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家族団欒ブログ

家族団欒の広場です

紅茶の話(10)

2014年04月25日 | 物語・作品

                        紅茶と詩人

        
                            ムーサ九姉妹
出口保夫の本『アフタヌーン・ティの楽しみ』に書いてあった話を1つ。
17世紀のロンドンにエドマンド・ウォーラーという政治家・詩人がいました。チャールズ1世の処刑、クロムウェルによる清教徒革命・共和政治、そしてチャールズ2世による王政復古と、めまぐるしく変わる歴史の舞台を生き抜いた政治家で、それだけでは歴史に名を残すことはなかったが、彼は数々の詩を残し、いまでも歌い継がれています。そんななかに「王妃よりすすめられ、紅茶をうたう」と題した短詩があります。

    ヴィナスが身にまとう天人花(マートル)、アポロが冠る月桂樹、
    だがそのいずれにも勝る茶を 陛下はかしもくも讃美し給う。
    王妃のなかの王妃も この香ばしい木の葉も、
    陽がのぼる あの美わしき国に 道を拓いた かの勇敢なる民に負う。
    されば その豊かな飲み物を 賞でるこそふさわし。
    詩神の友なる紅茶は われらの想像を助け、
    よからぬ妄想を しずめてくれる、
    王妃の誕生日を 寿ぐに適わしく われらの心を 靜隠にたもつ。

「陛下」とはチャールズ2世、「王妃のなかの王妃」とはキャサリン・ブラガンザ(前回の「キャサリン・ブラガンザ」参照)を指し、「陽がのぼるあの美わしき国」とはもちろん中国を指す。詩人にとって茶は、想像力を助け、よからぬ妄想をしずめてくれるものであり、「詩神ムーサ(ミューズ)」にたとえています。
おそらくこの詩に登場する茶は、王妃キャサリンが精神安定剤としてポルトガルから船倉いっぱいにして持参した東洋の茶でしょう。詩人は、王妃の誕生祝の宴席に招待されたことがうれしくて舞い上がり、感謝を込めて詠んだのでしょう。
日本でも室町時代後期から安土桃山時代にかけてお茶は「茶道」へと発展したのですが、それはお茶が心をしずめてくれるからでしょう。
                                                       GG


紅茶の話(9)

2014年04月19日 | 物語・作品

                   キャサリン・オブ・ブラガンザ

イギリスでお茶を飲む習慣がひろまる契機をつくった貴婦人がいます。
ポルトガル王女キャサリン・オブ・ブラガンザ(1638~1705)がその人。イングランド国教会派のチャールズ王太子は清教徒革命が起こるとフランスに亡命したが、清教徒革命の中心人物クロムウェルが死亡すると国教会派が盛り返し、王政復古の声に迎えられて帰国し、イングランド王チャールズ2世に就任しました。そしてその2年後の1662年、チャールズ2世はポルトガル王女キャサリンと結婚します。
             
清教徒といえばプロテスタント系。オランダはその清教徒を支援していました。だからオランダはチャールズ2世にとって憎き敵です。一方のポルトガルはスペインと敵対関係にあるが、スペイン王とオランダ王は兄弟関係にあり、イングランドとポルトガルはオランダに関して利害が一致。それでイングランド王とポルトガル王女の政略結婚が成立し、イングランド王はポルトガルが支配していたインドのボンベイ(ムンバイ)を持参金として受け取ることになり、イギリスはインドに拠点を得ることになったのです。
                  
                       ポルトガルのリスボン港
ポルトガルは7隻の船を仕立ててキャサリンをリスボンはらロンドンに送り出したのですが、キャサリンにしてみれば海の彼方の見知らぬ国に嫁ぐため不安がいっぱい。そこで精神安定剤として大量の中国茶と東洋の茶道具や磁器を船に積んでいったのでしたが、やがてキャサリンの不安は現実のものとなりました。
チャールズ2世はキャサリンを一目で気に入り生涯大切にしたそうですが、英語が話せないキャサリンと言葉が通じないし、生来の女好きはおさまらない。チャールズ2世に愛人が14人、愛人との間にできた子どもが14人もいては、キャサリンは塞ぎこまざるを得なかったから、キャサリンは子どもに恵まれることもなく、取り巻きと中国茶を飲んで気を紛らすしかなかった。これがイギリスの宮廷に茶をひろめる役割を果たしたということです。
                                                     GG


紅茶の話(8)

2014年04月05日 | 物語・作品

                     オランダからイギリスへ

お茶がオランダで評判になると、イギリスがオランダから茶を買うようになりました。もちろんそれは中国茶で、その当時のイギリスはオランダ経由で手に入れるしかなかった。
しかし、イギリスはオランダに先がけて東インド会社を設立しアジアに拠点を持っていたから、手をこまねいていたわけではない。1637年には広州で自ら買い付けた中国茶50キロを積んだ船がロンドン港(画像左)に入港していています。 
   
やがてコーヒー・ハウス(画像右)にまでお茶が登場するようになりました。ロンドンのコーヒー・ハウス「ギャラウェイ」の茶の売り出しポスターには「古い歴史や文化を誇る国々は東洋の茶を、その重量の2倍の銀で売買している」と、お茶が高価なものであることを強調し、「頭痛、腹痛、下痢、記憶喪失、恐ろしい夢などの症状に効用があり、肥満には食欲調整、暴飲暴食には整腸剤にもなる」と良いことずくめの神秘薬として大いに宣伝したということです。
余談ですが、オランダもイギリスも東インド会社のアジアでの買付け品の主なものは香辛料で、その産地はジャワ島(インドネシア)でしたが、両者の買い付け競争は激化し、大虐殺事件にまで発展している。ジャワ島の東方にマルク諸島があって、そこにアンボン島(アンボイナ島)という島があるのですが、殺戮事件はその島で起こっています。
               
アンボイナ島は重要な香辛料産地で、16世紀初にまずポルトガルが進出。16世紀半にはオランダがポルトガルを追い出したものの、17世紀にはいると今度はイギリスが進出してきた。そこで事件が発生した。オランダはイギリスを駆逐しようとしてイギリスの商館を襲い、商館で雇われていた日本人をふくむ全員を殺害したのです(1623年。アンボイナ事件)。
この事件をきっかけに、オランダはジャワ島のバタヴィア(ジャカルタ)を拠点にインドネシアを支配し、ジャワ島を追われたイギリスはアジアの拠点をインドに移していくのですが、その話は日を改めて書くことにします。
                                                         GG


紅茶の話(7)

2014年03月24日 | 物語・作品

                     オランダ東インド会社

アジアに目を向けて東インド会社を最初に設立したのはイギリスでした。それは1600年のことでした。そして、その2年後の1602年にはオランダが東インド会社を設立しています。ちなみに、オランダ東インド会社は世界初の“株式会社”でした。
    
もっとも株式会社とはいっても、軍隊を持ち、条約を結ぶ権限を持っていたから、現在の株式会社とはずいぶん異なるが、航海術にひいでたオランダは、15世紀にはじまった大航海時代で一歩先んじたスペインやポルトガルに追いつき追い越し、ポルトガルに代わって東方貿易を独占することに成功しています。オランダ東インド会社の目的はジャワ(インドネシア)の香辛料や中国の磁器をオランダに持ち込むことでしたが、交易品目には茶も一応含まれていました。
オランダが相当量まとまった中国茶をヨーロッパに初めて運び込み、販売を始めたのは1607年のことでした。この茶は緑茶で、貴族や富裕階級の人たちにしか手に届かないもので、高級な銀器や中国磁器に入れて大事に保管し、お客があると特別に振る舞うほどの超貴重品だったそうです。
そして17世紀後半になると、オランダ東インド会社はジャワに茶園をひらいて茶の生産に乗り出し、それが結果的にオランダの庶民にもお茶が手が届くようになっていったということです。
                  
庶民には飲みなれない茶だったから彼らは茶の効用が気になったが、オランダの医師が書いた本『コーヒー・茶・ココア』には「毎日お茶を8~10杯ほど飲むことを勧める。200杯飲んでも害はない。自分でも大量に飲んでいる」とあるそうです。その飲み方も、すするようにして音をたてて飲む現代の人から見ると下品で行儀わるいことですが、当時のオランダではそうすることがお茶をご馳走してくれた主への感謝のしるしであり、礼儀正しいしぐさとされていたとそうです。
参考までにいうと、「東インド会社」はイギリス、オランダのほかにも、フランス、デンマーク、スウェーデンがもっていました。「東インド会社」と呼称したのは、アメリカ大陸との交易を目的とした「西インド会社」と区別するためだったそうです。
                                                       GG


紅茶の話(6)

2014年03月17日 | 物語・作品

                     ヨーロッパへの伝播

            
中国の茶をヨーロッパで最初に知ったのは、ポルトガル人やヴェネチア人(イタリア)でした。
西の中南米開拓をスペインに先を越されたポルトガルは喜望峰経由で東の開拓を目指し、ヴァスコ・ダ・ガマは1497年7月にポルトガルを出航(上掲画像)、10か月後にインドのゴアに到着しています。
ポルトガルの目的はキリスト教の布教で、宣教師フランシスコ・ザビエルはポルトガル王の依頼でインドのゴアに派遣され、そこから日本にやってきました。ザビエルに続いて日本にやってきた宣教師ガスペル・ダ・クルスは航海記に「高貴の家では、客があるとチャという一種の飲み物を供する。ある種の薬用植物の混ぜたもので、やや苦い」と書いており、ヴェネチア人の作家ラムージオは「中国全土でチャイというものを飲用している。これは木の葉を生のままあるいは乾燥して水でよく煮る。この煮出し汁を飲むと頭痛、胃痛、腹痛や関節痛をなおす」と書いているそうです。
日本の茶についての記録もあります。ポルトガル人宣教師ルイス・フロイスは日本人の茶の文化と風習をみて「われわれは宝石や金銀を宝物とするが、日本人は古い釜やひび割れした陶器、土製の器などを宝物にする」と本国に報告しているそうです。
                
         ヴァスコ・ダ・ガマ      フランシスコ・ザビエル     ルイス・フロイス
しかし、ヨーロッパの人々が茶に関心を深めるようになったのは17世紀になってからのことで、商人として最初に茶を買いつけたのはオランダ人でした。1610年にマカオと平戸で緑茶を買い、海路オランダのハーグに運んでいます。オランダに持ち込まれた茶は貴族や富裕階級で人気を呼び、とくに日本から伝わった抹茶の飲み方や茶道が珍しいものとして紹介されたそうです。
16世紀から19世紀半までにヨーロッパに持ち込まれた茶はほとんどが中国茶。インドやセイロンで生産される茶(紅茶)が大量にヨーロッパに持ち込まれるようになったのは、19世紀後半になってからのことです。
                                                      GG


紅茶の話(5)

2014年03月15日 | 物語・作品

                      「CHA」と「TE (TAY)」

日本では「茶」を「ちゃ」というけど、現代中国の標準語では「茶」を「ツァ」と発音し、広東語は発音がすこしちがうがやはり「ツァ」。ところが広東省の北隣の福建省の方言では「テ (テー)」と発音するそうです。
世界には「茶」を表す語に「Cha(チャ)」系統と「Te(テ)」系統があるのは、そのことに起因するようです。
           
茶が中国から陸路で伝播した北方や西方の国々(朝鮮、日本、モンゴル、ロシア、チベット、イラン、トルコ、ギリシャ、タイ、ベトナムなど)は「Cha」系統。福建省の港から海路で伝わった国々(オランダ、イギリス、ドイツ、フランス、イタリア、スペイン、北欧諸国、東欧諸国、アメリカ、インドネシアなど)は「Te」系統となっています。
おもしろいのは、ポルトガルは「Cha」なのに隣り合わせのスペインが「Te」であること。これは15~16世紀の大航海時代にポルトガルは東に新境地を求め、中国広東省マカオを基地として中国茶を船で直接本国へ運んだため広東なまりの「チャ」。一方のスペインはアジアへの進出に興味がなく茶をオランダから買ったため福建なまりの「Te」となったもの。
余談ながら、「昔、中国からヨーロッパまで船で緑茶を運んだところ、赤道直下を通過するうちに船倉に詰め込まれていた緑茶が高温と高湿度で発酵し紅茶になった」という話があるが、これは俗説。中国にはもともと紅茶(発酵茶)があり、中国の港で積んだときから紅茶だったのです。
                                                       GG


紅茶の話(4)

2014年03月13日 | 物語・作品

                         プーアル茶

私たちには馴染みがうすいが、「黒茶」に分類される茶に「プーアル茶(普洱茶)」があります。
ミャンマー、ラオス、ベトナムとの国境に近い中国雲南省の普洱(プーアル)を産地とする発酵茶。この黒い茶は古くからチベットとの交易物産として重要な位置を占めていたのです。
                
チベットと雲南を結ぶ道に「茶馬古道」があります。いまから1千年も前からあり、さらにそこから西にのびる交易の道で、全長が2千kmとも3千kmともいわれるのは、どこを起点・終点と見るかによって異なるようです。
高度3千mも4千mもある山間をぬって、橋もない川を渡り、谷に架けられたロープを伝って渡り、切り立つ岸壁にへばりつくようにして進む。一歩間違えば川に流され、谷底に落ちるような厳しい道といわれる。
その道を雲南の人々は、ぎっしり詰めて固形状(団茶)にしたプーアル茶を馬の背に積んでチベットまで届け、物々交換して得たチベットの馬や毛皮などを来た道をたどって雲南に戻る。往復に少なくとも半年はかかる苛酷な旅ということです。
      
      
                     チベットのバター売りとバター茶
チベットの人々にとってはバター茶が欠かせない生活必需品。モンゴルもそうだがチベットにも野菜の類がほとんどないから、茶は大切なビタミンなどの補給源。チベットでは茶の中にバターと塩、牛乳を入れて撹拌してつくり、これを「スーチャ(撹拌した茶)」と呼ぶそうです。
ダライラマ法王代表部日本事務所のWebサイトには、「人々は朝起きてから夜寝るまで何杯ものバター茶を飲む。年を取るにつれて、お茶を飲む回数は増える。外国の研究者の報告書によると、チベット人は、一日に50杯、いや100杯ものバター茶を飲んでいるという。チベットでは茶樹が育たない。だから彼らは中国の雲南や四川から茶を買うのだ」と書いてああります。
                                                       GG


紅茶の話(3)

2014年03月11日 | 物語・作品

                          ウーロン茶

中国は中原から東、北東にかけては比較的平坦な農業地帯。それを北、西、南から囲むように高原地帯、山岳地帯があり、西のチベットは3千~5千mもある高原地帯、南西の雲南は1千~4千mもある起伏の多い山岳地帯で6千m級の山もある。だから中国といっても地域によって自然環境がまるで異なるようです。
前回の「中国茶の種類」で、中国茶には、緑茶、白茶、黄茶、青茶、紅茶、黒茶があると書いたが、いろいろな茶が誕生したのは自然環境のちがいが大きな要因になったようです。
       
中国でも日本でも最も広く飲まれているのは「緑茶」ですが、ウーロン茶もあればプーアル茶もあります。「ウーロン(烏竜)茶」は、狭義の紅茶よりも発酵度合いが軽く、「青茶」に分類されています。発酵させた茶葉の色が青く見えるからでしょう。
ウーロン茶の原産地は台湾に近い福建省が有力で、「17世紀の明朝末期、安渓(福建省)に竜(ロン)という男がいた。狩猟が好きで山を歩き回っているうちに烏(ウ)のように黒になり、“烏竜(ウーロン)”と呼ばれていた。竜は狩りに行くと必ず茶葉を摘み取ってきて、湯にして近所の人たち飲ませたところ美味くて評判になった。それでその茶をウーロン茶と呼ぶようになった」という話があるが、これはあくまで伝説。
        
福建省と北隣りの浙江省の境界には烏竜山があり、西隣りの江西省にも烏竜という地名があります。そのどちらも茶の産地として知られており、「烏竜茶」という名称は地名に由来するとの説もあります。ヨーロッパには緑茶とともに古くから渡っているが、マニア好みで一般的にはならず、むしろ19世紀末にアメリカのニューヨークでブームになったそうです。
ウーロン茶が日本で知られるようになったのは19世紀末(明治時代末期)のこと。日清戦争で台湾が日本に編入され、台湾のウーロン茶を一部の人々が知るようになったものの普及するには至らなかった。ウーロン茶が日本で大衆化したのは、ペットボトルや自販機が登場してからのようです。
                                                            GG


紅茶の話(2)

2014年03月05日 | 物語・作品

                        中国茶の種類

中国の「茶」は、緑茶(不発酵茶)・白茶(微発酵茶)・黄茶(弱発酵茶)・青茶(半発酵茶)・紅茶(完全発酵茶)・黒茶(後発酵茶)』に分類される。この分類は茶葉の加工・製法のちがいであって、摘み取った新緑の葉を釜で炒って乾燥させたものが緑茶(不発酵茶)、それ以外はいずれも発酵させた茶のようです。
                
               
普通の人は分けるとしても、緑茶、紅茶、烏龍茶(ウーロン茶)くらい。紅茶の本場イギリスでも「green tea」以外は「black tea」。単に tea といえば black tea を指す。もちろん日本の緑茶には、製法によって煎茶、抹茶、ほうじ茶といった区分があり、宇治茶、狭山茶といった産地による区分もあるが、その点は紅茶も同じ。そういうことからいうと、「紅茶」とは(緑茶以外の)「発酵茶の総称」ともいえそうです。
日本語では「black tea」を「紅茶」と訳す。イギリスでは加工された茶葉の色でそのように呼んだようだが、日本人は茶葉の色ではなく、茶湯の色をみて紅茶と呼ぶようになったようです。
もっとも、日本でも最初から「紅茶」と呼んだわけではない。
1874年(明治7年)、日本で初めて紅茶を生産しようとして京都府が大蔵省に提出した依頼状では「赤茶」としていた。依頼状には「昨今は中国の赤茶がイギリスで大いに好まれ飲用されている。このままでは日本のお茶が外国でつかわれなくなってしまう。京都はお茶の栽培が盛んな土地なので、赤茶も育たないはずがない。いまから赤茶の実をまいておけば後年、国の利益になる。赤茶の実を取り寄せて欲しい」と書かれていた。大蔵省はさっそく上海の領事にその旨を伝えたところ、領事から「赤茶用の特別な茶樹があるわけではない。茶葉の加工方法によって緑茶にも赤茶にもなる。だから日本の茶樹で赤茶はつくれる」と返事がきたそうです。当時はその程度の知識しかなかったことがわかります。
                                                         GG


紅茶の話(1)

2014年03月02日 | 物語・作品

                         茶の起源

                
散歩中にときどき水分を補給する。たいていは道路脇にある自販機で買うが、寒いときは暖かい飲み物がいい。そこでときどきリプトンやフォションのミルク・ティ缶を選ぶが、これがまろやかでおいしい。近くの学園の食堂の外に並ぶテーブルに置いて飲んでいるとき、そうだ、紅茶のことをちょっと調べてみよう、「紅茶の話」を連載してみようと思うに至ったのです。
                
               チャノキの花                雲南の古茶樹                
わたしたちが日頃飲んでいる「茶」の原産地は中国。中国では紀元前3世紀初の前漢時代から飲んでいた痕跡があり、当時は茶を薬として飲んでいたようです。日本に伝来したのは、805年に最澄が唐から茶樹の種子を持ち帰ったという記録があるが、栽培されるようになったのはその400年後。栄西が南宋から持ち帰った茶樹の種子を肥前の脊振山に植えたのが栽培の始まりとされる。
中国茶の産地は、南東部の広東省・福建省、南西部の雲南省・貴州省に大別されるが、茶樹のオリジンということでいえば、雲南省とされ、雲南省の奥地にはいまでも原生茶樹の巨木が保存されており、樹齢1000年ともいわれる古茶樹があるそうです。
              
そしてこの原生茶樹は、北東は貴州省・湖南省・江西省方面へ、東は広東省・福建省方面へ、南はミャンマー方面へ、西はインド方面へと分化していった。おそらく氷河期による大規模な環境変化が原因であろうといわれる。また、北東や東に向かった茶樹(中国種)は低木で葉が小さくなって緑茶に、南や西に向かった茶樹(インド種など)は高木で葉が大きくなって紅茶に向くという風に変化していったといわれています。
                                                         GG


お箸(10・最終回)

2014年02月27日 | 物語・作品

GGが育った愛知県の東三河の田舎町には山本勘助の墓や桶狭間の戦いで討たれた今川義元の墓があり、長篠の合戦に向かう織田信長が戦況を見守るため待機した城があった町だが、長篠の合戦で信長・家康連合軍が武田勝頼軍をコテンパーに叩いて優劣逆転した設楽ケ原の戦いで威力を発揮したのは、3千丁の鉄砲(火縄銃)でした。
             
火縄銃が種子島に伝来したのは1543年で、長篠の戦は1575年。この短期間に大量でしかも高性能の鉄砲を国産することが出来たのは、箸で培った器用な手先、指先があったから。
鉄砲伝来からおよそ300年後、今度はペリー総督が黒船4隻を率いて浦賀沖にやってきた。
そのペリーがこんなことを言っている。「私は、日本人のように気取りのない優雅さと威厳をそなえた国民をみたことがないと断言する。日本人は大へん立派な腕前を持っている。彼らの道具の粗末さや機械に関する知識を考え合せるとき、彼らの手の器用さは驚くべきものだといわねばならない。日本人は、第一流の製造業国として躍進をとげるであろう」と。
オベンチャラのようでもあるが、日本が先進工業国家になることを予言していたのです。悔しいだろうなあ、古来物造りなんてのすることだとして卑下してきた隣国の人々は。これも150年来の恨になっているのかなあ。
              
テレビの特集番組などでしばしば中小企業の技術が報道され、その技術の精巧さすばらしさには舌を巻くが、このような技術が確実に継承されるかが問題。グローバル経済の大波にさらされて生産拠点が海外へシフトされる、いわゆる製造業の空洞化が進んでいるからだ。
問題はそれだけではない。箸を正しく使えない人間が増えていることだ。最近は学校でも給食時に箸の使い方を指導しているようだが、箸の正しい使い方を教えるのは家庭のしつけの問題。まずパパ、ママが正しい箸の使い方をマスターしないことには話にならないということになりそうです。これで「お箸」シリーズを終わります。
                                                        GG


お箸(9)

2014年02月25日 | 物語・作品

箸が日本文化にもたらした影響は筆舌に尽くしがたい。「人生は箸に始まり箸に終わる」のです。
生後100日になると「お食い初め(箸初め)」という儀式があります。赤ん坊に初めて食べさせる儀式で、赤飯の一粒を口元にもっていく。そのさい赤ん坊用の箸と茶碗も用意する。
             
この時以来、箸は人生にとって欠かせない存在となる。東京など大都市ではそんな儀式をやらないが、地方にはいまもそのような習慣が残っているようです。
慣れない人にとっては箸を操作するのは大変むずかしい。かなりの技術を要する。寿司屋にやってきた西洋人を見ればわかる。寿司屋にはナイフやフォークが置いてないから仕方なく箸を使うが、日本人が幼少の頃から毎日繰り返しやってきた箸の使い方を一夜でマスターしようたって無理というもの。
箸がなぜいいかというと指を使うから。パソコンに向かってキーボードを叩くとボケ防止になるから、GGは一生懸命キーボードを叩いている。しかも10本の指をフルに駆使して。箸は使えるしパソコンのキーボードは自由自在に操れるし、こういう人間はぜったい認知症になる筈がない――なんて言っている人間に限って誰よりも早くボケ老人になるかな。
話が横道にそれたが、フォーク食の西洋人は、ナイフやフォークを握って・支えて・切って・刺して・口に運ぶだけ。それに対して箸食の日本人は、箸で挟み・つまみ・ほぐし・支え・口へ運ぶ。どれをとっても集中力と持続力が要求され、それが脳を刺激する。箸を使って千数百年も手先と指先の訓練をしてきた日本人は、手や指を使ってする仕事が上手になり指先を使ってする繊細な仕事に向いている。それが明治維新以降の工業化、とくに製造業の発展につながったのです。
                                                          GG


お箸(8)

2014年02月21日 | 物語・作品

「お箸(6)で、<室町幕府の第9代将軍足利義勝は、正月にお餅をたべようとしたときに箸が折れ、その数か月後に馬の背から落ちて死1に、そのことがあって以来、正月の祝膳には太い柳箸を使うようになった>と書いたが、戦国時代の武将も出陣の祝い膳では太鼓バチほどもある大きくて太箸を使ったそうだ。箸は、生まれたときから死ぬまで使うものであり、「生命力のシンボル」といってもいい。
伊勢神宮をはじめ、熱田神宮、出雲大社、春日大社、金刀比羅宮など伝統ある古社では、古代そのままに檜や柳などの霊木でつくった二本箸が神饌とともに神前に供えられる。
    
天照大神を奉る伊勢神宮は、垂仁天皇の御世に創建されたと伝えられるが、5世紀後半に外宮が造営され、豊受大神が祀られた。豊受大神は食物や穀物を司る女神であり、雄略天皇の夢枕に天照大神が現れ、「自分一人では食事するのはイヤなの。豊受大神を呼び寄せて!」とお告げがあって創建されたのだそうだ。つまり外宮は神々の食堂なのです。
外宮で神様に供えられる神饌には当然のことながら御箸が添えられる。この神箸は神宮檜で特別につくった長さ1尺2寸の二本箸。神宮では1500年にわたって1日も欠かさずこの儀式が行われているそうです。
宮中の新嘗祭の神饌ではピンセット状の折箸が供えられるのに対して、伊勢神宮の神撰では二本箸が供えられる。前者が3世紀頃に誕生したのに対して、後者は5世紀に登場した。それ以来、わが国ではいかなる箸にも神が宿ることになったといわれる。箸には神様のご加護があるという国民性は、この頃に出来上がったそうです。箸は大切に使いましょう。
                                                       GG


お箸(7)

2014年02月13日 | 物語・作品

日本人は世界でも唯一、箸だけで食事する民族だから、箸にもいろいろな種類がある。材料でいえば、木箸、竹箸、塗り箸、プラスチック箸、象牙箸などなど。使途でいえば、祭祀用箸、食事用箸、調理用箸、茶事用箸などなど。箸がこんなに多様なのは日本だけ。
そんなひとつに「割り箸」がある。割り箸は、木や竹の割裂性を活かした独特のもの。特徴は便利で清潔で衛生的であること。
    
「割り箸」は江戸時代後期(文化文政期)に江戸のうなぎ屋が「引裂箸」「割かけ箸」と呼ばれる竹の割り箸を店で使たのが始まりとされる。木の割り箸が登場するのはさらに後のことで、明治10年に奈良・下市村の寺子屋教師島本忠雄が吉野杉の廃材を利用して「小判型」と「丁六型」の割り箸を考案した。
下市はいまも箸の有力な産地。吉野の杉箸は、鎌倉時代のあとの南北朝時代、吉野に南朝を開いた後醍醐天皇に下市の里人が献上したことに始まるが、箸もグローバル経済の波を浴び、割り箸に限っていえば国内消費の98%は中国産で、国産は2%に過ぎないそうだ。
              
東京から大阪へ向かう新幹線の車窓から富士山の雄姿を眺めるのは楽しみだが、東京駅の巨大な弁当売り場で買った弁当を新幹線の車窓から富士山を眺めながら食べれば二重の楽しみになる。
弁当には必ず割り箸がついている。割り箸をふたつに割るのは、“これから食事をさせていただきます”との神様への挨拶であり、食べ終わると箸をポキンと折るのは、空になった折箱に収まらないからではなく、神様や自分の魂が宿った箸をそのままにして捨てると、粗末に扱われた神様がお怒りになり自分の霊魂が路頭に迷うことになるからで、神様や霊魂を鎮めるために二つに折るのだそうだ。
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お箸(6)

2014年02月07日 | 物語・作品

日本人は家族との食事であっても決められた自分の箸を使う。自分専用の箸だから大切にするが、箸を噛んでしまって箸の先が折れてしまうことがママある。悲しいかな、GGも歳を取るにつれてやってしまうことがある。割り箸のように、自分が使った箸をワザと折るのは別として、自分専用の箸が何かの拍子にポツンを折れてしまうのは古来、縁起の悪いこととされる。
                 
室町時代に足利義勝という将軍がいた。第6代将軍足利義教の嫡男で父義教が暗殺されると9歳にして第7代将軍となった。将軍になって初めての正月、家臣たちを集めて新年の祝宴を開いた。当然のことながらみんなで雑煮を食べたのだが、一瞬、家臣たちの顔が曇った。といっても雑煮の湯気で曇ったのではない。義勝は雑煮を食べようとしたとき箸が折れてしまった。
箸が折れるということは不吉なことが起こる前兆と信じられていた。しかも正月早々というのに・・・。
その年の夏のある日、将軍はお供を連れて山に登ったところ、馬が木の根っこに足をつまずき倒れ、馬上の将軍は投げ出されてしまった。打ちどころが悪かったのだろう、将軍は10日後に命を絶った。将軍在位わずか8カ月だった。このことがあってから、正月の祝膳には太い柳箸を使うようになったのだそうだ。
           
          太箸や国生みの神さながらに    長谷川       
わが家では正月には、普段使っている箸ではなく、正月用の祝箸を使う。丸く削った中太の箸を使うのは一年間円満に過ごせることを祈念してのことである。
正月を迎えたのはつい先日のことだったが、あっという間に2月になり、春もまじかになってきた。
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