創世記では「知恵の木」とされていますが、いろいろ説があるようで、創造主が人間が神と同じ知恵を持つことを厭うた説、人間が神に近い精神まで成長してから与えるつもりだった説があります。
キリストの創世記には、禁断の実(陰湿の実)を隠していたのですが、それ以来禁断の実は合婚してしてしまったのです。神の位置から人間になったという堕落になったのです。


ローマのシステイナ礼拝堂に行くと、大きな松の木があります。そこを横切っていくとシステイナ礼拝堂がありますが、そこには男女が抱きあがった像があります。合婚の像です。
それ以来、神の像から人間の像に変貌しました。人間の像にになったからには子どもが生まれたのです。ローマのシステイな礼拝堂に行く途中に大きな美術館がありますが、そこには堕落の女が描かれています。人間に堕落したのです。am
「幾松」という女性の名前を聞いたことがありますか。
小説風に書けば、木戸松子、幕末から明治時代初期、京都三本木で知られた芸奴「幾松」のこと。維新3傑・桂小五郎の恋人。その後に正妻となり『木戸松子』。

松子の生い立ちは芸妓にて諸説があるようだが、男3女4に生まれた。その後、嘉永4年(1851年)に若狭小浜から上洛する。父は同年に他界したが、仕方がなく芸妓になったらしい。安政3年(1856年)に14歳で芸妓になったが、利発聡明で2代目「幾松」と名乗る。後に桂小五郎の正妻になり、またたく間に有名な芸妓になった。
ジジも義母の法事で京都に行った時、義弟が予約してくれていた料理旅館・幾松で昼食をとった。屋敷跡は当時新選組から、逃げ出すための細工がしてあって、大きな長持ち(長方形みたいな箱)や吊り天井などあり、桂小五郎の隠家だった。
小説風に書けば、木戸松子、幕末から明治時代初期、京都三本木で知られた芸奴「幾松」のこと。維新3傑・桂小五郎の恋人。その後に正妻となり『木戸松子』。


松子の生い立ちは芸妓にて諸説があるようだが、男3女4に生まれた。その後、嘉永4年(1851年)に若狭小浜から上洛する。父は同年に他界したが、仕方がなく芸妓になったらしい。安政3年(1856年)に14歳で芸妓になったが、利発聡明で2代目「幾松」と名乗る。後に桂小五郎の正妻になり、またたく間に有名な芸妓になった。
ジジも義母の法事で京都に行った時、義弟が予約してくれていた料理旅館・幾松で昼食をとった。屋敷跡は当時新選組から、逃げ出すための細工がしてあって、大きな長持ち(長方形みたいな箱)や吊り天井などあり、桂小五郎の隠家だった。
なにか起こるとすぐに飛び出して草の中を逃れるように工夫されていた。
その料理旅館も令和3年10月に廃業したそうで、今はない。 am
朝の新聞に「草の名念仏」と題する詩が出ていた。
興味ある詩だから掲載します。
つるにちそう からすのえんどう ひるざきつきみそう
ほそば おおあまな いちごつなぎ かもじぐさ
この春 出会った 草の名を わすれにように 口ずさみつつ
日に二度 草の道を 歩いています



毎日散歩で歩いていると雑草や草花が咲いている。しかし、それらの名を知ることなく過ごす。詩を作った方が、散歩で出会った雑草や草花を調べのは簡単です。その草を調べても分からないときは、「雑草図鑑」でしらべる 。
ちなみに、上記の草の名念仏を図鑑で調べたところ次のようです
つるにちそう からすえんどう つきみそう ほそばおおあまな
みそいちごつなぎ かもじくさ am
4歳の孫がスマホで歌をうたっているが、何をいっているのか分からない。妻に聞いたところ次の歌だと言う。
昔ギリシャのイカロスは ロウでかためた鳥の羽根
両手に持って飛びたった 雲より高くまだ遠く
勇気一つを友にして
それで思いだしたのが、「イカロス」寓話です。

父親がいう「イカロスよ。空の高さまで飛べるか?」。それに対して息子は「オレだって忙しいから、時間に余裕ができたらみるよ」といって何もしなかったが、しばらくして蝋で作った羽根を付けて飛んだところ、太陽の熱で羽根がとろけて、海の中にジャボン。足だけ浮かんでいてドタバタしている。寓話だから本当のことはわからないが、まあ、そういったところかな。 am

父親がいう「イカロスよ。空の高さまで飛べるか?」。それに対して息子は「オレだって忙しいから、時間に余裕ができたらみるよ」といって何もしなかったが、しばらくして蝋で作った羽根を付けて飛んだところ、太陽の熱で羽根がとろけて、海の中にジャボン。足だけ浮かんでいてドタバタしている。寓話だから本当のことはわからないが、まあ、そういったところかな。 am
「耕して喰ひ、織らずして着る体たらく、今まで罰のあたらぬもふしぎ也」。
これは小林一茶の独言です、一茶はまさに貧すれば鈍する生活だったようです。一茶の母は早く他界し、しばらくすると父親は継母と結婚した。しかし一茶は継母と折り合いがつかず、追われるようにして江戸に出て行けと信州柏原から旅に出たのでした。

一茶は俳句の名人とされていますが、貧乏が長かった。江戸に放り出されて食っていく方法がない。どうして食っていくか考えた時に思いついたのが俳句。江戸の長屋の一室でひもじい生活をしているときに考えたのです。
この言葉は、15歳で柏原を出で51歳まで江戸の長屋で暮らしていた。しかし、柏原が恋しかったのか、36年間も江戸に暮らし、故郷へ帰ったのが老年になったからだった。おそらく生涯を一人暮らしだったのではないか。ただ、俳句の詠み方が優れていたから、支持者いて助かった。am
これは小林一茶の独言です、一茶はまさに貧すれば鈍する生活だったようです。一茶の母は早く他界し、しばらくすると父親は継母と結婚した。しかし一茶は継母と折り合いがつかず、追われるようにして江戸に出て行けと信州柏原から旅に出たのでした。


一茶は俳句の名人とされていますが、貧乏が長かった。江戸に放り出されて食っていく方法がない。どうして食っていくか考えた時に思いついたのが俳句。江戸の長屋の一室でひもじい生活をしているときに考えたのです。
この言葉は、15歳で柏原を出で51歳まで江戸の長屋で暮らしていた。しかし、柏原が恋しかったのか、36年間も江戸に暮らし、故郷へ帰ったのが老年になったからだった。おそらく生涯を一人暮らしだったのではないか。ただ、俳句の詠み方が優れていたから、支持者いて助かった。am
わが家の狭い庭にバラの花が咲いています。
バラというと、頭にすぐ想い浮かべるのが加藤登紀子の「百万本のバラ」です。
小さな家とキャンパス 他には何もない
貧しい絵かきが女優に恋をした
大好きなあの人に バラの花をあげたい
ある日街中にバラを買いました

「百万本のバラ」は、男が女優に恋したが、自らの方には何もない。さあ、どうしたらいいのか思案する。つまり、全学連の猛者が女優に恋をしたという話らしいが、もちろん加藤登紀子はバラを届けて返事をしたのでしょう。なかなか見られないロマンチックな返事な話です。
元々はロシア民謡だったのを日本語に翻訳したのが上掲の歌。若い時なら理解できるだが、ジジは老人になってしまったから、そんなこと可能かなあ。 am
バラというと、頭にすぐ想い浮かべるのが加藤登紀子の「百万本のバラ」です。
小さな家とキャンパス 他には何もない
貧しい絵かきが女優に恋をした
大好きなあの人に バラの花をあげたい
ある日街中にバラを買いました


「百万本のバラ」は、男が女優に恋したが、自らの方には何もない。さあ、どうしたらいいのか思案する。つまり、全学連の猛者が女優に恋をしたという話らしいが、もちろん加藤登紀子はバラを届けて返事をしたのでしょう。なかなか見られないロマンチックな返事な話です。
元々はロシア民謡だったのを日本語に翻訳したのが上掲の歌。若い時なら理解できるだが、ジジは老人になってしまったから、そんなこと可能かなあ。 am
浦島太郎の物語は江戸時代の『御伽草子』に出てきます。
ある日、浦島太郎が海岸近くを歩いていると、子どもたちが一匹に悪戯をしている。浦島太郎が「亀が可哀想だ。助けてやってくれ」というと、子どもたちは従いました。
亀は喜々として海に向かったが、お礼として竜宮城に案内したいということになりました。
浦島太郎はやがて竜宮城に到着し、歓待されているうちに陸地が恋しくなった。浦島太郎は陸が恋しくなり、陸地に到着するや否や玉手箱を開けたのです。
ジジは散歩で近くの自然(沼池)公園によくでかけます。湿地帯だから池がありますが、どこからやってきたのか亀かスッポンが住み着ています。いずれにしても亀かスッポンは動作が鈍い。あんな重たい甲羅があるからのっそりのっそり動くのです。あれじゃあ、ウサギと競争しても負けるわけだ。 am
坪内稔典さんの本は楽しいし、勉強になります。先般、図書館から借り出したのは『屋根の上のことばたち』という本で、その内容を紹介します。



小林一茶は継母と折り合いが悪く、実父が「お前は江戸に出て過ごせ」と言いました。
一見すると父の温情に見えるが一種の追い出し。15歳で故郷を離れて帰郷したのは49歳。その間は江戸で貧乏暮らし、声が掛かると俳諧の師匠に変身。食べるものがなくなると寝て暮らすしかない。49歳で歯が全部なくなったが、入れ歯なんてなかったから老けて見えたのでしょう。
信州柏原の実家に戻とる継母との大紛争。奇しくも財産の半分を取ることができたのですが、継母と紛争中は仕事をほったらかし。江戸で覚えた俳諧が頼りでも客が寄り付かない。農作業なんて馬鹿らしくてやっておれんなあ、と思っていたら死期が迫ってきたのでした。 am
図書館で『ハーバードで一番人気の国・日本』を借りてきた。著者は佐藤智恵というお方。副題は「なぜ世界最高の知性はこの国に魅了されるのか」とあります。
ハーバード大学経営大学院の教授らが指摘するのは、アメリカの企業経営姿勢は上から下(上意下達)だが、トヨタは下から上(下意上達)だという。


印象深いのはトヨタ自の経営方針。ハーバードで20年以上もオペレーションを教える教授が言うには、「オペレーションの目的は、普通の人々が力を合わせて大きな偉業を成し遂げること。トヨタほど、それを伝えるのに適した会社はありません」という。
トヨタの社長は英語をペラペラ。驚くべきは「カイゼン」にある。「カイゼン」は従業員が積極的に上層部にカを提案すること。言い換えれば下からの提案や意見を上層部が真剣に検討すること。もちろん、上層部がその提案を短時間に理解し決断することだというのです。
大学時代に机を並べた連中がトヨタの副社長や役員になったことはうれしいことです。 am
前回に続いて杜甫のことを追加で書きます。前回の投稿で、「盛唐の名家に生れながら、政治の世界に没入するのが煩わしく詩人になったお方」と書きました。
杜甫の時代、政府高官は馬に跨って出勤したようです。政府の高官といえば、事務次官かそれ相応の高官だったのでしょう。しかし杜甫は詩をつくるのが趣味で詩人に方向転換したらしいのです。



その代わり月給がないから貧乏は覚悟の上。杜甫は名家の出身だから財産は山ほどあった。うわさでは、杜甫は召使を含めると10人くらいの世帯をかかえていたことが分かっているそうです。
杜甫は酒が入るとユーモアが飛び出して来る人だったようです。秋になって暴風雨が吹き荒れると、自宅の茅ぶきの屋根が吹っ飛んだのですが、子どもらが吹っ飛んだ茅を持ち去ろうとすると、酒にグテングテンになった杜甫は子どもらを追いかけて、返せ、返せとスッテンコロリしながら追いかけたそうです。
「・・・そうです」と書いたのは、興膳宏先生の「杜甫のユーモア、ずっこけ孔子」に書いてある話を脚色して投稿したからです。 am
「・・・そうです」と書いたのは、興膳宏先生の「杜甫のユーモア、ずっこけ孔子」に書いてある話を脚色して投稿したからです。 am
ジジは図書館に通い、先日も『天山南路の旅』を借りてきました。陳舜臣とNHK取材班が取材したシルクロードの旅です。今から40年も前の旅だから、人々はラクダやウマにまたがって旅をしました。
まずは写真をご覧あれ。草原のすぐ後ろには雪山があります。内陸だから冷暑が厳しいようです。

シルクロードの住民にとっては、食物を確保するのが先決。もちろん取材班は大型バスを仕立てて移動しましたが、それに比べると日本は狭い。九州から北海道までクルマで走っても2~3日で横断できるが、中国ではそういう訳にはいかない。


シルクロードの住民にとっては、食物を確保するのが先決。もちろん取材班は大型バスを仕立てて移動しましたが、それに比べると日本は狭い。九州から北海道までクルマで走っても2~3日で横断できるが、中国ではそういう訳にはいかない。
中国は現在、高速道路や新幹線をあちこちで建設中です。しかし、完成までにあと何年かかるか。中国は多民族だから民族によって話し言葉がちがう。表意文字がなかったら全土統一ができる訳がない、と思うのでした。 am
ジジは會津八一(あいづ やいち)の人柄は全然知らなかった。歌人でも書家でもあったらしいのですが、昭和31年没に鬼籍入り。恐いジジだったのか、剽軽な男だったのか分からない。姓は會津ですが、生れと居所は新潟市だったとか。

突然、こんなところに出現したのは、本に書いてあったのです。


突然、こんなところに出現したのは、本に書いてあったのです。
天地の我一人いて立つごとき この寂しさを君や微笑む
これは、會津八一が詠んだ歌。會津八一は孤独だったのか、微笑むことを知らなかったのか。
実は上掲の歌は、法隆寺西院伽藍のある釈迦三尊像のことだそうです。ジジは法隆寺に行ったがことがありますが、当時は仏像に特別な興味があったわけではなく、釈迦三尊像を拝観したかどうも忘却。
実は上掲の歌は、法隆寺西院伽藍のある釈迦三尊像のことだそうです。ジジは法隆寺に行ったがことがありますが、当時は仏像に特別な興味があったわけではなく、釈迦三尊像を拝観したかどうも忘却。
本によると、會津さんは早稲田大学教授でしたが、未婚だったそうです。ひょっとすると仏像を愛するが余り、適齢期を忘れしまったのか。
法隆寺は奈良から少し離れた西方にあります。聖徳太子が法隆寺近辺から飛鳥の都まで馬に乗って通勤していたそうだから、法隆寺近辺の往時は繁栄していたのかなあ。 am
NHKが「麒麟がくる」を放映中。主人公は明智光秀で、光秀は織田信長の家来。ある本を読んでいたら「おや、そうだったのか」という話が展開していました。頼山陽の著書『日本外史』が根拠のようです。


明智光秀は親分の織田信長の命令で「居城である亀山城を発し丹波と山城の国境の老坂を越えた」ところで方向転換し、京都の本能寺を目指しました。つまり早朝、信長が寝ぼけ眼でうつらうつらしていたところを、明智光秀軍が信長を急襲したという訳。
頼山陽は「お前の敵は秀吉ではなかったか。敵を見あやまったことが秀光の誤算だった」とあります。
ふーむ、そうかな。鰯よりも鯛を射る方が注目を浴びる。大物の方が物語になると考えて方向転換したのではないか。その背景には、NHKの大河ドラマなら歴史に名を残せると考えたのだろう。明智光秀は真面目というよりも野心家、ペテン師だったのではないか。異説かなあ。 am
杜甫の話をします。本を読んでいたら、杜甫のことが書いてありました。
杜甫は8世紀の中国(盛唐)の詩人。盛唐の名家に生れながら、政治の世界に没入するのが煩わしいと詩人になったお方らしい。


杜甫は当初はお役人だった。2人の子どもがいたが、遠い所に単身赴任することになりました。電車も自動車もない時代です。あゝ、子どもたちに会いたと思っていた時に、単身赴任が終わりました。
家族の元へ帰ってきて驚いたのです。妻はやせ細って老婆みたい。娘は厚化粧までして遊び呆けている。家庭崩壊が起きていたのでした。
世にいう大詩人の家庭でもそんなことがあるのか。勉強しろ、大学にいけ、これでは娘がぐれるのは当然かな。 am