もんくうさぎのブログ

もんくばかりでごめんなさい

人を殺してはいけない教育を

2015-01-28 18:18:32 | 教育
 おぞましい事件が名古屋で発生した。
 19歳の女子大学生による殺人事件。殺人の動機は、「誰でもよかった。人を殺してみたかった」。
 今回の事件といい、佐世保の事件といい、少し昔になるが神戸の事件といい、もう私たちははっきり認識したほうがいいのではないだろうか。今のこの日本社会には、人を殺してみたい願望を抱いている人間が少なからず存在しているということを。
 その思いは、人間どうしのかっとうから生まれるのではない。対社会のあつれきから生まれるのでもない。ただただ純粋に自分の心の中からわいてくる殺人願望。そういう不気味で理解し難い人間が、私たちの社会に一定の割合存在する。認めたくないけど、ここまできたら正面きって彼らと向き合う必要があるような気がする。
 彼ら・彼女らが学校の成績がよかったことが、今の日本の学校教育の何らかの欠陥を露呈させている。多くの学校は人を思いやる教育を実践していると口をそろえて言っているが、おうおうにしてそれらは、特別な時間割の中での取り組みだったり、全体集会での講話だったりする。要するに重要なカリキュラムとして設定されてないのだ。当然成績にはカンケーない。どうとでも位置づけられる「命の教育」なんて、子供はそんな大人(教師)のハラの中は最初から読んでいる。だからいくら口すっぱく「命は大切。人殺しはいけません」って言ったって軽い言葉が心の表面をなぞっていくだけ。彼女・彼たちの強烈な願望を改変させることはできない。
 私も、つい最近まで、「人を殺したらいかん」というのは自明なことで教えられない、いわば人間概念の「本能?」のようなものであって、そもそも教えられないんじゃないかと思っていた。ところが不条理な10代の殺人事件を見るにつけ、やはり「人を殺してはいけない教育」が必要でないのかと、今、真剣に考え始めている。人に崇高な理念を期待することと、人にそれが備わっているのは別のこと。それがたとえ人として最低限の一線(?)~「人を殺してはならない」であってもだ。
 そう、今の日本の教育で一番必要なのは、計画だおれの個性を伸ばす教育ではない。ましてや道徳教育でもない。「なぜ人を殺してはいかないのか」を考えさせる教育だ。
 人を殺してはならない。どんなときであっても。だれであっても。正面きって、このテーマに取り組むのは難しい。どんな大人もこれはこううゆうもんだ式に教えることはできない。よって、具体的にはどうするのか。自然権=相手を殺す権利と定義したホッブズあたりから始める哲学の授業、ドストエフスキーの「罪と罰」を読み込んでいく授業なんかが考えられる。が、一番いいのは生徒自らが自分の言葉で自分なりに答えを探っていくことだろう。人の考えも聞きながら。意見発表や議論。その中で、戦時中の兵士は? 死刑執行人は?といった応用問題も避けて通れない。だから戦争してる国や、しそうな国、死刑制度がある国でこの教育を実践するのはハードル高いかもしれない。今のままの日本の学校でもやりにくいだろう。
 ところで、今回の女子大生に代表される「異常」な心理状態は万国共通の人間のサガみたいなもんなのか、それとも、この一見平和な日本社会だからこそ熟成させてしまう特殊な心理状態なのか。よくわからないけど、日本の年間自殺者役3万人という現実と「人を殺してみたい人間」は何らかの共通項があような気がしてならない。両者とも命を軽く見ている。前者は自分の命、後者は人の命。
 平和国日本を世界の中でも際立った「自国民殺し」の国にしないためにも、人を殺してはいけない教育の実践が早急に必要、そう思う。
 

スウェーデンについて②

2015-01-17 16:14:02 | 国際・政治
教育制度

 スウェーデンの義務教育は7歳から16歳までの9年間。その9年間で、子供は基礎学校という学校へ通う。
 そして、その上に高校、大学もしくは職業大学と続くわけだが、これらの学校および義務教育前の0年生クラス、すべて学費は無料である。加えて、大学以上を除き、給食も無料、学用品も一部支給される。
 ほとんどが公立だが、私立のフリースクールもある。これは基礎学校プラス高校の期間が対象。驚くべきことに、このフリースクールの学費も無料。で、フリースクールはそれぞれユニークな学習法をやっていて、ある学校では、日本じゃ当たり前の一斉授業がなく、ほとんど生徒の「自習」中心なのだという。生徒自身が自分の時間割を作り、自分の好きなペースで勉強を進めていく。教師はときどき助言を与えるだけ。先生楽じゃん、と思った人、かなり洞察力が低いですぞ。生徒の自主性に合わせた指導というのが一番難しい。いつでも疑問に答え、かつ学習意欲をそがないためにの教科に対する完璧な知識と生徒を把握する力が必要だ。こういうフリースクールの先生はおそらくかなりレベルが高いはず。
 日本じゃ私学というと、こういうフリースクール系は例外なく学費がべらぼうに高い。お受験を意識した私学もあって、これはエスカレーター式、スパルタ式(?)いずれも親子双方覚悟がいる選択だ。一方スウェーデンには大学入試というものがない。受験地獄とは無縁の社会らしい。だから、公立か私立か、どっちを選ぶのか、これはまったく子供自身の好みの問題といえる。それでも、人気あるフリースクールは入学希望者が殺到する。どうやって選抜するかといえば、待ち時間の長さで決めるとか。すなわち、申し込み期間が長かった人から優先的に入学させるのだ。
 公、私立、両方を通じて、スウェーデンの義務教育の中心にあるのが、「自立を学ばせる」ということである。この社会で生活するためには何が必要か、自分はどういう形でこの社会に参画していくのか、そのためにはどのような考え方が必要か。これはすべての教科に共通している。
 例えば社会科。すべての教科書が、「民主主義とは何か」で始まる。そして次のような項目が並ぶ。①民主主義と権力 ②民主主義の成長 ③社会の問題 ④経済 ⑤国際協力 ⑥地球の開発 ⑦国際的視点 ⑧労働生活と将来 ⑨マスメディアと広告
 ⑧で書かれていることが、けっこうぐっとくる。労働の意味を問う箇所にこうある。「私たちはなぜ働くのでしょうか。たぶん働くことに意義があるからでしょう。私たちは誰かに必要とされ、それが自分のため、他人のために意味があるこということが重要なのです。その意味が感じられないとき、仕事はただお金を稼ぐためだけのものとなり、つまらなくなります」
 高校に入ると、職業へのアプローチはより具体的になる生徒たちは、全国共通の18のコースから自分の道を選択する。それは職業プログラムとして、①児童・余暇活動 ②建設・施設 ③電気・エネルギー ④自動車・輸送 ⑤商業・事務 ⑥工芸 ⑦ホテル・ツーリスト ⑧工業技術 ⑨天然資源 ⑩レストラン・食料品 ⑪水道・建物 ⑫看護・介護。高等準備プログラムとして①経済 ②芸術 ③人文 ④自然科学 ⑤社会科学 ⑥技術である。
 スウェーデンに入試はないのだが、やはりここでの何らかの「選抜」は避けられない。で、何で判定するかというと、学校の成績。これは毎日の小テストや課題のレポートの点数の積み重ね。だから、希望の高校コースを目指している生徒にとっては、日々の学校生活は気が抜けない。とは言うものの、一度選んだコースが自分にあわない、途中で進路変更するのは比較的簡単。とりあえず選んで、自分にあわなかったら変更してOK,どんどんいろんなことを体験してみて自分の道を見つけろ、というのがスウェーデンの教育の根幹にあるようだ。

 自立を促す、という言葉からは、ややもすると冷たい響きがする。が、スウェーデンの教育がやってる自立を促す教育は、冷たいどころか、手厚く、子供に対する暖かさが感じられる。そして、自分の道を早く見つけ出すことで、自分はこれを選んだが、人はこっちを選択したというように、社会にある多様な価値観に気付かされる。昔、日本で「世界でひとつだけの花」という曲がヒットしたが、この歌詞内容は、いわば現在の日本社会の裏返しだ。みんな均一にみなされた上で競争させられる社会だからこそ、この曲の歌詞に強烈なあこがれを抱くのだ。スウェーデンでこの曲の歌詞は受け入れられるだろうか。自分の花を咲かせるため徹底的にリアルな教育をしている国で、人々はこの曲をどう捉えるか興味がある。
 
 

スウェーデンについて①

2015-01-10 20:21:32 | 国際・政治
 多くの日本人はノーベル賞に多大な関心を抱いている。その一方で、この賞をくれる国についてはノーベル賞ほどの関心は抱いていない。
 多くの人のスウェーデンに関する知識は、福祉大国、ボルボ、イケアといった断片的なものにとどまっている。ノーベル賞の晩餐会のメニューなんかは詳細に伝えるのに、ノーベル賞を生んだ国、その社会の有りようについてマスメデイアはあまり親切に伝えてくれない。対ノーベル賞と対スウエーデン、この両者に対し、日本人がもつ温度差のようなものに違和感を感じてるのは私だけか。
 森と湖の国。昔からスウェーデンという国に惹かれていた。きっかけは「ベニスに死す」という1本の映画。そう知る人ぞ知るヴィスコンティ監督の名画なんだけど、その中に登場するタッジオ少年役のビヨルン・アンドレセンというスウェーデンの少年の美しさにたまげちまったんだよね。げげっ、なんなの、この美は・・・。まさにカミ的美!、だあ。スウェーデンにはこういう顔の人がいっぱいいるんか。ということで、このしょうもない動機から、本を読んだり、情報を集めたりするようになった(スウェーデンに実際行ったことはありません)。で、結果、そうじゃないってことはすぐわかったけど、この国のそれ(顔)以外の特色を知り、ビヨルン・アンドレセンのカミ的美より衝撃を受けた。
 うーむ、なんて経済大国ならぬ生活大国なんだスウェーデンは。日本とはあまりに違いすぎる。同じ資本主義国家なのになんでこうも違うのか。
 この正月、その一冊を本棚の隅に見つけ、ほこりをはらって、ン十年ぶりに読み返してみる。内容は当然のことながら、ン十年前のもの。だが、制度やら法律やら、今の日本社会は全然そこから遠いところに位置している。消費税アップを除いて、そこに近づこうとする努力してないやんけ。えーい、日本人よ、このン十年何やってきたんだあ。比較すればするほど正月そうそうプチうつになりそだった。
 ということで、昔の本を読み返しながら、自分自身の覚書もかねて、スウェーデンという国について書いていこうと思う。

元旦のある光景

2015-01-05 19:05:21 | 日記・エッセイ・コラム
 新年早々にたまげた光景に出くわした。
 実家からバスでアパートに戻るときのことである。栄の繁華街にさしかかり、元旦なのにすごい人混みやなあ、と窓から外を見てると、なにやら少々異様な光景。
 道端に人がずらーっと座っているのである。それもみんなお揃いの折りたたみ式の簡易イスに、秩序正しく行儀よく座り並びをしてる。一瞬、何なのかよくわからなかったが、行列の先頭の前にアップルのビルがどんと立っているのを見て合点がいった。
「こ、これが噂のラッキーバックゲット行列かぁ・・・」
 この重装備な行列、いったいどこまで続いているのやら。日ごろ見慣れないものにもう目は釘付け。ちょうど行列の後方に向かってバスは走っていく。イスは、何か行列の掟でもあるのか、大きさ、形、みんないっしょ。で、全員、寒いから防寒対策はばっちりしている。傍らには大きな荷物。生活必需用品でも入っているのだろうか。こうなったら並んでいるというより、滞在していると言ったほうがいいかもしれない。みんな路上の傍らのせまい空間で、大晦日から元旦にかけて生活しているのだ。ひえぇ。(後から聞いた話によると、1週間ぐらい並ぶ人もいるとか。・・・絶句・・・!)イスとイスの間に寝袋にくるまってでかいイモムシが如く「転がって」いる人もいる。小さなテントをはってる人もいる。
「うわあ、すげえ・・・」
 あっけに取られているうちに、バスはデパートが立ち並ぶ交差点にさしかかる。すると、行列は進行方向から90度左に曲がって、その最後尾を確認することができなくなった。
「何なんだ、これは。彼らのエネルギーはどこからくるんだ。うーん、うーん。理解できーん」
 この寒空の大晦日から元旦にかけて(名古屋では夜半過ぎから雪が降った)こうやって新年を過ごす人たちがいるという紛れも無い事実。混乱しながら、自分なりに考え(感想)をまとめてみる。で、頭の中に残ったのは、「忍」と「超個人的享楽」の2つ。ただ、ひたすら忍の一字で並び続ける。自分だけのの満足、喜びのために。
 いつから日本の正月ってこうなっちゃったんだろう。昔は元旦から開いてる店なんかほとんどなかった。だから元旦に福袋を買うなんて習慣はなかった。それがいつの間にか、元旦営業の店がぽつりぽつりと増えはじめ、後は雪崩のごとく多くの店がそれ従っていく。個人商店までも元旦営業してる姿を見るのは痛々しい。無理しても元旦に店を開ける理由はひとつ。とても儲かるから。元旦は1年のうちで一番客が入る日とも言われている。
 万事がすべて経済アップの方向へ流されていく今の日本。過去、正月ってみんな自分ひとりだけの楽しみのために過ごさなかったような気がする。家族でゆっくり過ごしたり、友達どうしで他愛ない遊びに興じたり・・・。ところで、行列の人々も行列仲間と交流するんだろうか。みなさん1列に並んでるから、ちょっと難しそうだ。隣近所マニア同士で「また、会いましたねー」とか軽い会話もあるかもしれないが、それ以上人間関係が深まってく可能性は低そう。少なくとも私が見たかぎりは、あまり和気あいあいといった様子は感じられない。そりゃそうだよな。行列参加者は福袋ゲットに関してはライバル同士だもん。やっぱ、寡黙な「忍」と、それを耐え抜いたあとにゲットできる「個人的喜び」なんだよね。「こんなんゲットした」と後で戦利品見せ合って盛り上がる場面もあるかもしれないが、それも一過性のもの。基盤にあるのは、あくまで個人的な享楽だ。
 過去のあの、1年の中で日本国中がしんと静まり返った聖域のような元旦はもう戻ってこないんだろうか。あくまでまわりの雰囲気に流されやすい日本人。目下のところ、うさぎができるささやかな抵抗は、元旦に何も買わないことかな・・・。
 いやはや仮想空間とは比較ができない、とっても濃いバーチャルな光景でした。