本と映画の感想文

本と映画の感想文。ネタバレあり。

『アザーズ』

2008年09月24日 | 映画

監督:アレハンドロ・アメナバール
出演:ニコール・キッドマン、フィオヌラ・フラナガン、クリストファー・エクルストン
2001年、アメリカ/フランス/スペイン
ジャンル:ホラー
評価:★★★☆☆


 『シックス・センス』と似てる~と思ってallcinema ONLINEをみたら、『回転』(1961)のほうが近いらしい。そっちの原作となる『ねじの回転』(ヘンリー・ジェイムズ著)は1895年の作品らしいので、こういうネタは昔からあったのね~、ということに気づく。

 

 で、屋敷の女主人も、新しく入った使用人たちもおかしいな連ちゅーだなーと思ってたら、みんな幽霊だったということで、ちょーびっくり(笑)。

 

 でも、観てて途中でダレた。ミスター・タトルがわざわざ自分たちの墓をわざわざ隠しておく理由がよくわからなかった。てゆうか、ミセス・ミルズも最初から「奥さん、もう死んでますよ~」と教えてあげればよかったのに。あんな回りくどいことをした理由がよくわからない。召使として死んだので、死後も召使として暮らしたかったのだろうか?

 

<IMDB>
<allcinema ONLINE>


『300 <スリーハンドレッド>』

2008年09月14日 | 映画

監督:ザック・スナイダー
出演:ジェラルド・バトラー、レナ・ヘディ、デヴィッド・ウェンハム、ドミニク・ウェスト、マイケル・ファスベンダー
2006年、アメリカ
ジャンル:アクション
評価:★★★☆☆


 スパルタが「自由と正義を守る」ってのたまっている時点でヤバいんだけど~(笑)。
 アメリカ人も自国のゆとり教育を見直し始めたか?

 

 ちなみに、Wikipediaによると、スパルタには20万人も奴隷(ヘイロタイ)がいたらしい。自分たちは5万人しかいない。反乱が怖いから自国民はみんな兵士。そして、軍事訓練としてヘイロタイから強奪・殺害。
 アメリカ人は自分たちのことをよくわかってるよ~(笑)。

 

 映像はオモシロかった。
 人間をグサグサしてるところもよくできていたが、サイをたおすところでマントに隠れてギリギリまで結果がわからなかったところや、最後にレオニダスがクセルクセスに放った矢が磨きぬかれた階段に映りこみながら飛んでいくところなど。

 

<IMDb>

<allcinema ONLINE>


『ラストサマー2』

2008年09月13日 | 映画

監督:ダニー・キャノン
出演:ジェニファー・ラヴ・ヒューイット、フレディ・プリンゼ・Jr、ブランディ、メキー・ファイファー、マシュー・セトル、ミューズ・ワトソン、ビル・コッブス、ジャック・ブラック
1998年、アメリカ
ジャンル:サスペンス
評価:★★★☆☆


 ジャック・ブラックのために鑑賞。
 なので、前作の『ラストサマー』は観てない。
 特に問題はないけど。

 

 とりあえず、殺人鬼ベンは前作からの遺恨試合で主人公ジュリーとその仲間を殺しまくってやる~♪と大いに燃えているらしいのだが、ジュリーは後まわしでホテル関係者ばかり襲っている。
 もしかして、ジュリーよりもそっちが本当の目的だったのか?
 昔、ホテルで働いているときにちょーいじめられていたのか?
 妻の浮気の相手はベンが殺したうちの誰かだったのか?
 しかし、一番恐ろしいのは、ハネムーン専用ルームの天井はマジックミラーになっていて、夜、ガンバっているところを覗かれてしまうということだ(笑)。気をつけよう!

 

葉っぱの栽培と販売を生業とするジャック・ブラック

 

<IMDb>

<allcinema ONLINE>


『ベータ2のバラッド』

2008年03月30日 | その他小説

『ベータ2のバラッド』 サミュエル・R・ディレイニー著

 1965年の作品。解説によれば「若書き」らしいが、僕のレベルからすればこの程度で十分です(笑)。
 まず表層の物語は、なにか大変なことが起きたっぽい<星の民>の船ベータ2について、なにが起きたのか調べること。
 この調べモノは、大学の図書館と、現地でであった緑の目をした少年のナイスな誘導によって滞りなく解決する。その滞りのなさ具合はまったく見事。読んでるほうとしてはベータ2に関する謎解きはストーリーの流れに身をまかせておけばよいのでとても楽チン(笑)。だが、この滞りのなさが本作のテーマその1。ここに出てくる<破壊者>は知識を蓄えたいわゆるホストコンピュータ、<破壊者の子どもたち>はクライアント端末、そして、将来、人間は端末に尋ねれば簡単に答を得られるようになるし、学問の探求がとても簡単になるだろう、といいたいらしい。まったくその通りになりました(笑)。
 さらに想像すると、もしかしたらディレイニーは、そんなシステムの登場によって本当に困難に満ちたアドベンチャーに直面する機会が少なくなる、人は「耐圧ゲル」の中のような安全な場所にいたまま冒険の答を得られるようになるといいたかったのかも。
 <破壊者の子どもたち>の生い立ちに注目すると、かれらは船のクルー、リーラ船長から生まれ、片目族のメリルに育てられた。後半、明らかになるが船には3種類の人間がいた。クルーはその立場から軍人を、片目族は学者を、シティに住むその他の儀式好きな連中は衆愚(笑)を象徴している。上記のコンピュータシステムは軍事から生まれるが、学者が知識を教え込むということだ。ちなみに、本作品の中では緑の目のガキんちょと衆愚の交流はまったくない。ディレイニーもさすがに現在のインターネットの大衆化までは予想できなかったようだ(←あたりまえ)。
 さて、衆愚による片目族虐殺はなにを象徴しているか? 時代的に近いのは「赤狩り」だろうか? ただし、赤狩りはWikipediaによると「1948年頃より1950年代前半にかけて」ということで、この小説が書かれた時代より10年ほど古い。それよりも、全体的に色に関する記述が多いことや、知識人の虐殺、その理由が些細な体の特徴であること(「眼鏡をかけている、手がきれい(労働階級ではない)という理由だけで処刑された事例もあった」・・・Wikipediaより)、<髑髏(しゃれこうべ)>などなどを読むと、クメール・ルージュ(ポル・ポト派)によるカンボジアの大虐殺のほうを思い浮かべてしまう。もちろん、時代的に合わないのでそんなことはないのだが・・・。人間は愚かなので何度でも同じ愚を繰り返すというだけのことだろう。
 その他、各所に出てきた色の意味や、ブラント艦長とリーラ艦長の40年ぶりの再会の意味するところはよくわからない。気づいてない要素もまだまだいっぱいありそうだし。
 ディレイニーは読み応えがあるねぇ(笑)。

その他;

  • 青いの(一次記録であることを示す) (P.19)
  • ベータ2は・・・まだ青い光が燃えている。(P.21)
  • 緑の炎のように光る難破船(P.28)
  • ここは真紅だ。(P.72)
  • 『白鯨』、『イリュミナシオン』、『ヴォエッジ・オレステス』、『ウロボロス』⇒ 『白鯨』はハーマン・メルヴィル(1851年)、『イリュミナシオン』はランボーの詩集、『ヴォエッジ・オレステス』はディレイニーの幻の作品(笑)、『ウロボロス』は自分の尻尾を自分で飲み込んでる蛇、または、竜のシンボルで、「死と再生」、「不老不死」を象徴するらしい(Wikipediaより)。
  • ティツィアーノの「聖母被昇天」⇒ こんなところ参照。これがあとでリーラ艦長につながる。
  • 「かれらは、やめろといわなかった」(P.109)⇒ まったくコンピュータらしい言い草(笑)。

 

『四色問題』 バリトン・J・ベイリー

 パス!

 

『降誕祭前夜』 キース・ロバーツ著

  ナチス・ドイツに負けたイギリス政府と、敵対する自由戦線が存在する。主人公のマナリングはその戦いに巻き込まれた。
 降誕祭前夜のパーティでは、出席者の子どもたちが芝居の悪魔に脅かされ、芝居の光の女王に導かれ、恐怖と希望を演出したプロデューサーからご褒美のプレゼントをもらって喜ぶ。その心には現政府の思想が刷り込まれる。
 マナリングも政府と自由戦線の恐怖と希望の演出に翻弄される。最後は自由戦線の策略のまま連携担当大臣を暗殺するが、どちらのプロデュース力が勝っていたかなんて問題じゃない。結局、マナリングは駒に過ぎなかった。どんな世界になろうと、個人の意思なんて踏みにじられるだけなのだ。

 

 『プリティ・マギー・マネーアイズ』 ハーラン・エリスン著

  いつの世でも、どんな場所でも、男と女の関係なんてこんなものなのか(笑)。
 てゆうか、コストナーはカジノにくる前に妻の(つもりだった)スージーにも裏切られてるんだけど!
 やっぱ、男はそうなんだろうねぇ(笑)。

 

『ハートフォード手稿』 リチャード・カウパー著

 予備品が手に入らない場所に出かける際は、予備品も持参しようという話。
 現代のコンビニに慣れきった日本人にぜひ読んでもらいたい(笑)。

 

『時の冒険家たち』 H・G・ウェルズ著

  まず気づくのは、そのお堅い文章。でも、冗長ではない。1から10まですべて説明したいが、11以上説明する気はないよ、といった感じ。10のところ3ぐらいしか説明しないハーラン・エリスンとは対照的(笑)。


『パパラギ』

2008年02月25日 | エッセイ
ツイアビ著
出版:立風書房(1981/4/30)
初出:1920
ジャンル:評論
評価:7/10

 西欧文明に毒された人たちに、自分たちが何を失ったのか教えてくれる本。
 ・・・ではあるが、おいらのように何十年も生きていると、ここに書かれているテーマには人生の中ですでに何度も遭遇しているわけで、もはやこれを読んでも何にも感じなくなってしまった・・・。ツイアビの演説が悪いわけではないし、パパラギ的な今の自分の生活を肯定しているわけでもない。ただ、この本を読んだタイミングが悪かっただけ。だから、心に響かなかった・・・てゆうか、20年以上前に買ったんだから、そのとき読めばよかったんだよな(爆)。

 この本に書かれた内容は、今もまったく色あせていない。逆に考えると、人類がまったく進歩していないということだ。いわゆるパパラギ文明に侵され心を失った人間がたくさんいて、それを嘆くカウンターカルチャーが存在するという構図、これが『パパラギ』初版が出版された1920年から延々と今日まで続いている。
 はっきり言って、人間ってバカだなぁ。
 そろそろパパラギズムから完全におさらばするか、カウンターパパラギズムをすっぱりあきらめるか、パパラギ文明の中に神の大いなる心を見つけ、パパラギっても愛に包まれ満足できるような思想でも構築する作業を始めたほうがいいのではないか?
 ・・・と思ったが、それができないところをみると、パパラギ vs. 反パパラギというのは人間の本能に根ざした衝動なんだろう。D.N.A.に刻み込まれてるんじゃしょうがない。あきらめよう!

 ここに書いてあることで1つだけ新鮮に思えたことがある。
 カウンターカルチャーというとすべての自然になにかが宿っているような多神教、あるいは、アニミズムといったものを思い浮かべてしまうが、本書は違う。ツイアビはキリスト教だけは認めている。それまでの自分たちは闇の中にいたが、宣教師によって「神とはなにか」を学び、光ある場所に導かれたということらしい。
 ツイアビたちはとっても素直だなぁ。でも、自分たち本来の文化とどこらヘンで折り合いをつけてるのかなぁ。さらに、服を着たり、よ~く働いたりすることをこの本では批判してたが、それってキリスト教の教義に反してない? いや、ホントは反してないのか? そこらヘンはキリスト教徒ではないのでよくわからないし、よくわかろうとも思わないので、ここいらでおしまい。

『世界の中心で愛を叫んだけもの』

2007年04月06日 | SF
作者:ハーラン・エリスン
出版:ハヤカワ文庫(1979/1/20)
初出:1971
ジャンル:SF
評価:9/10

 ここには、おもしろいものから、よくわからないもの、若いものから出来上がっちゃったものまで、幅広い作品が収められている。しかし、いくつかの作品からは共通する明確なテーマが読み取れる。それは、当時の政治システムへの怒りと、安定/停滞だけを目的とし規格外のものを排除する社会への批判である。そして、そんな鼻持ちならない世界を何とかしようと思うのだがどうあがいても何も変わらない、そんな焦燥感、絶望感が色濃くあらわれている。
 この短編集のタイトルにも選ばれた『世界の中心で愛を叫んだけもの』では、規格に合わないものを排除し、刺激もなく生き延びることだけを目的とする社会を批判し、さらに自分たちの生活の安寧のためには他の世界の暮らしなど省みない社会を批判する(これはつまり、当時の代理戦争のことではないだろうか)。『眠れ、安らかに』では、世界から戦争をなくし、同時に人類の進歩をもなくした権力を葬り去り、ふたたび競争のある世界を取り戻す。『サンタ・クロース対スパイダー』は世界を混乱と無秩序に陥れる悪者として、当時の政治家たちを実名で批判する。『殺戮すべき多くの世界』では偽善と策謀にまみれた現代国家群を破壊し、「すべての世界が相互信頼のうちに結び合わされる」ことを夢見る。
 エリスンはあまりに高い理想を持ってしまったがために、現実の社会が許せなかったに違いない。その怒りがウルトラ・バイオレンスとなってほとばしったのだ。
 ウルトラ・バイオレンス作家というレッテルが一人歩きしている感のあるエリスンだが、彼を駆り立てるものに注目すれば、この本の真の姿が見えてくるはずだ。そして、エリスンが矛先を向けた悪が現代でもまったく変わらずに生きつづけていることを知るだろう。

「世界の中心で愛を叫んだけもの」
 「ついてこれないヤツはついてくるな」というエリスンの強烈な個性がはじける作品です。で、かなり、ついていくのは難しい...
 まずは物語でもっとも重要な狂気の排出について整理したい。これについて、センフは「いちばん強力な悪霊を、いちばん栓の抜けやすいびんに閉じこめるようなもの」で、排出先の人々は「それと一緒に暮らす」ことになると説明している(P.34)。排出された狂気は、シュツットガルトに「7色の箱」としてあらわれ、フリードリヒ・ドルーカーがこれを開けてしまったために「第四次世界大戦の口火が切られた」(P.35)。排出そのものは永遠に続くらしい(P.34)。そして、排出元である「クロスホエン(交叉時空)」から排出先の7色の箱までは力線の場が「時空間と人びとの心を貫いて脈動」(P.31)していて、この力線に貫かれた人間は狂気にとらわれる。フン族の王アッティラ、ゴート王アラリクス、ヴァンダル王ゲイセリクス、そして、ウィリアム・スタログ。

 センフは排出に反対しているので、ライナに排出を延期するよう頼むが、叶わないと知ると狂気と自分自身を同時に排出することで「排出機構を過負荷とし、それによって作動不能に持ち込」(P.33)もうとするが、すぐにライナに止められる。
 ということで、この小説の主張するところを抜き出すと、以下の4つぐらいか?

(1) 世の中に狂気は必要であるということ。
 センフは(狂気がなくなると)「残されたものは、持つ価値のないものだろう」(P.27)という。また、狂気を吸い取られたあとの竜が人間の姿に変化したことから、狂気が人間の本質とまでは言わないにしても、人間の重要な構成要素に狂気が含まれるぐらいのことは言いたいんだろう。もしくは、狂気の存在を許さない世界なんていうのは、結局、政治によって自由が制限された世界である、ということかもしれない。なお、排出されたセンフがパピルス=書物に変わることからも作者の投影と思われる。

(2) ひとンちにゴミを捨てちゃいけないということ。
 狂気を排出される側に対するセンフの台詞として繰り返し述べられている。この排出が具体的に何を象徴するのか、アメリカが自国外でおこなった水爆実験なのか、冷戦時代のイデオロギー輸出なのか、登山者が持ち込んだゴミによりエベレストや富士山が汚されていることをさしているのか、最近日本でも問題になっているコンビニのゴミ箱に家庭ゴミを捨てる問題をさしているのかまではわかりませんが、とにかくゴミは持ち帰りましょう。

(3) 政治が科学を利用することへの怒り。
 センフは、ライナの「科学は民衆の意思にしたがうものさ」(P.26)という言葉に反発し、狂気の排出を、身を呈して止めようとする。「民衆の意思」なんていうのは政治家が自身の野望を言い換える際の常套句であり、ここに述べられているのは政治と科学の対立である(ちなみに、これはウォルター・M・ミラー・ジュニア『黙示録3174年』でも重要なテーマとなっている)。

(4) 政治的闘争とその犠牲について。
 センフはライナに対し、「きみは闘争のしかたを学ばずじまいだった」(P.34)と語りかけている。もともと狂気の排出はライナが代訴官になるための政治的取引の材料にされていたようすがうかがえる。しかし、これは代訴官をエサに狂気という汚染を人類に引き受けさせようという他の種族による策略ではなかったのか? 現実世界に置き換えてみれば、同じような取引は現在でも多くおこなわれている。経済支援をエサに自国の軍隊を駐留させたり、関東で消費する電力が新潟の原発で作られてたり・・・こりゃちがうか。

 ここで、タイトルの『世界の中心で愛を叫んだけもの』について考えたい。「世界の中心」は「究極の中心」(P.23)たる「交叉時点」だろう。「愛を叫んだけもの」は? 愛を直接口にしているのはセンフだが、ここで指しているのはライナのような気がする。「愛の名において」(P.34)、つまり、同胞への近視眼的愛のためにその他の「彼ら」を切り捨てたライナを「けもの」と言っているのではないか?
 狂気の力線に貫かれたスタログも最終控訴審で愛を叫ぶ。それはライナの思想のコピーだ。スタログは「天国」(P.35)にいる「神様に誓って」(P.23)「みんなを愛している」(同)と叫ぶ。狂気に取り付かれて人殺しをするのは交叉時間の同胞たちを「時の果てまで」(P.33)生き残らせることになるのだから。

 ここにいたって、これは当時のアメリカ・ソ連のイデオロギー輸出を描いた小説のような気がしてきた。スタログの大量殺人やアッティラの侵略は朝鮮戦争やベトナム戦争など大国の代理戦争の投影ではないか? 上記の(1)は言論統制、(2)はイデオロギー輸出そのもの、(3)は核爆弾や生物・化学兵器の開発、(4)は大国に利用されるアフリカ・アジア・東ヨーロッパの諸国のことではないかと。

 けもの=狂気=自分を中心に世界が回っていると思い込んでいるアメリカ・ソ連が叫んでいる・・・オレたちは人類の幸福を考えている、すべての人類を愛していると・・・そして行き着くところは、第3次世界大戦...(小説の中では「第四次世界大戦」(P.35)としてるけど)。そして、当時も今も、大して世の中変わっちゃいないと。

 この小説は、極限まで無駄を排した物語であり、言わずもがなのことは言わないという書き方を徹底してつらぬいている。それにより、他の小説では味わえないスピードと密度を感じることができるのだが、ちょっと削りすぎじゃない?(笑) まぁ、たったの15ページでこの物語、ものすごい小説であることは確か。

 ところで、スタログの像を発見することで、人間に「地獄が彼らとともにあることを、そして、天国と呼ばれるものが事実存在すること」(P.35)がわかるのだろうか? どちらかというと、意地悪で厭味たっぷりな出歯亀宇宙人が存在すると解釈しそうだけど。

「101号線の決闘」
 マッハGoGo、あるいは、チキチキマシン大レース。ここらへん、エリスンはすでにあるイメージを利用するのがうまい。しかし、エリスンとしては、中年のジョージじゃなくて、若くて反社会的なビリーの方を応援するんじゃないのか?

「不死鳥」
 描かれているのは、何度も同じような破滅を繰り返し、嫉妬や妬みなどの昔からの感情が逃れることができない愚かな人間である。しかし、このタイトルには何度災厄に見舞われてもその都度文明を復興させる不死鳥としての人類への期待が込められている...かな?

「眠れ、安らかに」
 今度はサンダーバードか?
 それは置いといて、物語を構成する数々のイメージは魅力的で、何よりテンポがいい。そして、内容は管理されること/変化しないことへの反逆。さらにおまけとして、管理する側が自己満足の中で無力化されてしまうという皮肉つき。

「サンタ・クロース対スパイダー」
 サンタクロースが007になって、映画『バットマン』に出てくるジョーカーのような悪者と戦う話。おもしろい部分だけをダイジェストで書き、かったるい部分はすべて飛ばしているので、おもしろくないわけがない。もちろん、これが成り立つのは作者と読者の間に共通の知識があるからこそ。だから、007やバットマンや、よくある勧善懲悪もののパターン(ザコキャラとか最後のボスをやっつけたと思ったら実はまだ生きていた!みたいな)を知らない読者には、何がなんだかわからない。ということは、逆に作家は読者の共通認識に存在しないパターンを物語に登場させることができなくなるということ。つまり、足かせでもある。足かせをつけると、物語の展開が早くなる。おぉ、逆説的真実。
 さて、内容のほうでは、結局、S.P.I.D.E.R.が何の略なのかわからなかった。しかも、クリスが「しなければならないのは、そこから省略符を消すことだけ」といわれても...
 当時の市長/州知事/大統領などが槍玉に上がっているらしい。二人目のリーガン(レーガン元大統領だろう。1966~1974年までカリフォルニア州知事だった)が改心し、「すべてのアングラ新聞を購読して現実の世界を知る努力をする」と約束しているところがピカイチ。

「鈍いナイフで」
 誰か殺されちゃった人がいるんでしょう。

「ピトル・ポーウォブ課」
 パス!!

「名前の無い土地」
 ポイントは恋人たちが男同士という点なのか? それが昔、岩に縛り付けられちゃったり、公衆の面前でリンチされちゃったりしたのか? でもって、ゲイだけど頭がよくて、いろいろ人間の進歩に役立つことをしてくれたのか? よって、人類の進歩はゲイによってもたらされるという主張なんだろう。

「雪よりも白く」
 蓼食う虫も好き好き。

「星ぼしへの脱出」
 いったいどういうオチをつけてくれるのかと思ったら、あっと言わせる結末。途中、ご都合主義も見えるが、57年で作者もまだ若い頃、オーソドックスでまじめな頃の作品。

「聞いていますか?」
 見えなくなっちゃったら、それでいいと思う...
 たぶん、エリスンが見えなくなったら、この主人公のような行動をとるんだろうが、エリスンはそんな玉じゃないし。

「満員御礼」
 芸術のために、飢えを忍ぶ話。そして、興行師の怪しい生態について。

「殺戮すべき多くの世界」
 本来なら分厚い2分冊の長編小説として書けそうなテーマを36ページで描ききっている。しかも、『サンタ・クロース対スパイダー』のように、既存のイメージを再利用しているわけではなく、これ自体単独で。
 ここには、表面上は狂気としかとれない行動の内に秘められた究極の愛がある。・・・まるで『世界の中心で愛を叫んだけもの』の返歌のようだ。
 『殺戮すべき多くの世界』とは、偽善と嘘と裏切りに塗り固められた既存の政治システムである。だから、ジャレッドは銀河友邦体の代表を「かたり」と喝破する。ここらへん、書かなければならない事項を必要最低限のエピソードで無理なく描きこむエリスンの手腕に敬服する。
 できれば、ジャレッドとマシーンがまいた種が開花し、理想の世界が出現するときを見てみたいが、イリーナが思うように、「いままですべての神々が失敗してきたことが、この神にはできるというのだろうか?」 そこまで楽観的にはなれない冷静な作者、そして、自分がいる。常識人には所詮ムリだ。こんな大それたことを実現できるのは狂気だけなのだ。

「ガラスの小鬼が砕けるように」
 麻薬で精神が開放されると、いろんなものになっちゃうんだろう。

「少年と犬」
 別れた男 or 女が、自分のペットに向かって、「オレ or ワタシのことをわかってくれるのは、おまえだけ(だ)よ」と話しかける心理を描いているのだと思う。

『下流社会 新たな階層集団の出現』

2006年02月13日 | 評論
作者:三浦展
出版:光文社(2005/09/20)
初出:2005
ジャンル:評論
評価:6/10

 この本を読んでわかったこと;
 これからの中流は大変だぞ!? 少子化で労働力が減ってる上に、「オンリーワン」とか「自分探し」とか言ってる下流が増加=まともに働く人間が激減。上流は憑かれたように働きまくって、中流に無理難題を押し付けてくる。中流は下流に仕事を頼むがテキトーでいい加減な結果しか得られない。そして、中流は上流の要求に応えられず、成果主義の名のもと給料なし・・・。

 以下、本書の内容ついて、つらつらと。

 まず下流の暮らしがどんなものかというと、
 「瞬間的な盛り上がり」によってもたらされる「内的に幸福」な状態(=カーニヴァル)を持ちつつ、「客観的には搾取され、使い捨てられる」(P.184)
 ただし、これは社会学者・鈴木謙介の考えで、作者自身は搾取そのものが悪いと考えているわけではなく、
 私もやや危惧するのは、その瞬間的な盛り上がりさえもが、(中略)サッカーワールドカップなどの娯楽イベント的なメディアを中心にあまりに装置かされ、管理されている点である。(P.186)
ということらしい。
 こうした下流階層を意図的に作り出し、固定化させ、それによって逆に上流階層が世代的にも安定して人々を支配しつづける社会を作ろうとしているのが小泉で、
 少数のエリートが国富を稼ぎ出し、多くの大衆は、その国富を消費し、そこそこ楽しく「歌ったり踊ったり」して暮らすことで、内需を拡大してくれればよい、というのが小泉―竹中の経済政策だ。(P.265)
 とりあえず上流階層にはなれそうにないからおいといて、困っちゃうのは中流階層なんだよね。下流階層はてきとーで無責任な仕事しかしないから、その分の穴埋めを中流階層がやらないといけない。いままでの日本なら、上から下までみんなマジメだったから、上は「これやっといてね」といえば、仕事のスピードや量はともかく、それなりに間違いのないものができてきた。ところが、これからはそうはいかない。「これやっといてね」といっても完成度60%ぐらいのものしかできてこない。残り40%は間違い含みで。こうなってくると、ここに新しい倫理基準みたいなものが必要になるんじゃないのかな? 「てきとー」なことを前提にした基準が・・・。
 ・・・とか考えていたら、
 フリーターやニートと、大企業で働くビジネスマンが、すでに「おれたちとあいつら」のような関係になっていないとは言い切れない。
 上流が下流のだらだらした生き方をどこまで許容できるかという問題が起こりつつある。上流が下流の生き方を、自分にはできない自由な生き方として憧れることがなくなり、単に自堕落で無責任な生き方として否定するかも知れない。(P.263)
 ヤバイ、見透かされた!(笑)
 まぁ、「かも知れない」じゃなくて、まさにその通りになっているんじゃないのかな。イラク人質事件のバッシングも根はここらヘンにあるような。
 そして、いつか、上流と中流は下流を慮ることがなくなる。ブッシュがイラクの庶民の暮らしを慮らないように、いや、アメリカの失業者層の気持ちすら慮らないように。(P.265)
 でも、中流には下流を慮ってる余裕なんてないです。下流が増えるってことは中流以上の労働人口が減ってるってことで、いまはその減った労働人口分を中流以上が「根性」でカバーしているような状態。まったく、人口そのものが減ってるっちゅうのに(笑)。最近のサラリーマンが忙しすぎるのって、下流社会の出現にも原因があるんだよね。で、結局、忙しすぎるので心が荒んでるんです。
 こいつを何とかするためには、もはや、生活レベルを落とすしかない。たとえば、電車は必ず遅れるものだとか、ブルース・リーのDVDを注文してもたいていジャッキー・チェンが届くとか、年に数回停電するとか、牛肉の中にたまには特定危険部位が混ざっているとか、原子力発電所もときどき放射能漏れを起こすけど、とりあえず安全基準値以内だとか。
 要は、いまの日本って、そういう「究極の選択」みたいな議論が必要なところまできてるんじゃないかと思えるのです。
 思えるのだけど、めんどくさいから考えない(笑)。
 ところで、作者の三浦展は階層の固定化を防ぐための提案をしているが、採用するかどうかは支配者層の胸三寸だからね。階層化社会によって日本が悪くなったということがはっきりわかるまで、採用されることはないだろう(←悲観論者)。

 さて、その他のおもしろかった部分。

 階層化社会では同じ物を、安く大量に作ることより、上流階級向けに高級なものを作ったほうがいいらしいよ! そのほうがトータルで利益が出ると。

 女性の類型について。それぞれの定義は本を読んで確かめてください。
  1. お嫁系。とくに
     名古屋嬢とは、ピンクをどこかに取り入れたコンサバティブなファッション、髪は内側にくるくると巻き、ブランド物が好きな女性で、名古屋地方に多い。(P.44)
  2. ミリオネーゼ系

  3. かまやつ女系

  4. ギャル系

  5. 普通のOL系
     「ケイコとマナブ」を読んでフラワー教室やらアロマテラピー教室やらゴスペル教室やらに通っては自分さがしと癒しとプチ自己表現に明け暮れている。(P.66)
 次に男の類型。ロハス系だけながながと引用してるのは、ヤバイくらい当てはまってたから! 今まで読んだことはなかったが、早速、『ソトコト』は読んだよ(ビミョーだったが)。次はパタゴニアだな(笑)。
  1. ヤングエグゼクティブ系

  2. ロハス系
     出世志向が弱い。マイペースで自分の好きな仕事をしていきたいと考えるタイプだが、イヤな仕事でもそつ泣くこなす業務処理能力もあるので、フリーターになるタイプとは異なる。ヤングエグゼクティブ系の男に対しては、教養がなくて暑苦しい奴だと内心軽蔑している。
     自分の趣味の時間を増やしたいと考えているが、とはいえ忙しいので、それほど趣味の時間が多く取れるわけではない。よって、雑誌、本などを見て代償する日々が続く。雑誌で言えば『ソトコト』『サライ』を愛読するタイプ。
     (中略)
     消費面では、有名高級ブランドには関心が弱いが、ひとひねりしたそこそこのものを買うのが自分らしいかなと思っている。外車が好きだが、ベンツやBMWではなく、できればジャガーやプジョーがよいと思っている。高級感や値段でおどかすものより、知性と上品さが重要。品質、製造方法、伝統、文化などについての薀蓄があるものを好む。よって無印良品もやや好き。環境問題に熱心なアウトドアウェアメーカーのパタゴニアなども支持する。
     古本、骨董、真空管アンプ、中古家具、古民家など、やや古めかしいアナログ趣味の世界に浸るのも好き。(P.77~78)
  3. SPA!系

  4. フリーター系
 次は『ドラゴン桜』について。
 『ドラゴン桜』の面白さは、社会にある不平等を、自由、個性、オンリーワンなどという言葉で隠している大人の欺瞞を暴き、子供たちに社会の真実を知らしめ、だからこそあきらめずに努力しろと主張するところにある。
 そして、東大に入れるかどうかは先天的な能力の差ではなく、挨拶をするとか、脱いだ靴を揃えるといった当たり前の生活態度が基礎にあり、その上で問題をテキパキと解いていくことが重要だと主張する。(P.177)
 『ドラゴン桜』を読まなくて済んだよ、これだけわかれば十分(笑)。勝ち組・負け組論も含め、ここらヘンの考え方は最近のトレンド。ところが、
 ちなみに「百ます計算」で有名になった陰山秀男は、実は「百ます計算」だけで学力を向上させたのではないという。では何をしたかというと、「早寝、早起き、朝ごはん」を習慣づけたのである。(P.177)
 160年前の本、ウィリアム・A・オールコットの『知的人生案内』という本にも早寝早起きは書いてあった。これだけはトレンドとはまったく関係ないらしい。はぁ~、早寝早起きに再度チャレンジするか・・・。

 「第四山の手論」(P.236~)がおもしろい。
 第一は江戸時代、上野の山の西側にあった本郷台のこと。第二は明治・大正時代に、山手線内の西半分が住宅地化したころ。第三は大正末期から昭和にかけて、第二山の手の西側が開発された。理由は関東大震災によって東京の東側が壊滅し、西側に移り住んだため。さらに、戦後、東急田園都市線の沿線地域が開発され、住民の高齢化とともに高級住宅化した。これが第四山の手。ただし、
戦後、山の手は本格的に大衆化する。(P.242)
 山の手そのものの面積が広がって、山の手人口も増えたのだ。
 また、
 郊外で生まれ育った若者は、学校も買い物も職場も郊外ですませようとする。町田や大宮や柏などの郊外の商業拠点地域が近年人気なのもそのためだ。わざわざ新宿や池袋や上野に出てこなくても、事足りるのである。(P.253)
 これにより自分が住む「郊外」だけが生活圏という「村」化が進んだ。これも階層の固定化政策の一端か?と思ったら、正高信男『ケータイを持ったサル』に別の仮説を発見! この本もおもしろいぞ!!

 それから、三浦展は宮台真司の結婚相手や(P.155)、amazonの読者レビューにまでツッこんでる(P.108)。ほっといてあげれば?と思ってしまうんだけど(笑)。

 なお、評価があまり高くないのは本書の大半を占める統計の結果提示とその「感想」が退屈だったからです(笑)。いや、いろいろおもしろい仮説が書いてあることはわかるんだけど、検証による証明がムリなんだから信じていいのかどうか眉唾だし、なんとも散漫な印象を受けたので(笑)。

『カルト王』

2006年01月04日 | エッセイ

作者:唐沢俊一
出版:冬幻社文庫(2002/12/25)
初出:1997
ジャンル:エッセイ
評価:7/10


 いろんな知識が詰め込まれた書。孫の代まで語り継ぎたいので、いくつかピックアップして書き残しとこっと!

Ⅰ オカルトの章

  • 「ポリオ(小児麻痺)」(P.16)はポリオウィルスに感染し、それが脊髄に入り込んだ場合に手足の麻痺などを引き起こす病気のこと。その割合は数百人から千人に一人。日本では1960年に大流行となったが、予防接種の徹底によって現在は発生していない(厚生労働省のHPより)。第32代アメリカ大統領フランクリン・デラノ・ルーズベルトも39歳のときにポリオにかかり、常に車椅子を使ってたそうな(wikipediaより)。
  • オカルトというのは「会社か軍隊の組織のようなヒエラルキー世界として表現されている」(P.22)。
  • 「心霊家の人々は(中略)決して自分を責めない。『いいのよ、それでいいのよ』とささやいてくれる慈母のごとき神様だけと向き合って生きている」(P.30)とか、「自分への正当化の手段としてオカルトを使い、それを悪用している」(P.31)というのは、オカルトに限った話ではないね。人間だれでも自分を肯定したがるもの。「大人はみんなウソつきだ」というのも、「自分は家庭を第一に考えたいから」といって仕事の手を抜く人間だって同じ匂いがする。原子力発電所の制御装置の設計者が、早く家に帰りたいからと詳細を検討せずに適当な制御盤を作ってはいけないはずだ。で、しょうがないから家庭を犠牲にして働いているというのが日本のサラリーマン・・・だと思ってたんだけど、最近は違うのかな? いろいろ重大事故が起きてるところをみると、その分、家庭は円満になっているのでしょう。
  • 「どの業界にもゴロと呼ばれる人種はいる。芸能界、出版界、音楽界……ゴロにはゴロなりの人脈、情報網があって、彼らがいなければ業界自体も動きが鈍くなる面も確かにあり、必要悪としてその存在を認める連中も多い」(P.32) ・ 「暴力団新法施行を機に資金繰りに困り果てたヤクザたちが組組織を宗教法人に鞍替えさせようと暗躍していた時期」(P.40)・・・「暴力団員による不当な行為の防止等に関する法律」平成3年成立(wikipediaより)。
  • 「郵便局員だった秋山眞人」(P.43)は超能力者らしいッス! よく知らんが(笑)。公式サイトはコチラ

Ⅱ クスリとカラダの章

  • 「エコロジー一派にとって、クスリは科学という悪魔が作り出したものであり人間の持つ自然治癒力を無視し、かえって弱めてしまうものでしかない」(P.73) 
  • 「原始時代から人間には本来、あらゆる病気をハネ返す自然のパワーが備わっており、それが文明の発達に伴い、自然状態から切り離された生活をしなければならなくなったことによってパワーが弱まり、今の人類総病気時代を招いたのだ」(P.74)
  • 「これらの意見は決して昨日今日のエコ・ブームに乗っかって言い出されたものではない。古くは17世紀ごろからヨーロッパで流行しだした思想であり、それから断続的に、文明の飛躍的な進歩があるたびにそのアンチテーゼとして浮上してきた。20世紀初頭にもこの一大ブームがあり、日本にも明治時代、すでに原始に帰れという運動がインテリ階級のあいだに広まっていた。その流れは大正モダニズム時代を経て、昭和は戦後になってまた現れてくる」(同)
  • 「世界にビタミン発見競争が巻き起こり、当然のことながら勇み足も続出した(たとえば不飽和脂肪酸にすぎなかったビタミンF、葉酸の発見で名前が消えたビタミンMなど)」(P.96)
  • 「ビタミンCは、人間にとっては必要不可欠である」。しかし、「ネコやイヌは、ビタミンCを体内で合成できる。したがって、犬用、猫用の飼料にビタミンCを含有させる必要性はまったくない」(P.97)
  • ビタミンなどを人体内部で作り出すことができないのは「たとえ必要不可欠なものであってもそれがきわめて微量なら、体内で合成するような複雑なメカニズムを進化させるより、その物質を含んだ生物を食用として摂取するほうがずっと効率がいいからである」(同)
  • 「人体が1日に必要とするビタミンCの摂取量は6~7ミリグラムとされている。これは、イチゴを生のまま1個食べれば十分に摂取できる量である。同様にビタミンAの1日2000IUはチキンレバーを一片食べるだけで摂取できる」(P.98)
  • 「ノーベル賞を2回も取っている」ライナス・ポーリング博士が、ビタミンを「大量に摂取したならば病気の治療に役立つのではないか、つまりビタミンに薬理的効果があるのではないか、と言い出した」(P.101)
  • 「19世紀の終わりには、ロシアの科学者ユーリ・メチニコフが、ブルガリア産のヨーグルトこそ健康と長寿の秘訣と考え」た。しかし、「後に、メチニコフがデータとした長寿村の人々の年齢報告には、かなりの誤りがあることがわかった」(P.102)
  • 「日本にドラッグ文化が育たなかった」のは、「日本人は自らの脳内で、麻薬とほとんど同じ成分で、しかもコカインなどよりはるかに強力な薬理作用を持つ物質を、欧米人の数倍もの量で作り出す能力を持っている」ため(P.107)。
  • エンドルフィンなどの「脳内快楽物質」は「脳へ痛みや不安などの緊張情報を送る神経の、SP (サブスタンスP)放出の働き」を抑制する。その結果、脳に送られる緊張情報の「量が減り、痛みが和らいだり、多幸状態になったりする」(P.109)
  • 「苦痛の果てに人格(あるいは能力)の向上があるという思想は、およそ人類に普通のものといえよう。そして、この思想をもたらしているのが、結局、苦痛の行き着くところにそれを数百倍の割合で上回る快楽が待っている、ということを人間が本能的に知っている」(P.112)
  • ドーパミンは「A10神経と呼ばれる快感を司る神経系での伝達を主な働きとしている」。(P.115)
  • 「A10神経の多くには、このドーパミンの分泌を抑制する働きの因子(「ギャバ」と呼ばれている)を分泌させる機能が」あり、「エンドルフィンなどの脳内快楽物質は、このギャバの働きを抑制することによってドーパミンの分泌を促し、それによって快楽を感じせしむる」。ところが、「A10神経のうち、人間の精神活動、殊に想像力を司る部分である大脳の前頭葉連合野を走るもの」は「ギャバが完全に抑制されている」(P.115)

Ⅲ セクシャリティーの章

  • ホモ雑誌の分類は「正統派の『薔薇族』、兄貴趣味の『さぶ』、美少年の『アドン』にマッチョの『バディ』、デブ専門の『サムソン』」(P.168)・・・憶えてどうするのかまったく不明だが、とりあえずメモ(笑)。
  • “やおい”の語源は「“山なし、落ちなし、意味なし”」(P.169)・・・コチラも上と同様。
  • 「オウム真理教という団体は、その悪趣味性ゆえに、すべての、日常に対し不満を持っている人間にとって、すさまじくオモシロイものであった。ここを押さえていないすべてのオウム論は、的はずれになることをまぬがれない」(P.180)

Ⅳ サブカルチャーの章

  • 「007映画のヒットの要因は、毒ガス噴射機つきのアタッシュケース、マシンガン装備のスポーツカーといったふうな、便利なようでいてどこかにオモチャ感覚のあるガジェットを、秘密兵器として主人公に持たせたところにある」。「自白剤や音波による精神攪乱機などといった仕掛けのよくわからない器具類は登場しない。そういうものは自らの肉体と直接につながらないからだ」(P.190)・・・『GO! GO! ガジェット』と『アイ・スパイ』を観た限りでは、「オモチャ感覚のあるガジェット」がたくさん登場するからといって映画が成功するわけではなさそうだ(笑)。
  • 「蒸気式サイボーグ、それこそ機械と人間の、もっとも幸福な合体のスタイルだと信ずるものである」(P.193)。すでに「スチームパンク」という言葉もあり、コチラはすっかり普及している模様。ウィリアム・ギブスンとブルース・スターリングによる『ディファレンス・エンジン』が代表作とのこと(wikipediaより)。アニメでは『名探偵ホームズ』があった。『ワイルド・ワイルド・ウエスト』(1999)という映画もあったが、「幸福な合体」をしたとしても、映画として成功するわけではなさそうだ(←手抜きコメント;笑)。
  • 「猟奇という言葉は、戦前は佐藤春夫が、そして戦後は江戸川乱歩が専売特許を取っている」(P.221)
  • 杉浦茂(『猿飛佐助』、『ドロンちび丸』など)は「絵の中のギャグ、情報量がやたらに多いのが特徴」(P.230)

『ジャマイカの烈風』

2005年07月17日 | その他小説
作者:リチャード・ヒューズ
出版:晶文社(2003/9/30)
初出:1929
ジャンル:イギリス小説
評価:5/10

 小さい子供は大人のように過去にとらわれることがない。だから、新しい環境にもすぐに溶け込む。兄弟が死んでもすぐに忘れてしまう。海賊に連れ去られた子供たちに、大人は自分の基準で「かわいそうね」とかいうが、本人たちはその正反対、毎日たのしく暮らしていた。そういう物心つかない子供を描いた小説としてピカ一だと思う。

 では、この小説を大人の自分が読んで得るものとはいったい? 親はなくとも子は育つので、放任主義でいきましょうということか、小さい子供のいうことはてきとーなので、話半分で聞きましょうということか? それとも、オレは子供の心を失いきってしまったので、何一つ読み取ることができないということなのか? そういう意味でナゾの小説。

『原子の帝国』

2005年06月09日 | SF
作者:A・E・ヴァン・ヴォークト
出版:創元推理文庫(1969/12/9)
初出:1956、1959
ジャンル:SF
評価:7/10

〔原子の帝国〕
 弱く何の力ももたない人間が、彼にしかあつかえない特殊な力を手にいれることで、人類最高の地位にのぼりつめる話。ちょっと古い言葉ではアメリカン・ドリーム。昔話にたとえれば、みにくいアヒルの子といったところ。しかし、そんなありきたりのストーリーも、ヴァン・ヴォークトの手にかかれば、こんなにおもしろい小説に仕上がりますよ、といういい例。もちろん、そんな簡単に「特殊な力」をひとり占めできるハズないじゃん!といったツッコミはおいておく。
 もうひとつ、最後に「これは・・・人間が宇宙を操っているということだろうか、それとも、宇宙が人間を操っているのだろうか」なんて哲学的なことがかかれているが、ここまでの話の流れからするとまったくのつけたりのような気がするんだが・・・。

〔見えざる攻防〕
 一瞬先の展開がまったく見えないおそろしい小説。結局、主人公スレードはまわりの状況のなすがまま。最終的に手を下すのは自分だが、その位置にたどり着くまでは不死人ジーアンとリーアに振り回されているだけ。まさにジェットコースターである。しかし、この主人公がなにも知らないというのがポイントで、本人がなにも考えていなかったからこそ、サトリの化け物の昔話と同じ原理で、結果的に相手のうらをかくことができたのだ。
 ま、とにかく、ヴァン・ヴォークトはおもしろいということで。

『ヒーザーン』

2005年06月08日 | SF
作者:ジャック・ウォマック
出版:ハヤカワ文庫(1992/7/10)
初出:1990
ジャンル:SF
評価:-8/10

 久々に反感をおぼえる小説である。
 まず第一に、その表現がひっかかった。マキャフリイが死人を生き返らせたことを話すジョアナにむかって、バーナードが話すセリフ「子供たちをサーカスにやれば、戻ってきて喋るのはピエロのことばかりだ」(P.49)や、「夜間外出禁止を示した標識は、銃撃でひどく穴だらけになっているから、おろし金に使えそうだ」(P.109)など、たしかに気の利いた表現なのだが、いたるところこんな調子ではかえって鼻につく。評価の分かれるところではあるが。

 さらに納得がいかないのが、その内容である。ここには、権力に支配された人びとが描かれている。一般市民はつねに生きるか死ぬかの瀬戸際を彷徨し、警察や軍隊、そして、ドライコ社のボディガードたちに、手当たり次第、殺されている。そして、サッチャーとスージーに仕える人間も、市民とはくらべものにならない贅沢な暮らしをしていても、この2人に支配され、踏みにじられていることに違いはない。
 が、ここでよくわからないのが救世主マキャフリイの存在だ。かれは救世主がもっていそうな力をもっているかのように行動し、思わせぶりなせりふを言う。しかし、人びとを救うようなことは何一つできず、権力者の激情により殺される。これにより、神をも恐れない現代の権力者たちや、この世に救いなどありえないことを描き出したかったのかもしれないが、マキャフリイがほんとうに救世主だったのかどうかわからないため、彼を殺すことが、どれほど罪深いことだったのかがわからないのだ。もっとも罪を低く見積もると、単に虚言癖の男を殺しただけなのかもしれない。だとすれば、この小説の価値もそれに比例して低くなる。

 主人公ジョアナは最後にはマキャフリイを追うように自殺するが、これは救世主を殺す片棒を担いだことへの罪の意識によるものではなく、ドライコのやり方と、現実社会と、これらに背を向けていた自分がいやになって死んだように思える。つまり、マキャフリイの最大の理解者であるジョアナでさえ、かれが救世主だと信じていたかどうか、わからないのだ。

 この小説には救いや成長があるわけではなく、また、困った現実を笑いとばすバイタリティがあるわけでもない。具体的な方向性もイメージも提示せず、ただ、何かが存在するような雰囲気だけをあいまいにただよわせている小説といえようか。

『知的人生案内』

2005年06月07日 | 評論
作者:ウィリアム・A・オールコット
出版:知的生きかた文庫(1984/11/10)
初出:1845
ジャンル:啓蒙書
評価:6/10

 原作は1845年に出版された本だが、ここに書かれたお説教は、そのまま現代人にもあてはまる。人類とは、着るものやすむ家は変わっても、中身は変わらないものということだ。
 だから、この本があれば、もはや啓蒙書なんてこれ以上出版する必要はないのだ。しかし、逆にいえば、世に啓蒙書はたくさんあるはずだから、わざわざ1845年のこの本を引っ張り出してくる必要はないともいえる。しかししかし、考えてみれば、こんな本あるだけ無駄である。どうせ人間は変わらないのだから。
 なんていっててもしょうがないので、とくに実践したい教訓をひろってみよう。
  • グルメやファッションなどの低い目的にふりまわされないこと。
  • 新聞を読むこと。そして、出てくる地理や歴史を調べることで知識を増やすこと。
  • 決めた時間に寝ること。
じゃ、寝るとしよう!

『金正日入門』

2005年06月06日 | ノンフィクション
作者:李友情
出版:飛鳥新社(2003/8/14)
初出:2003
ジャンル:現代北朝鮮史、コミック
評価:5/10

 江戸時代の悪い殿様を持った小藩の話のよう。あまりにデジャヴで、「たぶん、そうなんだろうなぁ」と納得してしまう。
 ・・・って、薄い感想だなぁ~(笑)。

『第三の波』

2005年06月05日 | 評論
作者:アルビン・トフラー
出版:中央公論社(1982/9/10)
初出:1980
ジャンル:評論
評価:8/10

 第二の波の解説は目からウロコ。学校教育とは工場の流れ作業で働かせるためのものだったのか。時間をまもる習慣も、結局は同じこと。そして、政治家は国家市場のまとめ役であり、選挙とは「市民がいまもなお主人公だと有権者を安心させる象徴的儀式」に過ぎないのだ。投票率の低下をなげいてみせ、選挙にいこうと呼びかけるマスコミのマヌケさ加減よ。しかし、そのマスコミも第二の波の道具のひとつに過ぎないのだが。とにかく、的確すぎます。敬服するしかありません。

 一方、第三の波のほうは・・・って、1980年時点の未来予測に対して、2004年にどうのこうのいうこと自体まちがっているのでなにもいいませんが、アルビン・トフラーが楽観論と期待を込めて描いた未来は、日本でいえば1990年代前半だったような気がする(たぶん、アメリカではその5~10年前にあたるんだろう)。
 バブルははじけちゃったけど、まだ小金はある、世の中にはいろんな選択肢があることも知ったし、人とちがうことに価値があるとおもうようになった(バブルのころは、金はあってもノリはみんな同じだった)、インターネットが普及しはじめ、そこには新しい技術と新しい概念があり、なにか、いままで見たこともないような世界が広がるような、そんな期待にあふれていた時代。ちなみにWired日本語版が創刊されたのは1994年、最初のころのWiredにはホントに未来がつまってた。

 しかし、その後、世の中は本格的に不景気になり、少数派が経済的に成り立つことがむずかしくなり、「勝ち組」「負け組」という単一価値観で物事を計るようになった(ちなみに、この言葉は1999年ごろから使われるようになったらしい)。
 これって、第二の波の逆襲を受けているところなんだろうか? それとも第三の波は、まだきてなくて、よくある個人主義的な方向へいったり、全体主義的な方向にいったりする「ゆれ」の一種にすぎないのだろうか? これについてうまく判断できないのは、結局、この本を読んでも、第三の波の本質をとらえられなかったせいだとおもう。第二の波については、「工場における大量生産」という本質からすべての現象が説明できた。しかし、第三の波の目に見える特徴、「非マス化」「判断の加速化」「生産=消費者(プロシューマー)」を生みだした本質については語られていないのだ。

 この本で書かれているような自分のために生産する「プロシューマー」はどうかと思うが、最近は自己責任が大流行。どの銀行に預金すればいいのか、その安全を見極めるのは預金者の責任だし、年金は確定搬出年金とかになって、自己責任で運用せねばならないのだ。第二の波世界では専門家にまかせておけば良かったものが、個人個人の責任で何とかしなければならなくなってきた。そういう意味での「プロシューマー」時代にはなってきている。やっぱり、第三の波なんだろうか・・・

『負け犬の遠吠え』

2005年06月04日 | エッセイ
作者:酒井順子
出版:講談社(2003/10/27)
初出:2003
ジャンル:エッセイ
評価:5/10

 これを読むと作者のあせりがつたわってきて、自分も結婚しなければ!ともうのだが、冷静になれば、そんな自分にあわないことは止めといたほうがいいとおもい直す。やっぱり、35にもなれば、そう簡単に自分の価値観を変えることはできないのだ。とりあえず、イヤ汁だけは出さないようにしよう。出す場合は人目につかないよう、こっそり出そう。