要なカリキュラムとして設定されてないのだ。当然成績にはカンケーない。どうとでも位置づけられる「命の教育」なんて、子供はそんな大人(教師)のハラの中は最初から読んでいる。だからいくら口すっぱく「命は大切。人殺しはいけません」って言ったって軽い言葉が心の表面をなぞっていくだけ。彼女・彼たちの強烈な願望を改変させることはできない。
私も、つい最近まで、「人を殺したらいかん」というのは自明なことで教えられない、いわば人間概念の「本能?」のようなものであって、そもそも教えられないんじゃないかと思っていた。ところが不条理な10代の殺人事件を見るにつけ、やはり「人を殺してはいけない教育」が必要でないのかと、今、真剣に考え始めている。人に崇高な理念を期待することと、人にそれが備わっているのは別のこと。それがたとえ人として最低限の一線(?)~「人を殺してはならない」であってもだ。
そう、今の日本の教育で一番必要なのは、計画だおれの個性を伸ばす教育ではない。ましてや道徳教育でもない。「なぜ人を殺してはいかないのか」を考えさせる教育だ。
人を殺してはならない。どんなときであっても。だれであっても。正面きって、このテーマに取り組むのは難しい。どんな大人もこれはこううゆうもんだ式に教えることはできない。よって、具体的にはどうするのか。自然権=相手を殺す権利と定義したホッブズあたりから始める哲学の授業、ドストエフスキーの「罪と罰」を読み込んでいく授業なんかが考えられる。が、一番いいのは生徒自らが自分の言葉で自分なりに答えを探っていくことだろう。人の考えも聞きながら。意見発表や議論。その中で、戦時中の兵士は? 死刑執行人は?といった応用問題も避けて通れない。だから戦争してる国や、しそうな国、死刑制度がある国でこの教育を実践するのはハードル高いかもしれない。今のままの日本の学校でもやりにくいだろう。
ところで、今回の女子大生に代表される「異常」な心理状態は万国共通の人間のサガみたいなもんなのか、それとも、この一見平和な日本社会だからこそ熟成させてしまう特殊な心理状態なのか。よくわからないけど、日本の年間自殺者役3万人という現実と「人を殺してみたい人間」は何らかの共通項があような気がしてならない。両者とも命を軽く見ている。前者は自分の命、後者は人の命。
平和国日本を世界の中でも際立った「自国民殺し」の国にしないためにも、人を殺してはいけない教育の実践が早急に必要、そう思う。