作者:ハーラン・エリスン
出版:ハヤカワ文庫(1979/1/20)
初出:1971
ジャンル:SF
評価:9/10
ここには、おもしろいものから、よくわからないもの、若いものから出来上がっちゃったものまで、幅広い作品が収められている。しかし、いくつかの作品からは共通する明確なテーマが読み取れる。それは、当時の政治システムへの怒りと、安定/停滞だけを目的とし規格外のものを排除する社会への批判である。そして、そんな鼻持ちならない世界を何とかしようと思うのだがどうあがいても何も変わらない、そんな焦燥感、絶望感が色濃くあらわれている。
この短編集のタイトルにも選ばれた『世界の中心で愛を叫んだけもの』では、規格に合わないものを排除し、刺激もなく生き延びることだけを目的とする社会を批判し、さらに自分たちの生活の安寧のためには他の世界の暮らしなど省みない社会を批判する(これはつまり、当時の代理戦争のことではないだろうか)。『眠れ、安らかに』では、世界から戦争をなくし、同時に人類の進歩をもなくした権力を葬り去り、ふたたび競争のある世界を取り戻す。『サンタ・クロース対スパイダー』は世界を混乱と無秩序に陥れる悪者として、当時の政治家たちを実名で批判する。『殺戮すべき多くの世界』では偽善と策謀にまみれた現代国家群を破壊し、「すべての世界が相互信頼のうちに結び合わされる」ことを夢見る。
エリスンはあまりに高い理想を持ってしまったがために、現実の社会が許せなかったに違いない。その怒りがウルトラ・バイオレンスとなってほとばしったのだ。
ウルトラ・バイオレンス作家というレッテルが一人歩きしている感のあるエリスンだが、彼を駆り立てるものに注目すれば、この本の真の姿が見えてくるはずだ。そして、エリスンが矛先を向けた悪が現代でもまったく変わらずに生きつづけていることを知るだろう。
「世界の中心で愛を叫んだけもの」
「ついてこれないヤツはついてくるな」というエリスンの強烈な個性がはじける作品です。で、かなり、ついていくのは難しい...
まずは物語でもっとも重要な狂気の排出について整理したい。これについて、センフは「いちばん強力な悪霊を、いちばん栓の抜けやすいびんに閉じこめるようなもの」で、排出先の人々は「それと一緒に暮らす」ことになると説明している(P.34)。排出された狂気は、シュツットガルトに「7色の箱」としてあらわれ、フリードリヒ・ドルーカーがこれを開けてしまったために「第四次世界大戦の口火が切られた」(P.35)。排出そのものは永遠に続くらしい(P.34)。そして、排出元である「クロスホエン(交叉時空)」から排出先の7色の箱までは力線の場が「時空間と人びとの心を貫いて脈動」(P.31)していて、この力線に貫かれた人間は狂気にとらわれる。フン族の王アッティラ、ゴート王アラリクス、ヴァンダル王ゲイセリクス、そして、ウィリアム・スタログ。
センフは排出に反対しているので、ライナに排出を延期するよう頼むが、叶わないと知ると狂気と自分自身を同時に排出することで「排出機構を過負荷とし、それによって作動不能に持ち込」(P.33)もうとするが、すぐにライナに止められる。
ということで、この小説の主張するところを抜き出すと、以下の4つぐらいか?
(1) 世の中に狂気は必要であるということ。
センフは(狂気がなくなると)「残されたものは、持つ価値のないものだろう」(P.27)という。また、狂気を吸い取られたあとの竜が人間の姿に変化したことから、狂気が人間の本質とまでは言わないにしても、人間の重要な構成要素に狂気が含まれるぐらいのことは言いたいんだろう。もしくは、狂気の存在を許さない世界なんていうのは、結局、政治によって自由が制限された世界である、ということかもしれない。なお、排出されたセンフがパピルス=書物に変わることからも作者の投影と思われる。
(2) ひとンちにゴミを捨てちゃいけないということ。
狂気を排出される側に対するセンフの台詞として繰り返し述べられている。この排出が具体的に何を象徴するのか、アメリカが自国外でおこなった水爆実験なのか、冷戦時代のイデオロギー輸出なのか、登山者が持ち込んだゴミによりエベレストや富士山が汚されていることをさしているのか、最近日本でも問題になっているコンビニのゴミ箱に家庭ゴミを捨てる問題をさしているのかまではわかりませんが、とにかくゴミは持ち帰りましょう。
(3) 政治が科学を利用することへの怒り。
センフは、ライナの「科学は民衆の意思にしたがうものさ」(P.26)という言葉に反発し、狂気の排出を、身を呈して止めようとする。「民衆の意思」なんていうのは政治家が自身の野望を言い換える際の常套句であり、ここに述べられているのは政治と科学の対立である(ちなみに、これはウォルター・M・ミラー・ジュニア『黙示録3174年』でも重要なテーマとなっている)。
(4) 政治的闘争とその犠牲について。
センフはライナに対し、「きみは闘争のしかたを学ばずじまいだった」(P.34)と語りかけている。もともと狂気の排出はライナが代訴官になるための政治的取引の材料にされていたようすがうかがえる。しかし、これは代訴官をエサに狂気という汚染を人類に引き受けさせようという他の種族による策略ではなかったのか? 現実世界に置き換えてみれば、同じような取引は現在でも多くおこなわれている。経済支援をエサに自国の軍隊を駐留させたり、関東で消費する電力が新潟の原発で作られてたり・・・こりゃちがうか。
ここで、タイトルの『世界の中心で愛を叫んだけもの』について考えたい。「世界の中心」は「究極の中心」(P.23)たる「交叉時点」だろう。「愛を叫んだけもの」は? 愛を直接口にしているのはセンフだが、ここで指しているのはライナのような気がする。「愛の名において」(P.34)、つまり、同胞への近視眼的愛のためにその他の「彼ら」を切り捨てたライナを「けもの」と言っているのではないか?
狂気の力線に貫かれたスタログも最終控訴審で愛を叫ぶ。それはライナの思想のコピーだ。スタログは「天国」(P.35)にいる「神様に誓って」(P.23)「みんなを愛している」(同)と叫ぶ。狂気に取り付かれて人殺しをするのは交叉時間の同胞たちを「時の果てまで」(P.33)生き残らせることになるのだから。
ここにいたって、これは当時のアメリカ・ソ連のイデオロギー輸出を描いた小説のような気がしてきた。スタログの大量殺人やアッティラの侵略は朝鮮戦争やベトナム戦争など大国の代理戦争の投影ではないか? 上記の(1)は言論統制、(2)はイデオロギー輸出そのもの、(3)は核爆弾や生物・化学兵器の開発、(4)は大国に利用されるアフリカ・アジア・東ヨーロッパの諸国のことではないかと。
けもの=狂気=自分を中心に世界が回っていると思い込んでいるアメリカ・ソ連が叫んでいる・・・オレたちは人類の幸福を考えている、すべての人類を愛していると・・・そして行き着くところは、第3次世界大戦...(小説の中では「第四次世界大戦」(P.35)としてるけど)。そして、当時も今も、大して世の中変わっちゃいないと。
この小説は、極限まで無駄を排した物語であり、言わずもがなのことは言わないという書き方を徹底してつらぬいている。それにより、他の小説では味わえないスピードと密度を感じることができるのだが、ちょっと削りすぎじゃない?(笑) まぁ、たったの15ページでこの物語、ものすごい小説であることは確か。
ところで、スタログの像を発見することで、人間に「地獄が彼らとともにあることを、そして、天国と呼ばれるものが事実存在すること」(P.35)がわかるのだろうか? どちらかというと、意地悪で厭味たっぷりな出歯亀宇宙人が存在すると解釈しそうだけど。
「101号線の決闘」
マッハGoGo、あるいは、チキチキマシン大レース。ここらへん、エリスンはすでにあるイメージを利用するのがうまい。しかし、エリスンとしては、中年のジョージじゃなくて、若くて反社会的なビリーの方を応援するんじゃないのか?
「不死鳥」
描かれているのは、何度も同じような破滅を繰り返し、嫉妬や妬みなどの昔からの感情が逃れることができない愚かな人間である。しかし、このタイトルには何度災厄に見舞われてもその都度文明を復興させる不死鳥としての人類への期待が込められている...かな?
「眠れ、安らかに」
今度はサンダーバードか?
それは置いといて、物語を構成する数々のイメージは魅力的で、何よりテンポがいい。そして、内容は管理されること/変化しないことへの反逆。さらにおまけとして、管理する側が自己満足の中で無力化されてしまうという皮肉つき。
「サンタ・クロース対スパイダー」
サンタクロースが007になって、映画『バットマン』に出てくるジョーカーのような悪者と戦う話。おもしろい部分だけをダイジェストで書き、かったるい部分はすべて飛ばしているので、おもしろくないわけがない。もちろん、これが成り立つのは作者と読者の間に共通の知識があるからこそ。だから、007やバットマンや、よくある勧善懲悪もののパターン(ザコキャラとか最後のボスをやっつけたと思ったら実はまだ生きていた!みたいな)を知らない読者には、何がなんだかわからない。ということは、逆に作家は読者の共通認識に存在しないパターンを物語に登場させることができなくなるということ。つまり、足かせでもある。足かせをつけると、物語の展開が早くなる。おぉ、逆説的真実。
さて、内容のほうでは、結局、S.P.I.D.E.R.が何の略なのかわからなかった。しかも、クリスが「しなければならないのは、そこから省略符を消すことだけ」といわれても...
当時の市長/州知事/大統領などが槍玉に上がっているらしい。二人目のリーガン(レーガン元大統領だろう。1966~1974年までカリフォルニア州知事だった)が改心し、「すべてのアングラ新聞を購読して現実の世界を知る努力をする」と約束しているところがピカイチ。
「鈍いナイフで」
誰か殺されちゃった人がいるんでしょう。
「ピトル・ポーウォブ課」
パス!!
「名前の無い土地」
ポイントは恋人たちが男同士という点なのか? それが昔、岩に縛り付けられちゃったり、公衆の面前でリンチされちゃったりしたのか? でもって、ゲイだけど頭がよくて、いろいろ人間の進歩に役立つことをしてくれたのか? よって、人類の進歩はゲイによってもたらされるという主張なんだろう。
「雪よりも白く」
蓼食う虫も好き好き。
「星ぼしへの脱出」
いったいどういうオチをつけてくれるのかと思ったら、あっと言わせる結末。途中、ご都合主義も見えるが、57年で作者もまだ若い頃、オーソドックスでまじめな頃の作品。
「聞いていますか?」
見えなくなっちゃったら、それでいいと思う...
たぶん、エリスンが見えなくなったら、この主人公のような行動をとるんだろうが、エリスンはそんな玉じゃないし。
「満員御礼」
芸術のために、飢えを忍ぶ話。そして、興行師の怪しい生態について。
「殺戮すべき多くの世界」
本来なら分厚い2分冊の長編小説として書けそうなテーマを36ページで描ききっている。しかも、『サンタ・クロース対スパイダー』のように、既存のイメージを再利用しているわけではなく、これ自体単独で。
ここには、表面上は狂気としかとれない行動の内に秘められた究極の愛がある。・・・まるで『世界の中心で愛を叫んだけもの』の返歌のようだ。
『殺戮すべき多くの世界』とは、偽善と嘘と裏切りに塗り固められた既存の政治システムである。だから、ジャレッドは銀河友邦体の代表を「かたり」と喝破する。ここらへん、書かなければならない事項を必要最低限のエピソードで無理なく描きこむエリスンの手腕に敬服する。
できれば、ジャレッドとマシーンがまいた種が開花し、理想の世界が出現するときを見てみたいが、イリーナが思うように、「いままですべての神々が失敗してきたことが、この神にはできるというのだろうか?」 そこまで楽観的にはなれない冷静な作者、そして、自分がいる。常識人には所詮ムリだ。こんな大それたことを実現できるのは狂気だけなのだ。
「ガラスの小鬼が砕けるように」
麻薬で精神が開放されると、いろんなものになっちゃうんだろう。
「少年と犬」
別れた男 or 女が、自分のペットに向かって、「オレ or ワタシのことをわかってくれるのは、おまえだけ(だ)よ」と話しかける心理を描いているのだと思う。
出版:ハヤカワ文庫(1979/1/20)
初出:1971
ジャンル:SF
評価:9/10
ここには、おもしろいものから、よくわからないもの、若いものから出来上がっちゃったものまで、幅広い作品が収められている。しかし、いくつかの作品からは共通する明確なテーマが読み取れる。それは、当時の政治システムへの怒りと、安定/停滞だけを目的とし規格外のものを排除する社会への批判である。そして、そんな鼻持ちならない世界を何とかしようと思うのだがどうあがいても何も変わらない、そんな焦燥感、絶望感が色濃くあらわれている。
この短編集のタイトルにも選ばれた『世界の中心で愛を叫んだけもの』では、規格に合わないものを排除し、刺激もなく生き延びることだけを目的とする社会を批判し、さらに自分たちの生活の安寧のためには他の世界の暮らしなど省みない社会を批判する(これはつまり、当時の代理戦争のことではないだろうか)。『眠れ、安らかに』では、世界から戦争をなくし、同時に人類の進歩をもなくした権力を葬り去り、ふたたび競争のある世界を取り戻す。『サンタ・クロース対スパイダー』は世界を混乱と無秩序に陥れる悪者として、当時の政治家たちを実名で批判する。『殺戮すべき多くの世界』では偽善と策謀にまみれた現代国家群を破壊し、「すべての世界が相互信頼のうちに結び合わされる」ことを夢見る。
エリスンはあまりに高い理想を持ってしまったがために、現実の社会が許せなかったに違いない。その怒りがウルトラ・バイオレンスとなってほとばしったのだ。
ウルトラ・バイオレンス作家というレッテルが一人歩きしている感のあるエリスンだが、彼を駆り立てるものに注目すれば、この本の真の姿が見えてくるはずだ。そして、エリスンが矛先を向けた悪が現代でもまったく変わらずに生きつづけていることを知るだろう。
「世界の中心で愛を叫んだけもの」
「ついてこれないヤツはついてくるな」というエリスンの強烈な個性がはじける作品です。で、かなり、ついていくのは難しい...
まずは物語でもっとも重要な狂気の排出について整理したい。これについて、センフは「いちばん強力な悪霊を、いちばん栓の抜けやすいびんに閉じこめるようなもの」で、排出先の人々は「それと一緒に暮らす」ことになると説明している(P.34)。排出された狂気は、シュツットガルトに「7色の箱」としてあらわれ、フリードリヒ・ドルーカーがこれを開けてしまったために「第四次世界大戦の口火が切られた」(P.35)。排出そのものは永遠に続くらしい(P.34)。そして、排出元である「クロスホエン(交叉時空)」から排出先の7色の箱までは力線の場が「時空間と人びとの心を貫いて脈動」(P.31)していて、この力線に貫かれた人間は狂気にとらわれる。フン族の王アッティラ、ゴート王アラリクス、ヴァンダル王ゲイセリクス、そして、ウィリアム・スタログ。
センフは排出に反対しているので、ライナに排出を延期するよう頼むが、叶わないと知ると狂気と自分自身を同時に排出することで「排出機構を過負荷とし、それによって作動不能に持ち込」(P.33)もうとするが、すぐにライナに止められる。
ということで、この小説の主張するところを抜き出すと、以下の4つぐらいか?
(1) 世の中に狂気は必要であるということ。
センフは(狂気がなくなると)「残されたものは、持つ価値のないものだろう」(P.27)という。また、狂気を吸い取られたあとの竜が人間の姿に変化したことから、狂気が人間の本質とまでは言わないにしても、人間の重要な構成要素に狂気が含まれるぐらいのことは言いたいんだろう。もしくは、狂気の存在を許さない世界なんていうのは、結局、政治によって自由が制限された世界である、ということかもしれない。なお、排出されたセンフがパピルス=書物に変わることからも作者の投影と思われる。
(2) ひとンちにゴミを捨てちゃいけないということ。
狂気を排出される側に対するセンフの台詞として繰り返し述べられている。この排出が具体的に何を象徴するのか、アメリカが自国外でおこなった水爆実験なのか、冷戦時代のイデオロギー輸出なのか、登山者が持ち込んだゴミによりエベレストや富士山が汚されていることをさしているのか、最近日本でも問題になっているコンビニのゴミ箱に家庭ゴミを捨てる問題をさしているのかまではわかりませんが、とにかくゴミは持ち帰りましょう。
(3) 政治が科学を利用することへの怒り。
センフは、ライナの「科学は民衆の意思にしたがうものさ」(P.26)という言葉に反発し、狂気の排出を、身を呈して止めようとする。「民衆の意思」なんていうのは政治家が自身の野望を言い換える際の常套句であり、ここに述べられているのは政治と科学の対立である(ちなみに、これはウォルター・M・ミラー・ジュニア『黙示録3174年』でも重要なテーマとなっている)。
(4) 政治的闘争とその犠牲について。
センフはライナに対し、「きみは闘争のしかたを学ばずじまいだった」(P.34)と語りかけている。もともと狂気の排出はライナが代訴官になるための政治的取引の材料にされていたようすがうかがえる。しかし、これは代訴官をエサに狂気という汚染を人類に引き受けさせようという他の種族による策略ではなかったのか? 現実世界に置き換えてみれば、同じような取引は現在でも多くおこなわれている。経済支援をエサに自国の軍隊を駐留させたり、関東で消費する電力が新潟の原発で作られてたり・・・こりゃちがうか。
ここで、タイトルの『世界の中心で愛を叫んだけもの』について考えたい。「世界の中心」は「究極の中心」(P.23)たる「交叉時点」だろう。「愛を叫んだけもの」は? 愛を直接口にしているのはセンフだが、ここで指しているのはライナのような気がする。「愛の名において」(P.34)、つまり、同胞への近視眼的愛のためにその他の「彼ら」を切り捨てたライナを「けもの」と言っているのではないか?
狂気の力線に貫かれたスタログも最終控訴審で愛を叫ぶ。それはライナの思想のコピーだ。スタログは「天国」(P.35)にいる「神様に誓って」(P.23)「みんなを愛している」(同)と叫ぶ。狂気に取り付かれて人殺しをするのは交叉時間の同胞たちを「時の果てまで」(P.33)生き残らせることになるのだから。
ここにいたって、これは当時のアメリカ・ソ連のイデオロギー輸出を描いた小説のような気がしてきた。スタログの大量殺人やアッティラの侵略は朝鮮戦争やベトナム戦争など大国の代理戦争の投影ではないか? 上記の(1)は言論統制、(2)はイデオロギー輸出そのもの、(3)は核爆弾や生物・化学兵器の開発、(4)は大国に利用されるアフリカ・アジア・東ヨーロッパの諸国のことではないかと。
けもの=狂気=自分を中心に世界が回っていると思い込んでいるアメリカ・ソ連が叫んでいる・・・オレたちは人類の幸福を考えている、すべての人類を愛していると・・・そして行き着くところは、第3次世界大戦...(小説の中では「第四次世界大戦」(P.35)としてるけど)。そして、当時も今も、大して世の中変わっちゃいないと。
この小説は、極限まで無駄を排した物語であり、言わずもがなのことは言わないという書き方を徹底してつらぬいている。それにより、他の小説では味わえないスピードと密度を感じることができるのだが、ちょっと削りすぎじゃない?(笑) まぁ、たったの15ページでこの物語、ものすごい小説であることは確か。
ところで、スタログの像を発見することで、人間に「地獄が彼らとともにあることを、そして、天国と呼ばれるものが事実存在すること」(P.35)がわかるのだろうか? どちらかというと、意地悪で厭味たっぷりな出歯亀宇宙人が存在すると解釈しそうだけど。
「101号線の決闘」
マッハGoGo、あるいは、チキチキマシン大レース。ここらへん、エリスンはすでにあるイメージを利用するのがうまい。しかし、エリスンとしては、中年のジョージじゃなくて、若くて反社会的なビリーの方を応援するんじゃないのか?
「不死鳥」
描かれているのは、何度も同じような破滅を繰り返し、嫉妬や妬みなどの昔からの感情が逃れることができない愚かな人間である。しかし、このタイトルには何度災厄に見舞われてもその都度文明を復興させる不死鳥としての人類への期待が込められている...かな?
「眠れ、安らかに」
今度はサンダーバードか?
それは置いといて、物語を構成する数々のイメージは魅力的で、何よりテンポがいい。そして、内容は管理されること/変化しないことへの反逆。さらにおまけとして、管理する側が自己満足の中で無力化されてしまうという皮肉つき。
「サンタ・クロース対スパイダー」
サンタクロースが007になって、映画『バットマン』に出てくるジョーカーのような悪者と戦う話。おもしろい部分だけをダイジェストで書き、かったるい部分はすべて飛ばしているので、おもしろくないわけがない。もちろん、これが成り立つのは作者と読者の間に共通の知識があるからこそ。だから、007やバットマンや、よくある勧善懲悪もののパターン(ザコキャラとか最後のボスをやっつけたと思ったら実はまだ生きていた!みたいな)を知らない読者には、何がなんだかわからない。ということは、逆に作家は読者の共通認識に存在しないパターンを物語に登場させることができなくなるということ。つまり、足かせでもある。足かせをつけると、物語の展開が早くなる。おぉ、逆説的真実。
さて、内容のほうでは、結局、S.P.I.D.E.R.が何の略なのかわからなかった。しかも、クリスが「しなければならないのは、そこから省略符を消すことだけ」といわれても...
当時の市長/州知事/大統領などが槍玉に上がっているらしい。二人目のリーガン(レーガン元大統領だろう。1966~1974年までカリフォルニア州知事だった)が改心し、「すべてのアングラ新聞を購読して現実の世界を知る努力をする」と約束しているところがピカイチ。
「鈍いナイフで」
誰か殺されちゃった人がいるんでしょう。
「ピトル・ポーウォブ課」
パス!!
「名前の無い土地」
ポイントは恋人たちが男同士という点なのか? それが昔、岩に縛り付けられちゃったり、公衆の面前でリンチされちゃったりしたのか? でもって、ゲイだけど頭がよくて、いろいろ人間の進歩に役立つことをしてくれたのか? よって、人類の進歩はゲイによってもたらされるという主張なんだろう。
「雪よりも白く」
蓼食う虫も好き好き。
「星ぼしへの脱出」
いったいどういうオチをつけてくれるのかと思ったら、あっと言わせる結末。途中、ご都合主義も見えるが、57年で作者もまだ若い頃、オーソドックスでまじめな頃の作品。
「聞いていますか?」
見えなくなっちゃったら、それでいいと思う...
たぶん、エリスンが見えなくなったら、この主人公のような行動をとるんだろうが、エリスンはそんな玉じゃないし。
「満員御礼」
芸術のために、飢えを忍ぶ話。そして、興行師の怪しい生態について。
「殺戮すべき多くの世界」
本来なら分厚い2分冊の長編小説として書けそうなテーマを36ページで描ききっている。しかも、『サンタ・クロース対スパイダー』のように、既存のイメージを再利用しているわけではなく、これ自体単独で。
ここには、表面上は狂気としかとれない行動の内に秘められた究極の愛がある。・・・まるで『世界の中心で愛を叫んだけもの』の返歌のようだ。
『殺戮すべき多くの世界』とは、偽善と嘘と裏切りに塗り固められた既存の政治システムである。だから、ジャレッドは銀河友邦体の代表を「かたり」と喝破する。ここらへん、書かなければならない事項を必要最低限のエピソードで無理なく描きこむエリスンの手腕に敬服する。
できれば、ジャレッドとマシーンがまいた種が開花し、理想の世界が出現するときを見てみたいが、イリーナが思うように、「いままですべての神々が失敗してきたことが、この神にはできるというのだろうか?」 そこまで楽観的にはなれない冷静な作者、そして、自分がいる。常識人には所詮ムリだ。こんな大それたことを実現できるのは狂気だけなのだ。
「ガラスの小鬼が砕けるように」
麻薬で精神が開放されると、いろんなものになっちゃうんだろう。
「少年と犬」
別れた男 or 女が、自分のペットに向かって、「オレ or ワタシのことをわかってくれるのは、おまえだけ(だ)よ」と話しかける心理を描いているのだと思う。