本と映画の感想文

本と映画の感想文。ネタバレあり。

『原子の帝国』

2005年06月09日 | SF
作者:A・E・ヴァン・ヴォークト
出版:創元推理文庫(1969/12/9)
初出:1956、1959
ジャンル:SF
評価:7/10

〔原子の帝国〕
 弱く何の力ももたない人間が、彼にしかあつかえない特殊な力を手にいれることで、人類最高の地位にのぼりつめる話。ちょっと古い言葉ではアメリカン・ドリーム。昔話にたとえれば、みにくいアヒルの子といったところ。しかし、そんなありきたりのストーリーも、ヴァン・ヴォークトの手にかかれば、こんなにおもしろい小説に仕上がりますよ、といういい例。もちろん、そんな簡単に「特殊な力」をひとり占めできるハズないじゃん!といったツッコミはおいておく。
 もうひとつ、最後に「これは・・・人間が宇宙を操っているということだろうか、それとも、宇宙が人間を操っているのだろうか」なんて哲学的なことがかかれているが、ここまでの話の流れからするとまったくのつけたりのような気がするんだが・・・。

〔見えざる攻防〕
 一瞬先の展開がまったく見えないおそろしい小説。結局、主人公スレードはまわりの状況のなすがまま。最終的に手を下すのは自分だが、その位置にたどり着くまでは不死人ジーアンとリーアに振り回されているだけ。まさにジェットコースターである。しかし、この主人公がなにも知らないというのがポイントで、本人がなにも考えていなかったからこそ、サトリの化け物の昔話と同じ原理で、結果的に相手のうらをかくことができたのだ。
 ま、とにかく、ヴァン・ヴォークトはおもしろいということで。

『ヒーザーン』

2005年06月08日 | SF
作者:ジャック・ウォマック
出版:ハヤカワ文庫(1992/7/10)
初出:1990
ジャンル:SF
評価:-8/10

 久々に反感をおぼえる小説である。
 まず第一に、その表現がひっかかった。マキャフリイが死人を生き返らせたことを話すジョアナにむかって、バーナードが話すセリフ「子供たちをサーカスにやれば、戻ってきて喋るのはピエロのことばかりだ」(P.49)や、「夜間外出禁止を示した標識は、銃撃でひどく穴だらけになっているから、おろし金に使えそうだ」(P.109)など、たしかに気の利いた表現なのだが、いたるところこんな調子ではかえって鼻につく。評価の分かれるところではあるが。

 さらに納得がいかないのが、その内容である。ここには、権力に支配された人びとが描かれている。一般市民はつねに生きるか死ぬかの瀬戸際を彷徨し、警察や軍隊、そして、ドライコ社のボディガードたちに、手当たり次第、殺されている。そして、サッチャーとスージーに仕える人間も、市民とはくらべものにならない贅沢な暮らしをしていても、この2人に支配され、踏みにじられていることに違いはない。
 が、ここでよくわからないのが救世主マキャフリイの存在だ。かれは救世主がもっていそうな力をもっているかのように行動し、思わせぶりなせりふを言う。しかし、人びとを救うようなことは何一つできず、権力者の激情により殺される。これにより、神をも恐れない現代の権力者たちや、この世に救いなどありえないことを描き出したかったのかもしれないが、マキャフリイがほんとうに救世主だったのかどうかわからないため、彼を殺すことが、どれほど罪深いことだったのかがわからないのだ。もっとも罪を低く見積もると、単に虚言癖の男を殺しただけなのかもしれない。だとすれば、この小説の価値もそれに比例して低くなる。

 主人公ジョアナは最後にはマキャフリイを追うように自殺するが、これは救世主を殺す片棒を担いだことへの罪の意識によるものではなく、ドライコのやり方と、現実社会と、これらに背を向けていた自分がいやになって死んだように思える。つまり、マキャフリイの最大の理解者であるジョアナでさえ、かれが救世主だと信じていたかどうか、わからないのだ。

 この小説には救いや成長があるわけではなく、また、困った現実を笑いとばすバイタリティがあるわけでもない。具体的な方向性もイメージも提示せず、ただ、何かが存在するような雰囲気だけをあいまいにただよわせている小説といえようか。

『知的人生案内』

2005年06月07日 | 評論
作者:ウィリアム・A・オールコット
出版:知的生きかた文庫(1984/11/10)
初出:1845
ジャンル:啓蒙書
評価:6/10

 原作は1845年に出版された本だが、ここに書かれたお説教は、そのまま現代人にもあてはまる。人類とは、着るものやすむ家は変わっても、中身は変わらないものということだ。
 だから、この本があれば、もはや啓蒙書なんてこれ以上出版する必要はないのだ。しかし、逆にいえば、世に啓蒙書はたくさんあるはずだから、わざわざ1845年のこの本を引っ張り出してくる必要はないともいえる。しかししかし、考えてみれば、こんな本あるだけ無駄である。どうせ人間は変わらないのだから。
 なんていっててもしょうがないので、とくに実践したい教訓をひろってみよう。
  • グルメやファッションなどの低い目的にふりまわされないこと。
  • 新聞を読むこと。そして、出てくる地理や歴史を調べることで知識を増やすこと。
  • 決めた時間に寝ること。
じゃ、寝るとしよう!

『第三の波』

2005年06月05日 | 評論
作者:アルビン・トフラー
出版:中央公論社(1982/9/10)
初出:1980
ジャンル:評論
評価:8/10

 第二の波の解説は目からウロコ。学校教育とは工場の流れ作業で働かせるためのものだったのか。時間をまもる習慣も、結局は同じこと。そして、政治家は国家市場のまとめ役であり、選挙とは「市民がいまもなお主人公だと有権者を安心させる象徴的儀式」に過ぎないのだ。投票率の低下をなげいてみせ、選挙にいこうと呼びかけるマスコミのマヌケさ加減よ。しかし、そのマスコミも第二の波の道具のひとつに過ぎないのだが。とにかく、的確すぎます。敬服するしかありません。

 一方、第三の波のほうは・・・って、1980年時点の未来予測に対して、2004年にどうのこうのいうこと自体まちがっているのでなにもいいませんが、アルビン・トフラーが楽観論と期待を込めて描いた未来は、日本でいえば1990年代前半だったような気がする(たぶん、アメリカではその5~10年前にあたるんだろう)。
 バブルははじけちゃったけど、まだ小金はある、世の中にはいろんな選択肢があることも知ったし、人とちがうことに価値があるとおもうようになった(バブルのころは、金はあってもノリはみんな同じだった)、インターネットが普及しはじめ、そこには新しい技術と新しい概念があり、なにか、いままで見たこともないような世界が広がるような、そんな期待にあふれていた時代。ちなみにWired日本語版が創刊されたのは1994年、最初のころのWiredにはホントに未来がつまってた。

 しかし、その後、世の中は本格的に不景気になり、少数派が経済的に成り立つことがむずかしくなり、「勝ち組」「負け組」という単一価値観で物事を計るようになった(ちなみに、この言葉は1999年ごろから使われるようになったらしい)。
 これって、第二の波の逆襲を受けているところなんだろうか? それとも第三の波は、まだきてなくて、よくある個人主義的な方向へいったり、全体主義的な方向にいったりする「ゆれ」の一種にすぎないのだろうか? これについてうまく判断できないのは、結局、この本を読んでも、第三の波の本質をとらえられなかったせいだとおもう。第二の波については、「工場における大量生産」という本質からすべての現象が説明できた。しかし、第三の波の目に見える特徴、「非マス化」「判断の加速化」「生産=消費者(プロシューマー)」を生みだした本質については語られていないのだ。

 この本で書かれているような自分のために生産する「プロシューマー」はどうかと思うが、最近は自己責任が大流行。どの銀行に預金すればいいのか、その安全を見極めるのは預金者の責任だし、年金は確定搬出年金とかになって、自己責任で運用せねばならないのだ。第二の波世界では専門家にまかせておけば良かったものが、個人個人の責任で何とかしなければならなくなってきた。そういう意味での「プロシューマー」時代にはなってきている。やっぱり、第三の波なんだろうか・・・

『負け犬の遠吠え』

2005年06月04日 | エッセイ
作者:酒井順子
出版:講談社(2003/10/27)
初出:2003
ジャンル:エッセイ
評価:5/10

 これを読むと作者のあせりがつたわってきて、自分も結婚しなければ!ともうのだが、冷静になれば、そんな自分にあわないことは止めといたほうがいいとおもい直す。やっぱり、35にもなれば、そう簡単に自分の価値観を変えることはできないのだ。とりあえず、イヤ汁だけは出さないようにしよう。出す場合は人目につかないよう、こっそり出そう。

『半落ち』

2005年06月03日 | ミステリ
作者:横山秀夫
出版:講談社(2002/9/5)
初出:2001
ジャンル:ミステリ
評価:7/10

 梶警部の澄んだ瞳と非現実的ともいえるその生きる目的。対して、彼の空白の2日間を知ろうとする人間たちは、たとえ純粋な正義感をもっていたとしても、所属する組織の中で生きていくため、あるいは成功を手に入れるため、ゆがんだ行動をとらざるを得ない。犯罪者とそれ以外の人間のどちらが純粋で、どちらが不純なのか?・・・みたいな小説。よくできてるとおもう。

『R.P.G.』

2005年06月02日 | ミステリ
作者:宮部みゆき
出版:集英社文庫(2001/8/25)
初出:2001
ジャンル:ミステリ
評価:5/10

 現在の世相を見事に切り取った小説、ということになるんだろうが、びみょーにどーでもいい感じ。ネット家族の描き方があまりにも類型的で、小利口な解説者がしゃべるところのネットユーザみたいに見える。仮想家族の実年齢が、演じていた家族の年齢とほとんど変わらないのもヒネリがないし。性別だって変えてしまえ!って感じだが、そこまでやると発散して2時間ドラマに収まらない、みたいな計算があったりして。

 ところで、仮想家族“カズミ”のいう「本当の自分」みたいなセリフ、80、90年代の自己開発セミナーやカルトにハマッてたヤツラのセリフとおんなじなんじゃなかろうか。そう考えると、いつの時代もヒトが求めるものは同じというか、道具は替わってもやってることは変わらないというか。ま、どうでもいいか。

『検死官』

2005年06月01日 | ミステリ
作者:パトリシア・コーンウェル
出版:講談社文庫(1992/1/15)
初出:1990
ジャンル:ミステリ
評価:4/10

 連続殺人事件を調べる検屍官の話だが、検屍官という仕事についてはもちろん、これについて回る政治的策謀や、男たちの中で仕事をする女性への風当たりの強さや、コンピュータ/データベースのおもいっきり細かいことや、親に相手にされない子供や・・・、とにかくナンでもカンでもつめ込まれた小説。

 殺人事件の部分だけをひろうと、「アイツがあやしい」と思わせる引っ掛けがポツポツあって、犯人を罠にかけようとして自分が狙われて、最後は危機一髪で助かるという、どことなくハリウッド的ありがちなストーリー。

 これが処女作の作者が書きたいことを思いっきり書きました~、といったところか。しかし、読むほうとしては、これが「重い」。平たくいうと読みづらい。たぶん、2作め以降はよくなってるんだろう。