旧正月にあたる春節。春節休暇を利用して中国観光客がどっとやってきました。彼らにとっては観光もさることながら、買い物も楽しみのひとつで、銀座や秋葉原では観光バスが行列をなしたようです。
中国人が欲しい電気製品のトップは炊飯器のようですが、最近はトイレのウォシュレットまで買っていくそうです。持ち帰っても中国で使えるのかといささか気になるのですが、彼らは桁ちがいのお金持ちだから、少々の無駄遣いとなっても痛くもかゆくもないのでしょう。
ウォッシュレットといえば、徳川将軍の住居でもあった江戸城にもウォシュレットがありました。
江戸城ではトイレを厠とか雪隠といった下衆のことばを使わず「御用所」といったようですが、将軍専用の御用所は四畳半の総檜造りだったそうです。その四畳半の部屋のまん中に、縦二尺八寸、横一尺五寸、高さ三尺の白木造りで、引き出しつきの箱が置かれていました。
TOTO出版『トイレは笑う』より
将軍ともなるとひとりで御用所へ行くのではなく、御殿女中がぞろぞろとお供するのが仕来たりでした。長い廊下を我慢しながら御用所にたどり着くと、将軍は踏み台をつかって箱の上にのってしゃがみ込み、引き出し目がけて放出すのですが、寒いときは箱の傍に火鉢を置いて御殿女中が温風を、暑いときは扇子でそよ風を将軍のお尻に送り込みました。そして御用が終ると別の御殿女中が紙をやわらかく揉んでお尻を拭いたそうです。
つまり将軍はしゃがんで力んで出すものを出したらそれでお終い。それ以外のことはすべて御殿女中がやってくれました。まさに人力ウォッシュレットだったのです。
GG
先日(2月12日)、『「折る」文化』で折り紙のことを書きましたが、折り紙といえば「折り紙つき」ということばがあります。人の力量や物の品質が優れていて、その能力や価値が保証できる水準に達していることを指すことばですが、この「折り紙つき」は、本阿弥家に由来するそうです。
本阿弥家といえば刀剣の研磨を家業とするとする古い家柄です。その元祖とされる本阿弥妙本は足利尊氏に仕え刀剣奉行に任ぜられ、第9代目の本阿弥光徳は豊臣秀吉の信任をえて刀剣の鑑定を行う刀剣極所を許可され、刀剣の鑑定書の発行を認められています。
本阿弥家の鑑定書は上質の和紙にしたためられ、折りたたまれて刀剣に添えられたのですが、この鑑定書を「折紙」といったそうです(画像)。
つまり、本阿弥家の「折紙」が添えられた刀剣は真正(本物)であり、そこに書かれた評価額は信頼を得るものだったから、まさに「折り紙つき」だった。「正真正銘」ということばも本阿弥家の「折紙」に由来するそうです。
時代とともに、この「折り紙つき」ということばがが独り歩きし、たとえば「折り紙つきの秀才」「折り紙つきの銘酒」というような使い方をされるようになったようです。
GG
松戸市の「21世紀の森と広場」公園に行くと、広い芝生広場で紙飛行機マニアが集まって紙飛行機を飛ばしていました。空をすべるように飛ぶ紙飛行機を目で追っているのはみんなご老人。おもしろくてはまってしまうのでしょうが、紙飛行機の作り方は一様ではなく工夫と技術を競えるから、ボケ防止にもなるのでしょう。
これみんな紙飛行機マニア 空に向かって「それ!」
先日、たっくんとテレビを見ていたら、子ども番組のなかで折り紙飛行機をやっていました。折り紙飛行機が広い体育館の中を縦横に飛んでいましたが、やはり紙の折り方に工夫があるようです。
平安時代の『清輔朝臣集』(藤原清輔)にカエルの折り紙についての記述があるそうだです。わが国には折り紙に適した丈夫な和紙と箸でつちかった手先の器用さがあり、それが独自の折り紙を発展させ、いまや欧米をはじめ多くの国で「origami」という言葉が通用するようになったのです。
くーたんが折った鶴
折り紙だけではありません。江戸時代には、木綿の反物が庶民にまで普及し、手拭が日常的に使われるようになると、ただ単に折りたたんで収納するのではなく、折り紙のように奴(やっこ)やカエルを模した折り方が工夫され、日常の家事に彩りを添えるようになりました。その後、遊びや趣味として「折り手拭」という技法になり、中でも財布は折りたたんだ手拭で作ったもので代用する人も多かった、とウイキペデイアには書いてあります。
そういえば、風呂敷も折りたたむようにして使います。法曹界や官庁では今でも書類を風呂敷につつんで運ぶ人が多いようです。日本伝統の「折る」文化は、折り紙に負うところが大きいということでしょう。
GG
新聞でも紹介されていた記事を切り取っていた映画:
『世界の果ての通学路・On the way to school 』
都内までなかなか出掛けられなかったのですが、近隣の映画館で上映しているのを知って
観てきました。
地球上の異なる4つの地域で、数10キロの危険な道のりを経て通学し学校で学ぼうとする
子供たちの姿を追った、フランスのパスカル・プリッソン監督のドキュメンタリー映画です。
ケニアの15キロメートルのサバンナを、6歳の妹とお祈りしながら命がけで駆け抜けて
通学する12歳のジャクソン。彼は将来パイロットになるのが夢。
アンデス山脈の牧場で暮らすカルロスは12歳。見渡す限り360度誰もいないバタゴニア
平原を7歳の妹と一緒に馬に乗って通学する。
ザヒラは13歳。モロッコの険しいアトラス山脈を越え、友達3人と寄宿舎を目指す。
家族の中で初めて学校に行く世代。将来は医師になるのが夢。
足に障害があって歩行困難のため、幼い弟たちに車椅子を押されながら、舗装されてない
道を一生懸命に学校に向かうインドの13歳少年サミエルと弟たち。サミエルも将来は医師に
なって自分のような病気の人を助けたい。
子ども達の学習に対する意欲の高さや、そんな子ども達を支える家族の愛情を映し出しています。
子ども達の笑顔と前向きな姿に感動しました。
KUN
紅茶と日本
「紅茶の日」(11月1日)というのがあります。日本紅茶協会が1983年に制定したものです。
江戸時代後期に伊勢国に大黒屋光太夫という船乗りがいました。海難にあってロシアに漂着し、幸運にもロシアの上流社会と交流する機会を得て、ロシアを熱心に勉強し10年ほどして帰国していますが、ロシア滞在中の1791年11月に女帝エカテリーナ2世に招待され、エカテリーナ宮殿のお茶会に出席しています。これが「紅茶の日」の由来だそうです。
エカテリーナ2世 大黒屋光太夫(左)
このシリーズの「6.ヨーロッパへの茶の伝播」でも書いたように、16世紀頃から日本の緑茶はヨーロッパに渡り、日本は緑茶の輸出国でした。ところがイギリスをはじめヨーロッパで紅茶を飲む習慣が広がると緑茶の需要は減少の一途をたどり、そこで明治新政府は紅茶の製造に乗り出すことになったのです。
日本人にまったく馴染みのない紅茶をいきなり輸出品目にしようと言い出したのは大久保利通でした。
しかし、どうやって紅茶をつくるのかわからない。緑茶と紅茶は茶樹が別物と思っていたくらいだから、一から勉強する必要があります。そこで明治新政府は中国人技術者を招聘して紅茶をつくったのですが、外国での評判はイマイチでした。
そこで新政府は、静岡で茶づくりをしていた元武士の多田元吉を中国へ派遣しました。彼は中国の産地を訪ね歩き、各地の紅茶の見本や種子を買い集めて帰国したものの、紅茶製造は労多くして効少なしでした。なぜならヨーロッパで人気があるのは、中国茶ではなく、インド茶だったからです。
日本紅茶発祥の地(静岡県丸子)
多田元吉はふたたび船に乗って今度はインドへ向かい、インド北東部のダージリンやアッサムで紅茶づくりの研修を積んで帰国し、明治政府は紅茶伝習所を開設して多田を指導に当たらせたということです。
こうして出来上がったインド種の紅茶はヨーロッパでまあまあの評判でしたが、緑茶のように大きな産業に成長することはありませんでした。現在、日本で飲まれている紅茶はすべて輸入品といわれています。
GG
ティ・バッグ
1904年のある日、ニューヨークで茶の卸をしていたトーマス・サリヴァンは茶の見本を絹の袋に詰めていると、あるレストラン経営者が現れてその袋を持ち帰っていきました。彼は店に戻るとその袋を熱い湯のはいったポットに入れ、浸みだした茶液を茶コシで濾して飲んだところ、これがなかなかいける。これなら従来の方法より簡単だし手間が省ける。ということで、これが契機となってティ・バッグが誕生したそうです。
ティ・バッグの実用化が始まったのは1920頃。自動車工場のオートメーション化が始まろうとした時代で、オートメーション化がティ・バッグの商品化につながったのですが、第2次世界大戦中は物資不足から生産が中止され、ティ・バッグが本格化したのは戦後になってからのこと。
イギリスでティ・バッグが発達したのも戦後のことで、リプトンやブルックボンドが1960年代になって製造開始し、最近ではイギリスの家庭でも町の喫茶店でも紅茶といえば圧倒的にティ・バッグ。イギリスで消費される紅茶の90%以上がティ・バッグになっているそうです。
日本でも、1970年代にリプトンが気軽に紅茶を楽しんでもらおうと、テレビCMでティ・バッグをカップにちょいちょいと浸けて、ほらこんなに便利ですよと宣伝しました。業界用語ではこれを“行水”といい、この“行水”がしっかりと定着してしまったのですが、それがよくなかった。“行水”では紅茶らしき色は出るが、おいしい紅茶の成分は出ていないからで、紅茶は本来、ティ・バッグをポットやサーバーに入れて蒸らしてから飲むべきものだということです。
日本でも最近はティ・バッグが紅茶消費の80%を占めているそうですが、イギリスではティ・バッグをいきなりカップに入れるのは少数派で、ポットに入れて蒸らして飲むそうです。
GG
紅茶の淹れ方
春山行夫『紅茶の文化史』にイギリス人の紅茶の淹(い)れ方が書いてあります。
イギリス人にとって、茶のいれ方は日本の茶道のように「儀式」があるようです。ティ・ポットは3時間前によく洗って乾かしておく。そして茶を入れるときは、まずテイ・ポットに湯を入れて温めておく。茶葉はスプーンできっちりと計り、ひと匙をティ・ポットに入れる。一方でヤカンで湯を沸かす。湯が沸騰したらティ・ポットをヤカンのところにもっていく(ヤカンをティ・ポットのあるところに運んではならない)。湯が沸騰していないと(すこしでも温度が下がると)茶は完全に駄目になるから要注意。そして茶を軽くゆすぶり、ティ・ポットのフタをして保温カバー(茶帽子=tea cozyという)で1分ないし2分そのままにしておく。
できあがった茶液をティ・ポットにそのまま入れておくとニガ味が濃くなるので、前もって温めた別のティ・ポットに茶液を移して、茶葉といっしょにしておかない家庭もある。あまりむつかしく考えない家庭では、茶葉をティ・ポットに直接に入れないで、バスケット状の「茶入れ器」に入れる。そうすれば茶液を別のティ・ポットに移す手間がはぶける。ただし、布製の茶袋は使わない。味がわるくなると考えられているから。
一般にミルクまたはクリームが茶液に加えられるのが習慣で、大部分は冷たいミルクを用いているが、なかにはそれを温めて加える人もいる。ミルクはお茶を注ぐ前にカップに入れるのがオーソドックスな入れ方。ガラスのコップに茶を注ぎ、レモンの薄片を浮かべるのはロシア風のいれ方といわれているが、イギリスでも少数の人々はその種のレモン・ティを好んでいる。砂糖は各自の好みにまかされている。
おおむね以上のようですが、紅茶を飲むにもなかなかの儀式、というか拘りがあるようです。
ジャンピングしている ジャンピングしていない
先日のNHKテレビ「ためしてガッテン!」では、湯は完全沸騰の直前くら、温度にして95℃が最適だといっていました。95℃だと茶葉が上下にジャンピングして、茶葉のエッセンスがよくしみ出るからですが、100℃ではジャンピングが起こらないそうです。
GG
ティ・クリッパー
アヘン戦争(1840-42年)では鉄鋼製の軍艦まで登場しています。19世紀中頃というのは船が大型化する時代で、同時に高速化していく時代でもありました。
イギリスは、インド北部でアッサム茶やダージリン茶を生産するまでは紅茶のほとんどを中国から輸入していたけど、紅茶の需要増大とともに本国と中国を往復する船が増え、1860年代にはティクリッパー(紅茶運搬高速帆船)は30隻にもなりました。
それらが競うようにしてイギリス本国と中国を往復し、入荷を急ぐロンドンの業者が懸賞金まで出し、ティクリッパー・レースが登場しました。1866年のレースには11隻が参加し、ロンドンに近づくと3隻のつば競り合いになっています。
ティクリッパー時代の花形といえばなんといっても「カティサーク号」(画像下)です。高速であるだけでなく、そのスタイルはじつに美しい。
「カティサーク号」という名前はこの船の船首に取り付けられた女性像(妖精ナニー)に由来します。
18世紀スコットランドの国民的詩人ロバート・バーンズの「シャンンタのタム」の詩には、
「酒飲みのタムは嵐の夜、深酒して馬に乗って帰る途中、妖精ナニーと出会う。酒に酔った勢いでナニーをからかうと、ナニーは怒りに燃えてタムを追いかけてくる。振り返って見ると、ナニーは大勢の妖精と魔女の群れを従えている。ナニーは短いシュミーズもあらわに、すごい勢いで男が載っていた馬の尻尾を引き抜いた・・・」
とうたわれているそうです。
「カティサーク」とは、スコットランド語で「短い(Cutty) シュミーズ (Sark) 」を意味します。
海の男たちの憧れでもあった船首の女性像。港に入ると大勢の人々が女性像を眺めてため息をついたカティサーク号でしたが、その命は短かった。カティサーク号が就航する間もなく、紅海と地中海を結ぶスエズ運河か開通し、それまでのようにアフリカ南端の希望岬を経由して公開する必要がなくなったため、ティクリッパー・レースの終焉とともに現役を退いたそうです。
GG
アヘン戦争
紅茶にからむ紛争といえば「アヘン戦争」(1840~1842)があります。
18世紀末、イギリスは国内の紅茶の需要増大に対処するため中国から大量の紅茶を買っていました。その対価は銀で、国家財政を揺るがすほどの支払いと、輸入紅茶に課した茶税が影響して紅茶の密輸を生みだし、頭を痛めました。何とかして財政立て直しを図るにはどうしたらいいか。そうだ、中国に支払った銀を取り返せばいい。中国への輸出を増やせばいい。アヘンがあるではないか。
インドのイスラム系ムガール帝国時代(1526~1857)はベンガル地方でケシ(画像左)を栽培し、その実からアヘンを製造していました。イギリス東インド会社はその専売権を1773年に入手しており、そのアヘンを中国に売り込もうというわけです。
中国では明朝時代からアヘン吸引の風習がありました。清時代の1796年にはアヘンの輸入を禁止し取り締まりを強化していたのですが効果がなく、アヘン吸引で健康を害する者が続出し風紀も退廃する一方でした。そこに突け込んだイギリスの思惑はずばりでした。アヘンはたちまち中国全土に広がり、中国は立場が逆転し銀の流出国になり、ついに戦争にまで発展したのでした。これがいわゆる「アヘン戦争」です。
しかし、イギリスの圧倒的な海軍力の前に中国は屈するほかなしでした。1842年に南京条約に調印して終戦。多額の賠償金に加え、香港割譲、広州・アモイ・上海など5港の開港など、戦争の代償は絶大でした。イギリスはインド、東南アジアの支配に加え中国を支配し、七つの海に君臨する大帝国になったのですが、アヘン戦争の裏には紅茶があったということです。
マル
アフタヌーン・ティ
今回はイギリス発祥の喫茶習慣、「アフタヌーン・ティ」の話です。
「紅茶の話(7)」の「キャサリン・ブラガンザ」でも触れたが、17世紀半にポルトガル王女キャサリンがイングランド王チャールズ2世に嫁ぐ際、ポルトガルから大量の茶をイギリスに持ち込み、茶を嗜む習慣が宮廷や貴族、富裕層に広まったが、19世紀になるともうひとりの貴婦人が登場します。
第7代ベッドフォード公爵の夫人アンナ・マリア(1788~1861)がその人(画像下左)です。
当時のイギリスの夕食はだいたい午後8時ごろ。昼食から夕食までの時間が長かったから、この間にスナックでも食べなければ腹がもたない。そこで夫人は午後3時ごろから午後5時ごろにかけてサンドイッチなどの軽食をとることを始めた。
日本人は「お八つ」にお多福餅やせんべいを食べますが、そこには緑茶や紅茶やコーヒーが出ます。それと同じで、アンナのスナックタイムには紅茶が出ました。訪れた客たちにも振る舞うとまことに好評で、またたく間に上流階級の人々にこの習慣が広まり、アンナ・マリアは「アフタヌーン・ティ」の元祖といわれるようになったそうです。
話は現代に移りますが、アフタヌーン・ティにもマナーがあるようです。インターネットから・・・
招待されて「どうぞ」と言われたらそのまま素直にその席に座ること。自分には上席だと思って遠慮したりするのは招き手に失礼になる。紅茶にミルクや砂糖を入れ混ぜたあとのティー・スプーンはカップの奥に置く。手前に置くとカップを持ったときに当たり、スブーンが床下に落ちることがあるからのようです。
GG
紅茶を皿で飲む
このシリーズの7回目の「オランダ東インド会社」の末尾で「その飲み方も、すするようにして音をたてて飲む。」と書いたが、紅茶を受け皿で飲むことが流行った時代もあったようです。
以下、出口保夫『アフタヌーン・ティの楽しみ』(丸善ライブラリー)から引用させていただく。
『英国茶はこの国の文化を支えているとまで断言した、現代の代表的作家ジョージ・オーウェルは、一時BBC放送局に勤務していたことがあった。そのオーウェルがティ・タイムになると、局内の食堂で紅茶を受け皿から飲んで、同僚のひんしゅくを買ったという話は有名である。オーウェルほどの知識人が、おおぜいの人まえでそういう作法でお茶を飲むことは、ほとんど考えられなかったにちがいない。
これは戦前の1930年代のことであるけれど、1900年代のエドワー朝時代には珍しいことではなかった。というのはこの時代の豪華な写真入りの雑誌『ザ・タトラー』に、年配の女性たちが公園らしきところ、つまり屋外のベンチに腰かけながら、何人かでいっしょに受皿から紅茶を飲む風景が掲載されている(上掲画像)。
右手で紅茶のカップを持って、左手で受皿の茶を口へ運んでいる。まさに受皿から紅茶を飲む風景そのものである。このエドワード朝時代というのは、ヴィクトリア王朝につぐ、1901年から10年までの10年間であるが、物質的な豊かさにつつまれ、女性たちのファッションは優美絢爛をきわめた時代で、今日の豪華なアフタヌーン・ティもヴィクトリア朝よりも、むしろエドワード朝時代の名残があると思われるほどである。・・・しかし、受皿から紅茶を飲む女性たちが、どうしてあのようなマナーに走ったのか、ちょっと理解に苦しむ。あるいは時代の華美な風潮に対するレジスタンスであったのだろうか。』
今でもイギリスのティ・カップの受け皿は、カップ1杯分がちょうどおさまるようにつくられているそうです。
GG
紅茶王国インド
緑茶にいろいろな種類があるように、「紅茶」にもいろいろな種類があります。「紅茶」とは、広い意味では発酵茶の総称。発酵の度合いによって種類があり、また、産地によって味も香りがちがう。(「2.茶の種類」)。
紅茶の生産国を2000年の統計でみると、最大がインド(846千トン)、次いでスリランカ(306千トン)、ケニア(236千トン)、インドネシア(157千トン)と続く。これを見るとインドがダントツであることがわかります。
イギリスは、イングランド王チャールズ2世とポルトガル王女キャサリン・ブラガンザの結婚(1662年)によってインドのボンベイ(ムンバイ)を獲得しインドへの足掛かりがあったから、オランダによってジャワ島から追い出されたイギリスはアジアでの拠点をインドに移したのでした。
アッサム ダージリン ニルギリ
時代は下り1823年、中国雲南省に近いインドのアッサム地方にイギリス人が、政府の使命を受けて秘かに茶樹を探しにやってきて、現地人の協力を得て野生の茶樹を発見。その種子と苗をもとに試行錯誤を重ねてアッサム茶を誕生させました。野生茶樹発見から15年の歳月を経た1838年、ついにアッサム茶が初めてロンドンに到着し、本国の紅茶需要の増加に対応できるようになりました。
その後、アッサム地方での茶栽培は西隣りのダージリン地方や南西のニルギリ地方、セイロンにまで拡大し、アッサム、ダージリン、ニルギリはインドの三大生産地となっていきます。
GG
紅茶の誕生
「紅茶」が生れたのは中国南東部、福建省と江西省の境にある武夷(ウーイー)山脈の標高1千m近い山地の桐木(トンム)村とされている。桐木では13世紀(南宋時代)から茶づくりが行われており、17世紀半になると福建省の各地で半発酵茶であるウーロン茶が作られるようになったが、同じ福建省でも桐木村は製茶技術が遅れ、しかも高地で低温。松の木を燃やして茶葉を乾燥させたため、微妙な発酵加減を調節できず完全発酵の茶しかつくれなかった。この茶を「正山小種(チェンシャンシャオチョン)」(画像下)といいました。
いわばウーロン茶の出来損ないですが、松の煙の独特の香りが残り、それがイギリス人には何ともいえなかったらしい。彼らはこの茶を英語で「ボーヒー」(「武夷」)と呼んで好んだのですが、これがイギリス人にとって広い意味での「紅茶」でした。
広東省のアモイのイギリス商人が中国から直接買いつけたボーヒーが初めてロンドンに届いたのは1689年のことだったということです。
ところで、イギリス人が緑茶より紅茶を愛するようになった要因のひとつに水質の問題があるということです。
イギリスの水は石灰分を多く含んだ硬水で、この水を沸かした湯で緑茶をいれると色だけは濃くなるが味と香りが弱くなってしまう。とくに緑茶の渋みとなるタンニンがほどよく出ないため、せっかくの緑茶が気の抜けたお茶になる。ところが、完全発酵茶であるボーヒーはタンニンが多く含まれるため、ちょうどよい味となることに気が付いたのでした。
こうして「紅茶」を飲むことがイギリスに広まっていくのですが、「紅茶」はまだまだ高価なもので庶民には手が届かない。庶民にまで紅茶が広まるためには安価でなければならないが、そのためには大量供給が必要です。それが、イギリスによるインドでの大々的な茶の栽培につながっていったのです。
GG
ゲッケイジュ
きょうの花はまことに地味ですが、これは月桂樹の花です。
月桂樹は近くの大学のキャンパスに数本植栽されているから知ってはいたが、花は見たことがなかった。どんな花が咲くのだろうかと気になっていたが、散歩中に偶然発見しました。それが上掲の画像です。
「ゲッケイジュ(月桂樹)」は地中海沿岸地方を原産地とし、古代ギリシヤでは浄化の力をもつ木として、厄除けや雷除けのため家の周りに植えられたそうです。
月桂樹はギリシャ神話「アポロンとダフネ」(画像)にも登場します。
「ダフネの叫びが口元から消えるか消えないうちに激しい痺れが彼女の足をとらえた。全身の肌が急速に強張り、褐色の粗い樹皮となった。風になびいていた髪はたちまち緑の葉と化し、天に向かって差し伸べられた腕はそのまま木の枝と変わった。今しがたまであれほど速く走っていた脚も大地に張り付き、みるみる地中にめりこんで根を張った。 アポロンは愕然として目を見張った。 彼が捕らえたもの、しかと抱き寄せたもの、それは一瞬のうちにダフネから一本の月桂樹に変わっていた。」(阿刀田高『ギリシア神話を知っていますか』より)。
後世になると、月桂冠は勝利と栄光のシンボルとして、マラソンをはじめスポーツ競技の勝者に贈られるようになったが、それは月桂樹がオリンポス12神の親分格であるゼウスを象徴する樹木だから。
日本に伝来したのは明治時代初期。外国人宣教師たちが料理のスパイス用にキリスト教会の庭などに植えられたのが始まりで、日露戦争の従軍記章にこの木の枝葉の図案が用いられ、その戦勝祝賀会で東郷元帥が日比谷公園に苗木を記念植樹したところ誰かが抜き去り、苗木を何度植え換えても盗まれたということです。その結果か、キリスト教とは関係なく全国各地に広まったそうです。
GG
貴婦人たちの逆鱗
イギリスでは紅茶が広がる前にコーヒーが流行しました。ロンドンに最初のコーヒー・ハウスが登場したのは1652年。それから3年後には3千軒にまで増加している。コーヒー・ハウスは公の憩いの場であるとともに、情報交換の場にもなっていく。商売のためには世界各地の情報が不可欠。当時すでに新聞も郵便もあるにはあったが官業で役に立たない。海外郵便制度もなく、ファックスやインターネットもない時代だったから、コーヒー・ハウスで情報交換するのが一番役に立った。
さらに株取引も商品取引も保険取引もコーヒー・ハウスで始まり、文化・芸術・政治の議論の場でもあったから、1714年にはロンドンのコーヒー・ハウスは8千軒にまで膨れ上がったということです。
しかしコーヒー・ハウスは男性の社交の場であって女性は入場禁止。コーヒー・ハウスから締め出された婦人たちは怒りに燃え、立ち上がったのです。
「かの乾燥させ、衰弱させるイスラムの飲み物によってセックスに生ずる巨大な不都合を公共の思慮に訴える。わたしたちは強壮な男性を愛し、夫の敏捷なる活動力を栄誉としてきた。しかし、言い尽くせぬほど悲しいことに、このイギリス古来の活力が目に見えて衰弱するのを目の当たりにしている。この我慢ならない災悪の原因は、あの忌まわしい異教徒のコーヒーと呼ばれる飲み物以外にはおよそ帰すべきものはない。コーヒーという災いの豆は、それが持ってこられたあの砂漠と同じように、男という男をインポテンツに、老いさらばえさせ不毛にしてしまった」と訴えた。「女性の誓願」(画像右)といわれる、悲痛な叫びでした。
こんな事件があって、コーヒー・ハウスで中国茶が提供されるようになりました。何たってお茶は万病に効く薬水。紳士だけでなく貴婦人たちもコーヒー・ハウスに出入りできるようになったのでした。
GG