下掲の画像はネズミです。まるまると太っていて餌はもういらない、それよりも眠たい、といった感じです。
このネズミは長女一家のゆうくんが、来年はネズミ年に因んで、自宅近くの近隣センター(公民館)の工作教室でつくったものです。ネズミ年といえば「十二支」のトップバッター。ネズミはイチローみたいですね。
子(ネズミ) 丑(ウシ)
寅(トラ) 卯(ウサギ)
辰(ドラコン) 巳(ヘビ)
午(ウマ) 未(ヒツジ)
申(サル) 酉(ワトリ)
戌(イヌ) 猪(イノシシ)
ウシとウマ、サルとイヌとくれば、ネズミとネコ(猫)あってしかるべきですが、それがないのにはワケがあります。
【お釈迦様が動物たちにいいました。正月元旦にお年玉を12個用意してあるからみんな来てね、と。ところがネコは日向ぼっこしながらウトウトと眠ってしまいました。元々ネズミとネコは仲の良い友だちだったから、ネズミはネコに教えてあげたのですが、ネコは眠りながら聞いていたものだから、お釈迦様のところに馳せ参じたのは1月2日でした。その結果、ネコはお年玉をもらえませんでした。ネコはいろいろ思案して、お釈迦様に屁理屈をいったのですが、お釈迦様は「聞く耳ない!」とけんもほろろで、ネコを追放しました。ネコは怒り狂ってネズミに八つ当たり。ネコがネズミを追っかけてガブリと噛みつくようになったのは、その時からでした。】
この話から連想するのは、ネズミは日本の首相、ネコは某半島の大統領かなあ、よく似てるなあとジジは思うのですが違うかな?
ジジ
数日前ポストインされてた「クリスマス イブ コンサート」の案内。
場所はわが家から歩いても近距離の住宅団地の集会所と書かれていました。
開演は15時から。家事が一段落した後、ジジも誘って行ってみました。初めて行った集会所ですが、開演前には用意されていた椅子も満席、立ち見も出るほどでした。
中央に置かれたキーボードを弾きながらソプラノ独唱と二重唱。
二人の音大出身の方だけあって、奇麗なソプラノでクリスマスソングを楽しい語りを交えながら聴かせて下さいました。
聴衆も一緒に耳慣れた曲を何曲か合唱しました。
1時間半程のミニコンサートでしたが、ちょっぴりクリスマス気分を楽しみ癒されました。
KUN
9月下旬からひざを痛めていて、歩行がつらい状態が続いていました。
近隣の市民センターでコンサートの案内チラシを見つけて、聴きに行きたいと思っていたコンサートのチケットがまだあるかとチケットセンターに電話したところ、まだあるとのこと。
会場はバスで行けるところなのでジジと出かけてきました。
バスに乗ったところ、途中でジジの友人ご夫妻が乗ってこられてばったり。ご主人は身体が少し不自由な様子で杖をつかれていましたが、行き先は私たちと同じコンサート会場。
コンサートホールは3階まで大入りでした。指揮者は小林研一郎さんで演奏曲目は
ドヴォルザーク: チェロ協奏曲ロ短調(奏者 伊藤悠貴)
ドヴォルザーク: 交響曲第9番ホ短調「新世界より」
交響曲の第2楽章は耳慣れたメロディで、高校時代に音楽の時間で習った「家路」を思い出して、心の中で歌いました。
アンコールで演奏された「ユーモレスク」もまた心を癒してくれました。
時代が令和に代わって、素晴らしい演奏を聴くことが出来て満足でした。
このところ膝の痛みで出かける機会が少なく気持ちが塞がっていましたが、今日はとても心が満たされ、帰途の車窓からの見事な紅葉も楽しむことが出来ました。
KUN
近隣のN市に4月、コンサートホールがオープンしました。
東武野田線とつくばエクスプレスが交差する駅に大きなショッピングモールがあります。そのショッピングモールにはシネコンがあり、以前はよく映画を見に行っていたのですが、この5~6年はすっかりご無沙汰して足を運ばなくなっていました。
そのショッピングモールに隣接してコンサートホールがあると聞いて、サイトでみると、そのコンサートホールで”チェロ四重奏”が予定されていているとのこと。さっそく応募し招待状を頂き、ジジと一緒に出掛けてきましたが、すこし早めについたのでショッピングモールで夕食を済ませ、モール内をブラブラしていると、大きな恐竜が2頭、動いているのです。恐竜を取り囲む子供たちは大喜びです。
5~6年前に来ていた頃より、店内も違ったお店も増えてキョロキョロしました。
新しいコンサートホールはまだ木の香りがしていました。
7時開演のコンサートは席は埋め尽くされ満席で、4人のチェリストが素敵な演奏を聞かせてくれました。
コンサートといっても堅苦しいコンサートではなく、いささか冗談めいた曲の演奏もあり、笑い声が洩れる楽しいコンサートでした。
交通の便も良くて、演奏が終わって9時にホールを出ても10時前には帰宅できました。いい演奏会があればこれからも利用したいと思いました。
KUN
日経新聞の夕刊に「プロムナード」という小欄があります。
先日(3月13日(水))の担当は歌人の笹公人さんでした。歌人としては若い人で、あちこちの小・中・高校で短歌の特別授業をすることがあるとのことですが、高崎市(埼玉県)の小学校で授業したときのことが書いてありました。
小学生は、短歌の作り方を手ほどきすると、すぐに覚えて思いがけないような衝撃的な短歌を作りあげるというのです。
その例として引用されていたのがこちら↓
大きな手せまってきらた虫かごのゼリー生活始まるんだよ 小学6年生
虫は生存競争が大変です。人間様のようにエサ(食料品)を食品スーパーで買ってくる方法は思いつかないから、エサは独力で探すしかありません。カブトムシやクワガタなら木の枝にへばりついて樹液をエサにします。
でもそこには人間のガキ大将という天敵がいて、うかうかして居られないのです。セミであれば「このバカヤロー!」とオシッコをかけて退散できるのですが、カブトムシやクワガタは動作が鈍いからガキ大将に捕まってしまいます。
問題は、捕まって虫かごに入れられるとエサが用意してあることです。自ら努力してエサを探すのがいいか、ガキ大将に捕まって虫かごの中で悠々自適の生活をするのがいいか、それは虫それぞれの思惑でしょう。
笹公人先生は、虫カゴ内の生活を「ゼリー生活」と表現したところがすごい、と仰っています。
そういえば、安曇野パパやたっくんも小学生だった頃、カブトムシやクワガタ捕りに熱中していたなあ。
ジジ
ドイツに「ハーメルンの笛吹き男」という伝説があります。
田舎町ハーメルンにネズミが大繁殖したのは13世紀のこと。その時、どこからかやってきた男たちが、ネズミ退治を任せろ、成功したときは報酬をいただくという約束を町長とかわして、笛を吹きながら町中を行進するとネズミが集まってきました。男たちはネズミを川に誘導し、一匹残らず川の中で溺死させました。しかし、町長は報酬を払わずに男たちを追い返してしまいました。
ところが、しばらくすると男たちは町へ戻ってきました。そして前回と同じように笛を吹きながら街中を歩きまわると、集まってきたのはネズミではなく、子どもたちでした。子どもたちは遠く離れた山の洞穴の中に閉じ込められ、男たちは消え去ってしまいました。町の親たちはわが子を失って悲嘆にくれましたが後の祭りでした、というお話です。
ジジがこの話を思い出したのは、最近の隣国の状況からです。大統領とその取り巻きが「北と仲良くしよう」「南北統一だ」と笛を吹くと、大衆が「そうだ、そうだ」と大統領にぞろぞろと従っています。経済環境は極端に悪化し、失業者が増加の一途、国際関係がぎくしゃくしているのにお構いなしのようです。国家という船が沈没しなければいいのですが・・・。
ジジ
「Dog 」といえば「犬」ですね。では「a hair of the dog」といえば何のことでしょうか。直訳すれば「犬の毛」ですが、もっと深い意味があるようです。
正月には、近場に住む娘や息子がわが家に寄ってくれました。そこで、当然のことながら、お節料理を囲んでアルコールを一杯となりますが、アルコールにめっきり弱くなったジジはダウンして、眠り込んでしまいます。
じつはそれからが大変です。目が覚めると頭がガンガン。安酒ではなく「越乃寒梅」「久保田」「八海山」、いま流行りの「獺祭」でも同じこと。つまり、二日酔いです。
「二日酔い」には、「迎え酒」という妙薬があります。腹の中で未消化アルコールが「おお、仲間が迎えに来てくれた!」と喜び酔い覚めに繋がりましたが、冒頭の「a hair of the dog 」とは「迎え酒」のことです。手許のコンサイズ英和辞典にも載っているから、本当にそういう俗な言い方があるのでしょう。
でも、なぜ「犬の毛=二日酔い」なんでしょうか。
ここでいう犬は飼い主の言うことをきく忠犬ではなく「狂犬」のことです。中世イギリスには、狂犬に噛まれたときその狂犬の毛を焼いて水と一緒に飲めば狂犬病にならなくて済むという俗説があったようです。ジジは狂犬病になった経験はないが、二日酔いも狂犬病も頭がガンガン痛むし、水が飲みたくなる。昔のイギリス人はそういう共通性を経験的に知っていたのでしょう。
まさに毒には毒をもって、狂犬には狂犬をもって、酒には酒をもって制するということでしょう。
ジジ
今年の干支は「亥」。「亥」という字はイノシシを縦に立てにした姿から生まれた象形文字。最先端にある2本の牙は大切な象徴で、牙がなかったらブタと一緒です。また「亥」は「い」ではなく、本来は「がい」と読むべきでしょう。「辛亥革命」「該当」の「がい」ですから。
イノシシは根塊やイモ類が大好き。牙をドリルに、鼻をスコップにして地面をスイスイと掘り起こして根塊やイモ類食料を食料にしているようです。最近は山林の荒廃が進み、食糧難から里に没するようですが、関東平野の真っただ中に住んでいるジジはこの辺りで野生のイノシシに遭遇したことがありません。
そういえば、かつて「七人の侍」という映画がありました。主役は暴れん坊の三船敏郎。渋い演技の志村喬が総指揮官、太り気味の加東大介、若かりし頃のハンサムボーイ木村功らがメンバーでしたが、村人たちの敵は、暴虐無人の窃盗団だけでなく、畑を荒らし回るイノシシでもありました。
ジジ
地元の企業がメセナ(芸術支援奉仕)の一環で、長年にわたり開催してくれている
ニューイヤーコンサート。今年で25回です。
12月に市の広報誌に招待公募の案内があって申し込んだところ、6000人の応募者
の中から抽選で1300人招待されました。
毎年応募していてもなかなか当たらないのですが今回はラッキーでした。
場所は市内の文化会館、午後3時からの開演でした。
演 奏:新日本フィルファーモニー交響楽団
指揮者:角田鋼亮(新進気鋭の若い指揮者でした)
曲 目:①ブラームス「ヴァイオリン:松田理奈ヴァイオリン協奏曲二長調
(ヴァイオリン:松田理奈)
②ドヴォルザー「交響曲第9番<新世界より>」
エネルギィッシュな指揮と力強い演奏に魅了されました。
年が改まり、交響曲「新世界」を聴くと力が湧いてきます。
久しぶりでいい演奏会でした。
KUN
新年に因んで「新」という字を取り上げます。ものの本によれば、「新」とい字は神事と関係があったようです。
朝日新聞の「新」は「辛」+「木」+「斤」です。「辛」は針、「斤」はオノのことで、木に針(槍)を放って切り取る気を定め、その木を斤でカットし、それを神殿に捧げることから生まれた漢字だそうです。
斤でスパッと切ると多重円形状の木目があらわれ、いい香りがするでしょう。そこから「あたらしい」という意味が派生したようでう。
以下は、司馬遼太郎の『風塵抄』に書いてあった話を書きます。
古代中国に「殷(商)」という時代(紀元前17世紀~紀元前11世紀)がありました。殷を起こしたのは「湯」という王ですが、湯に伊尹という重臣がいました。伊尹は料理人出身だったので、料理の材料となる動植物のことがよく分かっていました。今風にいえば、動植物は細胞の新陳代謝によって常に新しいのです。「王様、いつまでも古いことに拘っていては「徳」は消えます。王様たるもの、「徳」がなければなりませんぞ」と言いかかったのでしょう。
さて、今年はどんな年になるのでしょうか。中国と米国は激しく対抗しているし、韓国の為政者はますます反日化しています。そしてまた、インフルエンザが猛威をふるっています。用心しましょう。
ジジ
先日(11月6日)の投稿「子犬のワルツ」で、ゆいちゃんのピアノ演奏のことを書きましたが、ジジは日課の散歩中、ピアノやヴァイオリンの音が聞こえてくると、ついつい足が止まります。おそらく小・中学生が練習しているのでしょう。
NHK BS1に「駅ピアノ」、「空港ピアノ」というドキュメンタリー番組があります。
ヨーロッパの鉄道駅や空港のコンコースにピアノが置いてあって、通りがかった人が思いつくままに弾くという番組です。ピアノの前で足を止め、腰掛け、弾き始めるのは青年であったり、中高年であったりするのですが、お年よりまでピアノに近づき、思いのままにピアノを弾く光景もあります。
駅ピアノ 空港ピアノ
ジジたちの世代は、自宅にピアノを置いてある人は百人中一人あるかないかでした。家の中で過ごすより外に飛び出して、かくれんぼや木登り、缶けり遊びに明け暮れたものです。
あの頃に比べれば日本も豊かになったのですが、近年は小・中学生時代にピアノを習っても大人になって人前でピアノを弾く人はほとんど見かけることがありません。
西洋と日本とでは、ピアノオやヴァイオリンといった楽器と音楽に対する意識(というか生活習慣)がちがうように思えます。西洋ではピアノやヴァイオリンなどが置いてある家庭が多く、中高年・老人になっても音楽を奏でる人が多く、それを見聞した子どもが自然に楽器に親しむからでしょう。
ゆいちゃん、ピアノはずっと続けた方がいいよ。人生が豊かになるから。
ジジ
安曇野一家から便りが届きました。けんたもたいき(画像下)も立派な少年になり、ゆい(画像下右)もすっかり少女らしくなりました。驚いたのはゆいです。ピアノ演奏のビデオを送ってきてくれたのですが、楽譜が読めるようになったのです。弾いている曲はショパンの「子犬のワルツ」のようですが、このブログにビデオが載せられないのが残念です。
さて、きょうはショパンではなく、モーツァルトの話をしましょう。
モーツァルトはオーストリア西端の町ザルツブルクで生れました。ジジはオーストリアやスイスを旅したことがありますが、ザルツブルクには行きそびれました。とても美しい町で、旅行者にとっては2日か3日は滞在したい町でも、地元の人たちには退屈する町だそうです。
ザルツブルク眺望 モーツァルトの生家(黄色の建物)
モーツァルトはザルツブルク大聖堂お抱えの音楽家でしたが、給料が安すぎてやってられんと待遇改善を要求したところ、大司教から「あ、そう。だったら辞めたら?」と反撃され、東端の町ウィーンに引っ越し、そこで花を咲かせました。
ただ、モーツアルトはプライドは高かったものの、”おっちょこちょい”なところがありますね。とくに金銭感覚はお粗末だったようです。晩年は借金漬けで、指は鍵盤の上を自由自在に動き回っても、首はちっとも回らなくなったようです。
マル
貴乃花が日本相撲協会に退職届を出して話題になっていますね。マスコミの報道では、日本相撲協会と貴乃花の間に誤解があるようですが、外野席から見ていると貴乃花親方もかなり意固地なところがあるように見えるし、ここまでこじれると、もう「戦争」ですね。
最近、たまたま童門冬二の『歴史の生かし方』(青春新書)を読んでいたら、「貴乃花」の名が出ていました。
歴史小説家の童門冬二は、もう90歳を超えています。元々は、東京都庁マンで美濃部知事時代に知事秘書、後に企画室長だったお方で、50歳を過ぎてから退職して小説家になったお人です。
その本に次のようなことが書いてあります。
<歴史を生活(めし)の種にしていていつも思うには、「環境や条件が全く違う時代に生きていた人々の言行がはたして現代の人びとに役にたつのだろうか?」ということ。わたしは“役に立つ”と思っているが、だからといって切羽詰まって歴史の泥沼にズッポリ捕虜(とりこ)になって喘いでいるわけではない。毎日の事象がそんなことは許さない。“事実は小説よりも奇なり”的に絶え間なくおそってくる課題は、手っ取り早く歴史上の類似事件とその時の解決方法を偲ばせる。・・・たとえば2018年春に話題になった「貴乃花騒動」は、そのまま初期の上杉鷹山や二宮金次郎の改革事件を連想させる。>と。
童門冬二が本当に言いたいのは、改革はどんな正しくても一人ではできないということ。それを得るには世俗的な折り合い(妥協)と慣例化している技術(世渡り術)が要る。結局、改革には忍耐と時間が必要ということのようです。
貴乃花は、直弟子の暴行被害事件を契機に、相撲協会の改革を急いだのでしょうが、孤軍奮闘のようでした。社交的でない性格が災いしたように思えてならないのです。
ジジ
「分別」には読み方が二つあります。「ぶんべつ」と「ふんべつ」。読み方によって意味がまったくちがいます。
まず「ぶんべつ」から。ジジが住むK市ではゴミの分別回収が徹底しています。可燃ゴミ、不燃ゴミ、プラスチック、ペットボトル、空き缶、空き瓶、古紙・古布、植木ゴミ、粗大ゴミ、資源ゴミに「ぶんべつ」して出すことになっています。しかしときどき不届き者がいて、市のゴミ回収車はルール違反のゴミには注意書きを付して残しておくのですが、それがいつまでも置きっぱなしのことがあり、ゴミ当番とゴミ収集場所の提供者にとっては迷惑千万です。
次に「ふんべつ」。「あの人はさすがに分別のある人だ」といえば、物事をよくわきまえた人のこと。「あいつは無分別きわまりない奴だ」といえば、ゴミ出しルールを守らない人のこと。
ところが、仏教語の「分別」の意味するところは違うようです。ビックリ仰天ですが、「分別」は凡人の知恵、「無分別」は高僧の智慧のことだそうです。
いまどきノミやシラミは見かけませんが、ジジが幼少の頃は見つけてはつぶしたものでした。ところが、あの良寛和尚は襟元のシラミをつまんで日の当たる縁側で日向ぼっこをさせてやり、日が暮れるとまた襟元に返しやったとか。シラミも生き物。生き物には仏性があるから殺していけない。良寛さんみたいな人のことを「無分別」な人、というそうです。
ジジ
ひと月ほど前、散歩から戻ったジジが隣町の近隣センターに置いてあったコンサートのポスターを見せながら、「21世紀の森と広場のホールに読売日響が来るから行ってみようか?」と誘ってくれました。
演奏会の会場はわが家から近い「森のホール21」でもあり、森のホール21に問い合わせたところ当日券でも大丈夫とのことでしたから、きのうの夕方、我が家から最寄バス停からバスに乗って15分足らずで着きました。
オーケストラは読売日本交響楽団(読売日響)、指揮者は小林研一郎さん。
以前にもこの方の指揮された演奏会に行ったことがありますが、とてもダイナミックな
指揮ぶりで、古希をむかえた人とは思えませんでした。
演奏曲目は、モーツァルト「歌劇「フィガロの結婚」序曲」
メンデルスゾーン「ヴァイオリン協奏曲」
(ヴァイオリンは18歳の服部百音さん)
チャイコフスキー:交響曲 第6番「悲愴」
どの曲も馴染みのある曲で、素晴らしい演奏を久しぶりに聴くことが出来ました。
拍手喝采に応えてのアンコール曲は、弦楽器演奏による「ダニーボーイ」。
オーケストラでの演奏はとても重厚で、胸の中に沁みとおる思いでした。
都内に行かなくても、こうして近場で気軽に出かけられる演奏会が楽しめるのは、
ありがたいことです。
KUN