梅雨時の花といえばアジサイ(紫陽花)ですが、アジサイも盛りが過ぎたようです。
本土寺(松戸) 観音寺(丹波)
ことしはJR常磐線北小金駅から徒歩10分ほどにある、あじさい寺「本土寺」を訪れなかったけれど、アジサイはもう盛りが過ぎていることでしょう。
ここで二つ詩を紹介しましょう。作詞者は小藪実英という、丹波あじさい寺「観音寺」の住職さんです。ちょっと長くなりますが、全文を掲載します。絵も達筆のようで、色紙も描かれるようです。
<合掌の心Ⅰ>
道に迷って腹を立て 電車に乗り遅れて腹を立て 寺が遠いと腹を立て
花の盛りが終わっていたと腹を立て 喉が渇いたといって腹を立て
汗がよく出ると腹を立て 番茶をするりながら 愚痴をいっぱい言って
参拝する時間がなくなったと 本堂もお参りせず 待たせたタクシーに
とび乗って 帰っていかれた せわしない巡礼者がいた
おかげで その人から 私は多くのことを 学ばせていただいた 合掌
<合掌の心Ⅱ>
道の迷ったおかげで 知らない所をたくさん見ることができたと喜び
電車に乗り遅れたおかげで待ち合いの人と話ができたと喜び
寺が駅から遠いおかげで足腰の鍛錬ができたと喜び
花の盛りが終わっていたおかげで 次お参りする時の楽しみができたと喜び
喉が渇いていたおかげで お水がおいしかったと喜び
番茶をするりながら 心が温かくなるような 話を聞かせていただき
ご本尊さまに ご挨拶させていただきますと お参りにいかれ
今日は一日に二ヵ寺だけ お参りできたらいいのだから
地図をたよりに 歩いていきますと 仲の良さそうなお友達と
ニコニコと話しながら 帰っていかれた 心の豊かな巡礼者がいた
おかげで その人から 私は多くのことを 学ばせていただいた 合掌
人生って心の持ちよう一つで不幸にもなり幸福にもなります。それはジジでも分かるのですが、傘寿を迎える齢になっても達観できないのです。
ジジ
寓話「兎と亀」の話です。この寓話は室町時代に伝来した「イソップ物語」中の話を翻訳したもので、「油断大敵」の教訓でした。ところが・・・・
東大インド哲学科出身のひろさちやさん(宗教評論家)がインド人にこの話をしたところ、インド人は「悪いのは亀だ。兎は急性の病気で休んでいたかもしれないのに、亀は兎に声を掛けなかった。亀には慈悲心のかけらすらない」というのです。
またまた、ところが、ペルシア(イラン)でこの話をすると、ペルシア人は「もしオレが亀だったら頭を使う。自分とそっくりな弟を先ずゴールに立たせておいて、それからヨーイドンする。亀は景色を楽しみながらゆっくり進めばいい。いくら兎が急いでも、亀はゴールでにやにやして迎える」・・・商売上手のペルシア人は考えることが突飛です。
日本人は「これはあくまで競争で、一生懸命走ることが正々堂々というものだ。油断した兎が悪い!」となるのですが、インド人もペルシア人もそうは考えない。「所変われば品変わる」=「民族がちがえは思考もちがう」という教訓。
欧米人からみれば、日本人も中国人も隣の半島人も見分けがつかないでしょうが、それぞれ考え方や生き方はちがいます。それを無視して仲良くやれると思っていると大間違いです。用心、用心です。
ジジ
自灯明 法灯明
仏教には「涅槃会(ねはんえ)」という特別な日があります。お釈迦様の入滅を偲ぶ日ですが、お釈迦様を偲ぶ日は3つあるそうです。誕生日を祝う「花祭り」(4月8日)、悟りを開かれた「成道会」(12月8日)、そしてお亡くなりなった2月15日の「涅槃会」(2月15日)です。四季に恵まれた日本では3つの行事を別々の日に行いますが、年がら年中暑い南アジアの南伝仏教諸国では一日にまとめて行うそうです。
お釈迦様は入滅されるとき、弟子たちに「自分自身を灯明とし、自分自身をよりどころとせよ。他のものに頼ってはいけない」とおっしゃったそうです。つまり仏教は自力本願であって南アジアではこの教えを守ったけれども、北東アジア諸国ではいつの間にか他力本願の教えに変化しました。
宗教研究家のひろさちやさんはその著書でこんな例を書いておられます。
『インドに旅行した日本人がお土産物店で買い物をした。値切って安く買えたと喜んでホテルを帰ると、ツアーの一人が同じ土産袋をもっているので、いくらで買ったかと聞くと、もっと300ルピーも安く買っていることが分かった。さっそく土産物屋に引き返して「300ルピーを返せ」というと、相手は呆気にとられ、「あなたはその値段で納得して買ったのでしょう。いくらで売ろうが私の自由です」という。自分は自分、他人は他人というわけです。これはお釈迦様のいわれる「自灯明・法灯明」。“他者に頼らず自己を拠りどころとし、法(釈迦の教え)を拠りどころとして生きなさい”ということです。』
何事も他人に頼ってはいけない。他人の責任にしてはいけない、自分で考えて実行し責任をもちなさい、ということでしょう。
ジジ
「ビュリダンのロバ」という寓話があります。
ロバが腹を空かせて道をトボトボと歩いていると、二又辻にさしかかった。辻の道標には、右に行けば干し草の、左に行けばニンジンの絵が描かれている。そこへ到達する距離はどちらも同じ。ロバは干し草をたらふく食べたいと右に10mほど進んだけれど、栄養価の高いニンジンがいいなあと辻まで引き返して左方向に10mほど進みました。
しかしやっぱり干し草にしようと引き返して右に行き、でもニンジンも諦められないとまた引き返し・・・そんなことを繰り返しているうちに腹がペチャンコになって餓死してしまった、というお話しです。
日本にも似た話がありますね・・・「二兎を追う者は一兎も得ず」。兔の場合は欲張りだったからですが、ロバは欲張ろうししたわけではなく、優柔不断だったからです。
選択を迷っているうちに機会を失ってしまうことはママあります。今夜は回転寿司にしようかと車で向かっているうちに、いやいや中華料理がいいと車の方向を転換。やっぱり回転寿司がいい、いや中華料理がいい、と迷っているうちにガソリンが切れてお終い、ということだってあるのです。
気を付けなければいけないのは国だって同じですね。お隣には玉座をめぐって平気で兄弟殺しまでするという物騒な国があるというのに、「遠くの親戚より近くの他人」ということで、米国につこうか中国につこうかと迷っているうちに瀕死になっている国だってあるのです。迷うとロクなことがありませんね。
ジジ
「梅」という字
今朝のわが家の小庭で
梅花が目につくようになりました。梅というと、菅原道真の「飛梅」を想い出します。
菅原道真は藤原時平との政争に敗れて大宰府(福岡)に左遷されました。平安京の道真の屋敷には梅の木があり、大宰府に出発するにあたり、道真は梅の木に別れの歌を詠みました。
東風(こち)吹かばにほひをこせよ梅花主なしとて春を忘るな
すると、その梅の木が主を慕って京の屋敷から大宰府に一夜のうちに飛んでいったというのです。
梅の木が中国から日本にわたってきたのは、おそらく奈良時代でしょう。漢音の「メイ」が大和人には「ンメ」と耳に響き、それが「ウメ」となったとされています。
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さて、その「梅」という字。梅は中国を代表する花木の一つですが、元々はウメを意味する漢字は「某」だったそうです。「甘」とは祝祷に使う器を表すようです。それがどうしてウメと関係があるのかよく分かりませんが、「某」という字は、いつとはなしに「なにがし」「だれそれ」というような使われ方になりました。そのため、ウメを意味する新しい字が必要になり、そこで生まれたのが「楳」という字。そして「楳」の異体字として誕生したのが「梅」という字だったそうです。
北野天満宮(京都) 湯島天神
梅というと北野天満宮や湯島天神の梅が有名ですが、大学受験生にとっては「梅」を観賞するどころではないでしょうね。
ジジ
ジジの両親はいずれも73歳で他界しました。戦争が激しくなって家族ぐるみ大阪から東三河の田舎町に疎開し、両親は苦労の連続でしたから寿命を縮めました。平均寿命が男80才、女87才となった今日の基準でいえば早死にですが、ジジは両親よりは長生きしており、惚け老人や寝たきり老人にならないのであれば、もう少し長生きしてもいいかなと思っています。
それはそれとして、きょうはナゾナゾを1つ出します。
Q: 母には二度会えるが、父には一度も会えないものがあります。何でしょうか?
このナゾナゾは純国産です。言語学的には有名なナソナゾだそうです。なぜなら、大和言葉の発音が時代とともに変化したことを証明する事例だからです。ちなみに、正解は「唇」。
私たちは、「父」を」「ちち」、「母」を「はは」と発音しますが、大昔は違いました。父は「ちち」で変わらないのですが、母は「ぱぱ(Papa)」と発音していたそうだ。つまり「母はパパだった」。「ちち」と発音するとき唇の上下は触れませんが、「ぱぱ」と発音しようとすると唇が2回触れます。だから正解は「唇」。室町時代のナゾナゾ集『後奈良院御撰何曾』に載っているそうです。
ジジ
わが家が加入しているIP(インターネップロバイダー)主催の「NHKカジュアルクラシックコンサート」
の招待募集に応募したところ抽選に当たり、招待ハガキ(2名)が送られてきました。
会場は柏市文化会館でしたので、バス・JR電車を乗り継いで柏駅まで行き、そこから歩いて会場に
向かいましたが、会場までの道にイチョウ並木があり、黄色の染まった葉や落ち葉がきれいでした。
開演は午後6時から始まり、ピアノ・バイオリン2人・ビオラ・チェロ・オーボエの6人の奏者による
六重奏やソロ・デュオ演奏に加えて、ユーモアに富んだトークなどもあって、肩の凝らない、楽しい
コンサートでした。私はビオラ奏者による、ひと味ちがう「浜辺の歌」の熱演が心に沁みました。
KUN
JR常磐線松戸駅の南西にある小高い丘の上に「戸定邸」(画像上)という立派な武家屋敷があります。家屋は重要文化財に指定されており、そこからは東京都と千葉県の境に流れる江戸川や、川向こうにある柴又帝釈天にわたる「矢切の渡し」が一望できます。
この戸定邸の主は、水戸藩最後の藩主徳川昭武。実兄の徳川家最後の将軍だった徳川慶喜が後年がしばしば訪れ、弟とともに趣味の写真を楽しんだそうで、それらを偲ぶ品々が陳列してあります。
徳川慶喜 徳川昭武
きょうは「慶喜」をどう読むかの話です。
徳川将軍だった家康、吉宗、慶喜・・・これらはいずれも実名(じつみょう)です。実名とは公家や武家の男子が元服する時につける名ですが、実名には、聡明だとか、高潔だとか、勇敢だとか、安泰だとか、そういう目出度い・縁起のいい字を2つならべて書き、これを“訓で読む”のが原則で、だから「慶喜」は「よしのぶ」と読み「けいき」とは読まない。
ただし、この“訓で読む”は、何らか理屈あれば、どのように読んでもいいそうで、明治時代の節用集(字引みたいな書物)に附してあるよみ仮名には「のりよし」とあり、「よしひさ」とも読んだと書かれてあり、“訓で読む”かぎり誰からもどこからも文句がでないのだそうです。
そもそも、実名というのは非常に大事なもので、人はそれを尊重してめったに口にしてはならず、人が生前に他人から実名で呼ばれるようなことはまずなかったそうです。以上は、中国文学者の高島俊男さんのエッセイに書いてあった話です。
きょう11月22日は「いい夫婦の日」ですが、徳川慶喜の命日でもありました(1913年(大正2年)11月22日没)。
ジジ
スズキ (鱸)
魚屋の店先に「スズキ(鱸)」が並んでいました。大きな口、しかも下顎を突き出した面(つら)は獰猛な感じさえします。その風貌から、ジジはてっきり海の魚と思っていましたが、春から秋にかけては入江や川、湖で暮らすそうです。
スズキは東京湾、伊勢湾、瀬戸内海、有明海などの内海が主な漁場で、最も漁獲量が多いのは千葉県だそうです。味が淡白な白身魚で、細切りにして冷たい水で洗って脂を抜き、氷を載せた皿に盛って酢味噌か二杯酢で食べるのが最高とされ、釣り人に人気があります。
釣上げし鱸の巨口玉や吐く 蕪村
スズキは出世魚でもあるのです。中国古代の周の武王が殷の紂王と戦ったとき、川の中流でスズキが舟に飛び込んできました。武王は、これは吉兆にちがいないと、スズキを天神に捧げました。天神が武王の心がけに味方したのでしょう、武王は紂王を倒して君臨に成功しました。上記の与謝蕪村の俳句はこの故事に由来しているのでしょう。
また日本でも、平清盛が伊勢から熊野に参詣に向かう海路でスズキが舟に飛び込んできました。平清盛は周の武王の故事を知っていたのでしょう。舟に飛び込んできたスズキを神棚に祭ったところ太政大臣にまで上り詰めました。
出世魚の面目躍如というところですが、室町幕府第6代将軍足利義教の子の足利義視は、京の将軍御所を出て琵琶湖方面に向かったとき、近江の山田というところでスズキが舟に飛び込んできたのですが、彼はこのスズキを料理して食べてしまいました。それが拙かったのです。足利義視は将軍の子でありながらついに将軍になれませんでした。出世魚の怨念はおそろしいですね。
ジジ
「秦始皇帝」といえば、中国の春秋戦国時代から抜け出して中国を初めて統一した皇帝です。それまでは「王」と称していたのを初めて「皇帝」と名乗ったから「始皇帝」(紀元前246年~紀元前221年)です。
始皇帝の在位は短かかったためその息子が皇位を継承し、「二世皇帝」と名乗りました。ただ、二世皇帝は政務全般を趙高という丞相(総理大臣格)に任せっ放しでした。それがいけなかったのです。趙高は密かに謀反を企てたのですが、そのためには忠実な家臣が必要です。しかし、大勢いる家臣の中で本当に信用できるのが誰々かが分かりません。そこで一計を案じました。それが「指鹿為馬」という故事です。
ある時、趙高は「皇帝陛下、これは馬でございます」といって二世皇帝に鹿を捧げました。二世皇帝は「これは鹿ではないか」と笑いながら趙高の群臣たちに「お前たちはどう思うか」と迫ったから、群臣たちは困惑しました。「御意、鹿でございます」と答えた連中を、趙高は即刻クビにしました。
じつはこの話、「馬鹿や死ななきゃ治らない」の「馬鹿」という言葉の由来です。
ところで、韓国には「バボ(babo)」という言葉があって、「そんなことも出来ないのか、このバボ!」というような使い方をするそうです。日本語の「バカ」とよく似た使い方ですね。でも、この「バボ」は「馬鹿」ではなく、語源的には「大飯食い」というような意味合いで、要するに「役立たず」「利用価値がない」といったニュアンスのことばのようです。
韓国はいまだに日本を上から目線(つまり日本は韓国より格下)でしか見ないから、日本は「韓国の言う通りにしろよ、このバボ!」ということでしょうか。でも、「バボは死んでもなおらない」のでしょうね。
ジジ
マグロ(鮪)
昨年1月のことでしたか、葛西臨界水族館のクロマグロが大量死する事件がありました。
2年前、5人の孫たちを連れて訪れたことがありますが、大水槽の中でマグロが回遊する光景をガラスこしに眺めるのは壮観でした。
クロマグロは魚屋や寿司屋ではホンマグロとも呼ばれます。高価なマグロだからジジの口には滅多に入らないですが、かつてはクロマグロが房総半島沿岸に群れをなしてあらわれ、房総の漁師たちは小舟に乗って釣り上げたそうです。
古くは『万葉集』にもマグロを詠んだ歌が載っています。当時は「まぐろ」を「しび」といっていたようです。
しび(鮪)突くと海人の燭せるいざり火のほにか出でなむ我が下思(したもひ)を 大伴家持
(鮪を銛で突こうと漁師が漁火を灯しているが、私の秘めた思いをほのかに明かしてしまおうか)
しかし近年、天然クロマグロは絶滅寸前。それに代わって頭角をあらわしたのが近大養殖クロマグロ。いまや回転すし店で幅を利かせる存在となりましたが、ジジは「まぐろの日」(10月10日)という記念日があることを知りませんでした。
ジジ
漢字小話を一つ。きょうの漢字は「谷」です。
「谷」という字は両側から迫り出した山の下方にV字型の底がある姿を表しています。
手許の『漢語林』の「谷」の項をみると「①たに。山と山の間の細い流れ、②みち。経路、③きわまる、④やしなう」とあり、音読みは「コク」、訓読みは「たに」とあり、「や」という読み方はありません。念のため『岩波国語辞典』の「や」の項を見ると、そこにも「谷」という字はありません。
東京・渋谷(しぶや)駅前 京都・渋谷(しぶたに)街道
そこで少し調べてみると、「渋谷」は、東京では「しぶや」ですが、京都の京都の「渋谷街道」の「渋谷」は「しぶたに」です。大阪市内の幹線道路、谷町筋の「谷」は「たに」だし、今川に義父母が眠っている京都東山の大谷本廟(西大谷)の「大谷」は「おおたに」ですが、東京の日比谷・四ツ谷・市ヶ谷・祖師谷・雑司ヶ谷・谷中などの「谷」はいずれも「や」。人名でも、文芸評論家の故・谷沢永一(大阪府出身)は「たにざわ」ですが、元中日ドラゴンスの谷沢健一(千葉県出身)は「やざわ」。概していえば関西では「谷」を「たに」、関東では「や」と読むようです。
これには何か訳があるのかと調べてみると、関東以北の「や」はアイヌ語の影響。アイヌ語では湿地のことを「やち」といい、それが長い年月のうちに「や」となったようです。
では、「たに」と「や」の境界線はどのあたりかですが、静岡県の浜名湖と新潟県の親不知を南北に結んだ線のという説があります。ジジが育った東三河には、「谷」を「や」と読むケースが少々あり、蒲郡市の「三谷(みや)温泉」、鳳来寺山麓の「湯谷(ゆや)温泉」がそれです。ところが同じ「湯谷温泉」でも山口県や島根県にある「湯谷(ゆたに)温泉」と読むそうです。
関東地方の駅で「谷」を「たに」と読むのは、鶯谷、茗荷谷、小湧谷の3駅だけ。その他の読み方として長谷(はせ)が1つ例外的にあるが、あとの48駅は「や」だそうだです。
ジジ
新聞に出ていた招待コンンサートにハガキ応募したところ招待券が届いたので、くーたんとサントリーホールに出かけました。
指揮者: マティアス・バーメルト (ウィーン出身。マルと同年代)
管弦楽: ジャパン・ヴィルトゥオーゾ・シンフォニー・オーケストラ
(このコンサートのために編成された特別オーケストラ)
演奏曲: W.A.モーツァルト「交響曲第40番K.550」
E.エルガー「チェロ協奏曲 Op.85」
H.ヴィエニャフスキ「ヴァイオリン協奏曲第1番 Op.14」
F.ショパン「ピアノ協奏曲第1番 Op.11」
モーツァルト「交響曲第40番」はおなじみの曲です(モーツァルトの三大交響曲の一つ)。
エルガー「チェロ協奏曲」は、夭逝したイギリスの女流チェリスト、ジャクリーヌ・デュ・プレが演奏して有名になった曲。ドヴォルザーク「チェロ協奏曲第1番」と双璧をなす名曲です。チェリストの水野優也は桐朋学園大学の1年生だそうですが、上手いもんだなあと感心しました。もちろん暗譜での演奏でした。
ヴィエニャフスキはジジにはなじみのない作曲家ですが、ポーランドではショパンに続く位置にあるそうです。ヴァイオリニストの服部百音は2009年のヴィエニャフスキ国際コンクールで最高位受賞しており、「ヴァイオリン協奏曲第1番」には思い入れがあるのでしょう。彼女は1999年生れ。まだ東京音大付属高校に在籍のはずですが、日本ではほとんどなじみのない曲なのに暗譜で弾き、大喝采でした。
ショパン「ピアノ協奏曲第1番」はおなじみの曲。ピアニストの横山幸雄は1990年のショパン国際コンクールで3位入賞の実力者。2011年5月3日~4日に18時間かけて、ショパンの全独奏曲212曲を暗譜で弾き通しています(ギネス記録)。舞台に登場したピアニストは貫禄充分。リラックスした雰囲気で弾き出し、、それはそれは名演奏でした。
アンコール曲は、グリンカ「ルスランとリュドミラ」序曲、これもよく聴く曲でした。
ジジ
コイ(鯉)
「コイ」は「コヒ」に通じます。日本語の「コイ(鯉)」の語源は「コヒ(恋)」だったのです。『大言海』にも書いてあることだから“まさか!”とはいえません。
いまから2000年近く前に、景行天皇という天皇がいらっしゃいましいた。第12代天皇で日本武尊(やまとたける)の父君ですが、お子さんを80人もおつくりになったから、皇后・妃も多かったのでしょうね。
景行天皇が美濃国に行幸されたときのこと、お付の者が弟媛(おとひめ)という容姿端正な乙女がいるというので会いに出かけて一目惚れされました。さっそく求婚したのですが弟媛は竹林へ身を隠してしまいました。天皇は何とかものにしたい思い秘策をねりました。竹林近くの池に鯉を放って朝夕監視したのです。すると弟媛が鯉を見たさに池の辺に姿をあらわしたので、このチャンスを逃がしたら悔いになると、甘い言葉で口説いて成功し、媛は首を縦にふったそうです。
それだけの話だったら、「あ、そう」で終わってしまいますが、続きがあるのです。
それまでは「鯉」を中国読みの「リー」といっていたのですが、景行天皇のこの故事にあやかって「鯉」を「こい」と呼ぶようになったのです。何だかうさんくさい話ですが、目出度い話だから信じましょう。
正直いってジジは鯉も恋も苦手です。とくに「鯉の洗い」は何となく気味が悪くて食べる気になれません。淡水魚には寄生虫がいるという話もあるから余計ビビります。それにこの年になると、恋なんて関係ありません。
ジジ
フグ(河豚)の性転換
フグは夏の料理ではなく冬の料理。いささか時季外れの気がするが、ようはフグの話です。
フグ(河豚)といえば猛毒があり素人には手におえない魚ですが、美味最高の魚とされています。
ツマジロモンガラ♂ ツマジロモンガラ♀
そのフグの仲間にツマジロモンガラという魚があって、この魚はオスが縄張りをくつってハレムを形成します。つまり一夫多妻制です。ハレムの主はメスどもにどんどん卵を産ませるのですが、体格が貧弱なメスは相手にされない。するとそんなメスは、メスであることをあきらめて性転換しオスに変身し、縄張りをつくりハレムを主になろうとするというです。
魚には往々にして性転換することがあるそうです。人類の性転換は生殖機能まで転換するわけではないですが、海生動物の中には生殖機能まで転換するケースもあり、これはもう完璧な性転換です。
魚に例をとれば、性転換にパターンがあるようで、オスがメスに転換するパターン(例:ハナビラクマノミ)、メスがオスになるパターン(例:サクラダイ)、オスがメスにも、メスがオスにもなる両方向パターンもあるそうです(例:オチゴンペ)。
人間にはそんな器用なことは無理ですが、ただ男尊女卑社会では女性が男性になりたくもなるでしょう。だから安倍政権は男女機会均等社会にしようと躍起になっています。しかしもしそれが可能になったら、ヘボな男性議員は性転換して女性議員になり大臣の椅子をねらうかもしれません。でもそんなことは何時まで待っても不可能でしょうね。
ジジ