近くの小川を散歩していると、白いカラーの花が咲いていました。カラーの花は柄杓(ひしゃく)のような姿をしており、日本古来の植物とは思えません。地中海近辺が原産地らしいです。
花名の命名はギリシャ人、原産地はエジプトという説があります。
美貌という点では、後世のクレオパトラでしょうか。クレオパトラは絶世の美女。美貌を武器にローマ帝国に接近し、元老院の貴族がクレオパトラをぞっこん惚れ込みました。
クレオパトラはユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)の愛人となり、カエサルが暗殺されるとアントニウスなどローマ帝国貴族に翻弄され、最後は毒蛇に腕を噛ませて死んだといわれます。佳人薄命の典型でした。
散歩していると、あちこちの新聞ポスト箱に「XX新聞」があり、ひとつ頂戴し広げてみると「坪内稔典選」の俳壇がありました。
ジジの眼に止まったのは4句目の
春の雪とびはねメロンパン買いに
でした。「春の雪」と「メロンパン」で思い出したのは、わが家の次男は何よりもメロンパンが大好きだったこと。幼稚園の頃、メロンパンを買いに出かけたものの、ママに小銭を入れてもらった袋をルンルン気持で振り回して小銭が消えてしまい、大泣きして帰ってきたことでした。
ついでながらアンパンの歌をそえます(坪内捻典『季語集』より)。
あんパンに空洞窓に楠の花
ジジ



うわさ話を漏れ聞いた大僧正が母親とかいうその女に会ってみようということになり、会って話をしてみても状況証拠だけで、物的証拠がない。しばらくして母親が「亡き夫が大事な錦の袋を赤ん坊につけておったことを思い出しました」というと、良弁はハッとして「もしやこれでは?」と腰に付けていた袋を出したのです。母子は涙にくれたそうです、という話を思い出しました。
ジジ


ジジの邪推ながら、もともと「だいじょうふ」という言葉があり「腕のたつ武士」のことだったのが、明治維新になって武士が消滅しました。そこで植木某みたいな男が飛び出してきて「「だじょうふ」とはオレのことだ、ただし読み方を変えて「だいじょうぶ」にする」と強調しました。
それで「だいじょうふ」→「植木某???」→「チャランポラン」→「だいじょうぶ」という風にダ行変格活用したのです。・・・ホントかなあ。大丈夫か。
ジジ


銀も金も玉も何せむに 優れる宝子にしかめやも
銀(しろがね)よりも金(くがね)よりも勾玉(まがたま)よりも勝れる宝は我が家族。
現代のパパは遠方まで通勤で家族を思いやる暇もないが、山上憶良は勤務先の給食中でも、遠方に離れ離れになっている家族に思い巡らしていたようです。父親の山上憶仁とともに百済から日本に渡ってきて、父親は朝廷の下級官吏。息子の憶良も辛苦の連続だったようです。
ジジ

千日回峰とは約7年かけての難行苦行。初年から3年は深夜から朝に山中を200数十カ所を巡拝しながら40kmの道程を100日間歩く難行。4~5年目は毎年200日歩く苦行。途中で挫折したら毒をあおって自害するのが慣行で、比叡山の長い歴史の中で達成したのはわずか50人程。


ジジ

現在の浜松城(観光城)


ジジ
傘寿を過ぎると頭がボケてきます。若いときは週末になるゴルフ倶楽部にすっ飛んでいたのですが、クルマで遠方のゴルフ場に行くのが面倒になってきてクルマは処分し、本を読むようになりました。
先日読んだのは、藤沢周平の『喜多川歌麿女絵草紙』(講談社文庫)という本です。
本は古本屋で新古本を買うことが多いのですが、藤沢周平は文章がいいですね。太宰治みたいなデカダンス人間と思っていたのですが、謹厳実直な日銀マンみたいなお人。
山形県の国民学校を卒業したものの田舎ゆえ就職先がない。小使いみたいな仕事をしながら中学校の夜間部に通い、中学校の代用教員になりました。喜多川歌麿はエロチックな浮世絵師ですが、藤沢周平は家庭でのよきパパみたい。
藤沢周平には『蝉しぐれ』とか『たそがれ清兵衛』という小説がありますが、小生が育った東三河の田舎を思い出すのです。
ジジが育った田舎の家は山本勘助が養子に入った大林家とは垣根越しの隣り合わせでした。時代が時代なら、ジジは武士の端くれか乞食百姓でばっさり切られて合戦死したことでしょう。故郷が懐かしい齢になりました。
ジジ
最近、鳥類学者の本を読んだ。ウグイスの話です。
本土(日本列島)のウグイスは8種類もあり、それとは別に小笠原諸島にはオガサワラハシナガウグイスがいる。
小笠原諸島の方が正統種で本土にいる方が亜種。世界鳥類学会に先に登録(学名をもらえる)したものが勝ち。写真でみるとよく似ているが、オガサワラハシナガウグイスは人になつっこく(本当!)、一緒にチークダンスしないかと人間に接近してくるらしい(ウソ!)。
(左) オガサワラハシナガウグイス
(右) 本土(日本列島)のウグイス
徳川幕府は日本列島を鎖国していたから、その間に外国人がオガサワラハシナガウグイスを先に世界鳥類学会に登録してしまった。“後悔先に立たず”の見本みたいな話です。
さて、鳥にはクチバシ(嘴)があります。鳥は喉(のど)がかわいたとき、水たまりにクチバシを突っ込んで天に向かってクチバシをあげ、水を胃袋に垂らし流す。鳥は空中を飛ぶから軽ければ軽い方がいいので、吸引力のある筋肉をとっくの昔に放棄したというのです。
しかしハトはその例外。クチバシを上げずに水を吸い込む力があるそうです。ホントかウソか、公園に行ってハトの行動を朝から晩まで勉強してみよう。
ジジ
サラーリーマンを卒業して10数年。時間はたっぷりあるから本を読みますが新本は高価。図書館で借りたり古本屋で買ったりしています。
わが家からほどよい所に古本屋があり足繁く通っているのですが、先日、坪内稔典著『文学のある日々』という本を100円で買ってきました。
著者は著名な俳人。かつては大学教授を兼務していた学者的俳人ですが、その本に「文庫本が好き。豪華な画集、斬新な造本の詩集、布表紙の手触りのよい句集魅力だが、もっとも軽便で安い文庫本のファンである」と書いてあります。
三月の甘納豆のうふふふふ
これはこの本に載っている句ですが、どのように解釈すればいいのでしょうね。
新書本を買うと800円前後、文庫本なら500円前後ですが、極端にいえば古本は100円でも買えるから、古本屋はジジにとって神仏みたいな存在です。
俳句といえば先日(1月26日)、NHK全国俳句大会があり、「一般の部」で大賞に選ばれたのは次の句でした。
雀には雀の丈の秋の空 柿谷有史
平凡な句のようですが、柿谷氏は全盲。雀にだって「秋の空」があるはず。人間とは身の丈は大きく違うものの、雀には秋の空がどのように映るのか。そういう思いをにじませた句で、探求心というか思いやりのある句です。
貧者には貧者の丈の財布は空 老愚山丸
ジジ
以前にもこのブログで紹介したと思うのですが、NHKテレビBS1に「駅ピアノ」という番組があります。駅のコンコースにピアノが置いてあって、弾いてみたい人は誰でも弾けるようになっています。
先日、神戸西駅での録音風景をテレビでやっていました。
神戸西駅というのは新興ベッドタウンの中にある比較的新しい駅のようですが、ピアノに近づくのは老若男女いろいろ。高齢者と思える人でもピアノが弾けるなんて羨ましい限りです。
駅ピアノの舞台はヨーロッパやアメリカの大都市の駅で、日本の駅が舞台になったのを見るのは初めて。クラシック音楽あり、映画音楽あり、ジャズありですが、素人のピアノ演奏だって楽しく聴くことができます。
ユイちゃんは今でもオルガンを弾いているのかな。ショパンの「子犬のワルツ」今でも弾いているのかな。先生に習わなくていいから、好きな時に好きなだけ弾いたらいい。上手になろうなんて考えなくて楽しんだらいいんだよ。
ジジ
きょうは1月17日。阪神・淡路大震災は25年前の今日でした。
大地震で神戸市長田町が火の海、6,500もの人が犠牲になりました。
1月17日というと、もう一つ出来事がありました。尾崎紅葉の小説『金色夜叉』です。
『金色夜叉』には貫一とお宮が登場します。貫一を恋したはずのお宮は心が大金持ちに傾き、別れて欲しいと貫一にゴネます。
貧乏学生だった貫一は激怒して「宮さん、よく覚えておけよ。来年の今月今夜になったならば、ぼくの涙で必ず月は曇らせてみせる」と熱海に海岸でお宮を足蹴にするのですが、それが1月17日。
「わかった。じゃあ、これっきりね。バイバイ」といえばいいのに、貫一にとっては初恋だったのかな。ダイヤモンドの指輪の一つもプレゼントできなかったむくいかな。
実をいうと、ジジは「金色夜叉」という小説を読んだことがありません。尾崎紅葉は夏目漱石や幸田露伴と同年代ですから、今の小説と違い、文章が馴染みにくいのです。
ジジ
過日、といっても相当前のことですが、このブログで「シュメイギク」のことを書き、「シュウメイギクは清々しい」と表現しました。
「清々しい」は「すがすがしい」と読みますが、超有名な某サッカー選手が某月某日これを「きよきよしい」と読んだとマスコミが囃し立てました。
じつは「清々しい」ということば神代の時代からあったという話をこれからします。
『古事記』に、荒くれ者のスサノオがアマテラス女王に嫌われて地上に降臨する場面がありますが、ホウホウの体で地上に降りてきたスサノオは「われここに来て、わが心はすがすがしい」と大いに喜ぶとともに、行くてを邪魔するヤマタノオロチを「コノヤロー」と怒って刀剣で退治しました。
つまり、超有名な某サッカー選手は神代の時代からあった「すがすがしい」を「きよきよしい」と言ってしまったのです。「後悔先に立たず」の典型みたいなものです。
ところで、「清々しい」の反対語は「素寒貧」。いわく「非常に貧乏で何も無いこと。“素寒貧”は当て字」・・辞書にそう書いてありました。「非常に貧乏で何も無い」とは「乞食」に通じますね。超有名な某サッカー選手は『古事記』とは「乞食」のことかと勘違い(?)したのでしょう。
ジジ
昨年暮れに応募していた、ニューイヤーコンサートからの招待状が届き、ジジと聴きに行ってきました。
今年は26回目になります。
昨年も聞く事が出来て2年連続なんてとてもラッキーです!
自由席でしたが1階席の19番目で丁度ピアニストの手の動きがしっかり見えるステージに向かって左側に席をとることが出来ました。
指 揮: 広上淳一
ピアノ: 小山実稚恵
管弦楽: 新日本フィルハーモーニー交響楽団
曲目は、 ラフマニノフ: ピアノ協奏曲第3番
ベートーベン: 交響曲第5番「運命」
どちらも超有名な曲。
最初の「ピアノ協奏曲第3番」は映画にもよく登場する曲。ピアニストの小山実稚恵はベテランで、見事なピアノ演奏に拍手が鳴りやみませんでした。
二曲目は「運命」で、ダイナミックな指揮者に聴衆も吸い込まれるように身体が動いていきます。よく聴く曲ですが何度聞いても力強くて、今年も頑張るぞ!と意欲が掻き立てられました。
音楽っていいですね。新年早々、素晴らしいコンサートでした。
KUN
最近の若い人は、わが子の名前に頭が混乱するような名前をつけますね。若い人からみれば「老人は頭が古い」と貶されそうですが、明治安田生命調べの「2019年命名ランキング」を見ると・・・
【男子】 連. 陽翔、 新、 湊、 蒼、
【女子】 凛、 陽葵、 結愛、 杏、 律、
とあります。でも一文字名が多いし、何と読めばいいのか。
人名はずいぶん変わりましたね。省略・省力化の影響でしょうか。
先日もインターネット・プロバイダー(IP)のホームページ(HP)に「アケオメ」と書いてありました。「アケましてオメでとう」の省略形。また、「アカハラ」というのもありました。野鳥のアカハラのことかなあと思ったのですが、「アカデミー・ハラスメント」の省略。どこの大学でも先生同士がいがみ合って踏んだりけったりが流行っているようです。
何でも省略するという悪い風潮の根源はケータイやスマホの登場でしょう。老いぼれ高齢者にはとてもついていけないから、姨捨山に捨てられる運命にあると思うべきです。
話が逸れますが、日本には元来文字がなく、中国から漢字を導入して漢字と和語をごっちゃにしました。たとえば、本家の中国では漢字は「一字一音」のはずなのに、日本では、ぶん、もん、ふみ、あや、と「一字多音」。また、「しんちょう」には、身長、慎重、伸長、新調、深長、清朝など「同音異義」でたくさんあります。日本人は融通性があり、多様性を好む人種ということです。
中国や朝鮮半島からみれば日本は文字もない粗野な野蛮人の国であったはず。とくに朝鮮半島人からすれば「野蛮人が俺たち文化人を支配しやがった」という「恨」み一点のみ。自国の落ち度には顧みず、世界情勢も無視。ただただ自己主張が強烈すぎて、相手を徹底的に叩くことが美徳とする人種のようにみえます。
もう少し柔軟性があってもいいと思うのですが「恨」に縛られて、そこからの脱出は未来永劫に無理でしょうね。
ジジ