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家族団欒ブログ

家族団欒の広場です

20周年

2015年03月22日 | その他

長年サークル活動している水彩画の年1回のぐるーぷ彩展も
回を重ねて今年で20回目を迎えました。 (3月19日から26日まで)
10サークル 150名が出店しています。
   
                             (50号120号100号の大きな講師の作品)
私たちのグループは2階のギャラリーに展示です。
  

               
          今回は夏に父の法事で出かけた時の京都の東寺を描きました。
               
                           (夏・京都  8号)

         *おまけ:先日我が家の庭でねずみを捕まえていた猫が獲物あさりにやってきました。
              

                                                   KUN


けんちん汁

2015年03月15日 | その他

けんちん汁とは、大根、にんじん、ゴボウ、里芋、こんにゃく、青菜、豆腐を油で炒め、出汁(だし)を加えて煮込み、最後に醤油(あるいは味噌)で味を調えたスープのこと。寒いときは体が温まるし、いろいろな野菜が入っているから健康食品といえます。豚肉や鶏肉の細切れを入れることもあるけど、出汁(だし)には肉類や鰹節、煮干を使わず、昆布と椎茸を使うのがオーソドックスとされます。
「けんちん汁」は漢字では「建長汁」と書きます。鎌倉の建長寺に由来する精進料理だからです。
建長寺は鎌倉時代に創立された臨済宗建長寺派の大本山で、臨済宗では最高格のお寺。あるとき建長寺の小坊主が誤って豆腐を床に落し困っているところに住職が通りかかり、なに食わぬ顏をしてぐちゃぐちゃになった豆腐と、あり合わせの野菜を一緒に煮込んだのが、けんちん汁のはじまりとされています。
     
「建長寺」を中国語読みでは「ケンチャンスー」。これが訛って「ケンチンジル」となったといわれます。
ところで精進料理には日本風と中国風があります。中国風は肉類や魚類は使わないが油は使い、野菜をあたかも肉や魚料理であるかのように仕立て上げます。京都宇治の黄檗宗本山万福寺の精進料理(画像右)がそれで、大きな皿に盛られています。これに対して建長寺の精進料理(画像左)は出汁に昆布や椎茸を使い、純日本風の盛り付けをしてお膳仕立てで提供されるようです。
                                                    GG


チンする

2015年02月09日 | その他

パソコンやスマホが登場し便利な時代になったが、同じように日常的に使う機器に「電子レンジ」があります。電気炊飯器も便利で、中国人旅行者は誰もが秋葉原で買って帰りますが、電子レンジは炊飯器とともに台所で欠かせない道具になりました。
ところで、電子レンジは日本の発明と思っていましたが、そうではないらしい。発明者は米国のミサイルメーカーの技師で、偶然ポケットの中のチョコバーが溶けていた現象から、これを調理に使う着想につながった。1945年頃のことでした。一方、日本で電子レンジを最初に量産化したのは松下電器(パナソニック)で1963年のことでしたが、当時は115万円もしたそうです。
                     
ところで、電子レンジに入れて温めたり料理したりすることを「チンする」といいます。
昨年9月に文化庁が公表した平成25年度「国語に関する世論調査」によると、「チンする」ということばを「使うことがある」と答えた人が90%を上回ったそうだから、「チンする」はもうれっきとした標準語です。
1970年代後半に松下電器(パナソニック)が自社の電子レンジに「エレックさん」と命名し、電子レンジで料理することを「エレックする」と名づけて普及させようとしましたが、ユーザーには浸透しなかったとか。それに比べると、誰が言いだしっぺか分からないが、「チンする」とはじつにうまい表現と感心します。おそらく利用者の間で自然発生的に登場し、多くの人が使うようになったのでしょう。
                                                        GG


2015年02月06日 | その他

散歩しているとき、道路脇に空き缶が山積してありました。廃品回収業者が空き缶を機械で圧縮したもので、なんだかヘタクソな抽象画でも見るようでした。
            
缶は「カン」と読みますが、英語でも缶は「CAN」。じつは日本語の「缶(カン)」は英語の「CAN」を音訳したものだそうです。
缶詰は缶と切ってもきれない関係にありますが、そもそも缶詰はナポレオン・ボナパルトと深くかかわりがあるようです。遠征で東奔西走し戦に明け暮れるナポレオンは、栄養豊富で美味しい食糧を兵士たちに与える必要から、総裁政府に軍用食糧貯蔵法の研究を要求しました。
                    
そこで総裁政府は食糧貯蔵法を広く募集しました。すると、ニコラ・アペールという人物がガラスびんの中に食物を入れ密封して加熱殺菌する貯蔵法を応募しました。1808年のことらしいです。このとき、アペールは賞金として12千フランを授与されていますが、その条件として彼の研究成果を公表することを求められました。
そこでアベールは貯蔵法の本を出版したところ、たちまちドイツ語、英語、スウェーデン語に翻訳され、これを参考にして英国のピーター・デュランドという人物がブリキ缶による食品の貯蔵法を開発し、この発明品を“ティン・キャニスター(TIN CANISTER)”と命名しました。
英語の「CAN」はこの「CANISTER」を略したものだそうです。
                                                     GG


日本・にっぽん・にほん

2015年02月02日 | その他

わが国の国号は「日本」です。しかしこれをどう読むか決まりがない。「日本」は「にほん」とも読めるし「にっぽん」とも読めて、どちらもまちがいではない。国号を「日本国」または「日本」とする旨の法令もなければ、「日本」をどう読むか基準がありません。まことに不思議な国です。
明治になって近代化を進め、西洋にならって憲法を制定しましたが、明治23年施行の「大日本帝国憲法」、昭和22年施行の「日本国憲法」のどちらも、これをどう読むかの規定はありません。前者は「だいにほんていこくけんぽう」でも「だいにっぽんていこくけんぽう」でもいいし、後者は「にほんこくけんぽう」でも「にっぽんこくけんぽう」と読んでいいわけです。
Webサイト「テレビ朝日」には「日本語研究室」というページがあります。それを見ると、テレビ朝日の報道スタジオには「日本」を「にほん」と読むか「にっぽん」と読むかをまとめた辞書が置いてあって、アナウンサーやコメンテーターは放送前に調べておくそうです。
   
             日本代表                       日本列島
             日本銀行                       日本航空
     
その「日本語研究室」のページに、「日本」をどう読むかのアンケート調査結果が載っています。
             にほん  にっぽん                 にほん  にっぽん
    日本      69%   31%           日本人     90%   10%
    日本代表   45%   55%           日本列島   60%   40%
    日本銀行   79%   21%           日本航空  100%    0%
日本航空は「にほん・・・」、日本郵政や日本郵船は「にっぽん・・・」が正式な読み方。日本銀行は「にほん・・・」、「にっぽん・・・」のどちらでもいいようですが、1万円札の裏面には「NIPPON GINKO」と印刷されています。テレビ朝日では、どちらが正しいかわからないときは当該企業に照会して確かめるそうです。
                                                GG


名前

2015年01月28日 | その他

最近の若い人たちが子につける名前はGG世代とはずいぶん変わりました。
明治安田生命の最近の調査によると、男子の名前は「蓮」が最多で「大翔」「陽向」「陽太」「悠真」とつづき、女子では「陽菜」が最多で「凛」「結菜」「葵」「結愛」とつづく。どう読んだらいいか分からないものが多く、お役所や学校の先生泣かせでしょう。
GG世代の名前は、男子なら「○男(雄・夫)」、女子なら「○子」が多かったが、奈良時代以前は、「子」は男性の名前でした。そもそも古代中国では、孔子(孔丘)、孟子(孟軻)、老子(李耳)といったように偉大な先生の尊称として「子」が使われ、その影響で日本でも飛鳥時代には中臣鎌子、蘇我馬子、小野妹子などのように男性の名前に「子」がついていました。
では、女子の名前に「子」をつけるようになったのはいつ頃からでしょうか。
          
天皇家では女性(皇后・皇女)に「子」をつける伝統があります。その伝統は第52代嵯峨天皇(在位:809~823年)に始まったようで、嵯峨天皇は生れてきた女子に正子、秀子、俊子、芳子、繁子などと名付けています。
平安時代中期以降は貴族の間でも女子に「子」を付けるようになりました。第66代一条天皇(在位:986~1011)の生母は詮子、皇后は貞子、中宮は彰子、中宮に次ぐ女御には義子、元子、尊子。みんな大貴族、藤原氏出身の女性です。藤原氏が女子に「子」をつけたのは、天皇家にあやかったのでしょう。
いずれにせよ、誰もがあやかりたいと思った「○子」が、いまや“絶滅危惧種”になりました。「子」がつく名前なんて、いまの若い人たちにはダサいのでしょう。
                                                     GG


信州善光寺(16)

2015年01月17日 | その他

                           雲上殿

すでに書いたように、善光寺は鎮魂寺であって葬式仏教寺ではありませんが、昔から遺骨を分骨して納める習慣があります。鎌倉時代に書かれた仏教説話集『沙石集』には、恋をして死した娘の骨を善光寺におさめる話が載っているそうです。
納骨された骨は、以前は本堂のすぐ北側(裏手)にあった納骨所に納めていたようですが、納まりきれなくなったため、大正時代末期に大規模な納骨堂を建設する計画が持ち上がりました。それが善光寺境内から北に向かって1kmほど上がった山腹にある「雲上殿」です。
   
       (雲上殿遠望。中央が多宝塔)              (多宝塔内の拝殿)
   
    (西殿の納骨堂。廊下の両側が納骨庫)          (納骨堂内の納骨庫)
雲上殿の建設は昭和10年に開始されましたが戦争で工事が遅れ、完成したのは戦後の昭和24年でした。雲上殿は赤白の丸みのある多宝塔とその両脇にのびる納骨堂で構成されていますが、それでも納まりきれないため本殿の西側に別棟の納骨堂を建てることになり平成9年に完成しています。それが「西殿」です。
しかしその西殿も満杯となったため、現在本殿の東側に「東殿」が建設中です。
   
             (多宝塔前で)                  (建設中の東殿)
先日、雲上殿の中を見学させてもらいましたが、昭和24年に完成した本殿の納骨堂にすらっと並んでいる納骨ロッカーは白木造りで、それがとても印象的でした。また、本殿の中央にある多宝塔には立派な拝殿があり、そこには善光寺本尊と同じ姿をした阿弥陀三尊が鎮座していました。年忌法要をするときには、納骨庫に納められている遺骨を拝殿にうつして、僧侶が供養の読経していただけるとのことでした。
現在建設中の「西殿」はこの春完成予定で、すでに第一次募集が始まっているため見学に行ったもので、まことに結構なところでした。
長々と綴ってきた「信州善光寺」は、今回をもって終わります。
                                                    GG


信州善光寺(15)

2015年01月10日 | その他

                     善光寺儀式・行事

善光寺には様々の儀式・行事がありますが、そのいくつかを列挙してみます。
      (詳しくは善光寺の「ホームページ」を参照してください)。
【お朝事】 日の出とともに本堂で始まる「お朝事(あさじ)」は、善光寺全山の僧侶が出仕して勤める法要で一年365日欠かさず行われているそうです。
【朝拝式】 善光寺の全僧侶が出仕して執行される正月元旦の法要で、多くの参詣者が泊まり込んで新年を迎える風習があるそうです。
【御印文頂戴】 善光寺如来のご分身といわれる三判の宝印「御印文」を僧侶が参詣者の頭に押し当てる儀式です(1月7日~1月15日)。
   
              (お朝事)                     (御印文頂戴)
   
              (御開帳)                     (大回向柱)
【節分会】 福男・福女が青鬼・赤鬼や善光寺木遣りとともに行列で本堂へ向かい、追儺式(ついなしき)の後、回廊から参詣者に福豆をまきます(2月3日午後1時)
【彼岸会】 春と秋の彼岸の法要ですが執行日はその年によって異なります。彼岸中は来訪者から寄せられた先祖供養の法要もあわせて行われるそうです(3月・9月)。
【善光寺お盆縁日】 境内で行われる夏祭りで、参詣者と僧侶が本堂前のやぐらを囲んで盆踊りを楽しむ行事です(8月14・15日夜)。
【善光寺前立本尊御開帳】 7年に一度、前立本尊を普段安置されている大勧進から本堂にうつして参詣者に公開する儀式です。このとき、本堂の前に立てられる「大回向柱」に触れると、前立本尊に触れるのと同じ御利益があるそうです。平成21年の御開帳には673万人が訪れたそうです。次回は、今年の4月5日から5月31日までです。
                                                       GG


伊香保温泉旅行(2)

2015年01月07日 | その他

3日の朝、6時前に目が覚めてカーテン越しに外を見ると雪景色。夜中に少し降った雪が
道路や車の上に白く積もっていました。

朝食後、婿どのはクルマのタイヤにチェーン装着のため、寒い中で頑張ってくれました。
クルマの準備が完了し全員が乗り込むと、孫たちが喜びそうな渋川スカイランドパークへ。
施設内には18の遊具があるのですが、1日フリーパスのチケットを購入することにしました。
朝早い時間だったので入場者もまばら。どの遊具もほとんどならぶこともなく、スムーズに
遊ぶことができました。
たっくんもゆうくんもほんとに楽しそう。私たちもいくつか乗って楽しみました。
   
      スカイライダー(ジャンボスロープ)      ゆうくんは恐がらずにジェットコースターに挑戦!
   
    たっくんは一人でゴーカートをドライブ            ゆうくんはママと一緒に              
   
    私はたっくんとサイクルモノレールに           つきたてのお餅をご馳走になりました

スカイランドパークで遊んだあと、世界遺産に登録された「富岡製糸場」に向かいました。
16千坪もある広い敷地内にいくつもの施設が建っています。
製糸場は昭和62年に操業停止したあと富岡市に移管されたとのことで、富岡市としては今日まで
多額の費用を投じて維持管理してきたようですが、世界遺産に登録され、その一部の施設は国宝
に指定されたので、これからは国から補助金が出ることになるのでしょう。
   
明治5年創業の富岡製糸場。明治初期にこんなに立派な製糸工場をつくったとは驚きでした。

娘一家と3日間にわたって一緒に過ごしましたが、孫たちの成長が肌で感じられました。
とくに、4歳になったゆうくんトークには思わず笑ったり驚かされましたし、たっくんはすっかり
お兄ちゃんになりました。
3日間ずっとクルマを運転して下さった婿どの、お疲れ様でした。ありがとう!

                                                   KUN  


伊香保温泉旅行(1)

2015年01月06日 | その他

2015年がスタート。空は晴れ渡り、穏やかな正月を迎えました。
今年もどうぞよろしくお願いいたします。

元旦の午後は次男夫婦が訪ねてきてくれて、久しぶりにお喋りに花が咲きました。
夕方には、近所に住む娘一家も合流し、賑やかに過ごす事が出来ました。
みんな今年も元気に過ごしましょう!

2日は娘一家に便乗して、群馬県の伊香保温泉に連れて行ってもらいました。
朝9時半に自宅を発ち、思ったほど渋滞もなくて、高速から美しい富士山が見られました。
           

1時半ごろには現地に到着。昼食はラジオでも宣伝している「水沢うどん」にしました。
昼食後は、すぐそばの水沢観音で初詣。沢山の人が参拝に訪れていてしばらく並びました。
「家内安全」「無病息災」を願って・・・・・・・
たっくん&ゆうくんは力を込めて、大きな鐘を突きました。
     
お参りの後は今夜の宿泊先 伊香保温泉街のホテルへ。
宿で荷物をおろし、一息ついて石段街の散策です。気温は-2度、吐く息も白かったです。
石階段には沢山の観光客が集まっていて賑やかでした。
孫たちのお目当ては昔の縁日にあった射的。うまく当たるかな~
   
宿に戻ると、男性軍は温泉風呂へ。冷えた体を熱い湯で温めて戻ってきました。            
夕食のお膳は料理がたっぷり。ゆっくり時間を掛けてたっぷり頂きました。
                    
据え膳はしあわせ~ありがたいです。
食後部屋に戻ると、ゆうくんがGG相手に早速対決ごっこ!
昨年よりパワーアップしたゆうくんにGGはギブアップでした。                                                                                                          KUN  


信州善光寺(14)

2015年01月05日 | その他

                   牛にひかれて善光寺参り

遠くとも一度は詣れ善光寺救け給うぞ弥陀の誓願”
と詠われているように、善光寺は創建以来、多くの人々が参詣に訪れています。近年は年間600万人もの参拝客があるそうです。
ところで、善光寺というと「牛にひかれて善光寺参り」という言い伝えがあります。
         
『昔、一人の老婆がいました。ある日、機を織ろうとして絹糸を川でさらしていたところ、通りがかった若者が引いていた牛をとめて、「お婆さんや、その糸をすこし分けてくれないかね」というと、婆さんは「なんだね、お前さんは。糸は一寸だってやれないね。さっさと行ってくれないか」と荒々しくいいました。そのとき若者が引いていた牛がお婆さんに寄ってきて、糸を角でひっかけて走り出しました。お婆さんは「この牛めがー!」と叫びながら追いかけましたがいつまでたっても追いつかず、ついに善光寺までやってきました。すると若者は姿を変え如来様になり、本堂の奥へ消えました。そして、お婆さんは引きつけられるようにして本堂に入り、如来様の前にひれ伏し、それからは善心に立ち返ることを誓ったということです。』
このように善光寺本尊は人々を善人へお導きしていただけます。大昔はテクシーか篭(かご)に世話になったのでしょうが、いまは自家用車も新幹線もあります。これまで東京駅と長野駅の間だけだった新幹線が金沢まで延長されて北陸長野新幹線に衣替えすると、善光寺参拝客はますます増えることでしょう。これも善光寺本尊の御利益でしょうか。                                                                                                                                                            GG


信州善光寺(13)

2015年01月03日 | その他

                            親の七光り

みなさんは「七」をどのように読みますか。「なな」でしょうか「しち」でしょうか。どちらが正しいと思いますか。答えはどちらも正解です。つまり「なな」は訓読みで、「しち」は音読み。蛇足ながら、「四」も「よん(よ)」が訓読みで、「し」が音読みです。
「七」といえば、「七福神」、「七草」、「七不思議」がありますが、善光寺には「七」にまつわる話がいくつかあります。
善光寺の前立本尊の御開帳は七年に一度ですし、善光寺七橋、善光寺七井、善光寺七清水、善光寺七塚、善光寺七小路、善光寺七社、善光寺七院、善光寺七寺というものがあり、「親の七光り」とう格言は善光寺に由来するという説もあるようです。
善光寺本尊は阿弥陀三尊で、如来の脇侍は観音菩薩と勢至菩薩であり、善光寺本尊の後ろには大きな光背があります。光背は如来や菩薩につきものなので、本来は阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩それぞれに光背があるはずなのに、善光寺本尊には光背がひとつしかありません。こういうのを「一光三尊」形式といい、善光寺本尊はその典型とされているようです。
              
                               (七光り)
ところで善光寺本尊の光背をよく見ると、そこには七つの小さな仏像が彫られています。人々は阿弥陀三尊に向かって「ありがたや、ありがたや」と手を合わせるのですが、光背に彫られている七つ小仏たちは「あの連中はオレを拝んでいるのだ」と自信満々。「親の七光り」であることをすっかり忘れているのです。
                                                    GG


信州善光寺(12)

2014年12月27日 | その他

                     啄木鳥(キツツキ)vs鷹(タカ)

前回の続きになりますが、蘇我軍団が守屋討伐に出陣するにあたって、厩戸皇子(聖徳太子)は自ら四天王像を木彫りして戦勝祈願し、勝利すれば仏塔をつくり四天王像をおさめると誓いました。そして守屋討伐に成功した厩戸皇子は、約束通り仏塔と伽藍を建造しました。それが四天王寺です。
    
        (四天王寺金堂の鷹の止まり木)           (四天王寺内の守屋祠)
じつは四天王寺(大阪市天王寺区)を建造する前に、厩戸皇子は守屋の屋敷があった玉造(大阪市中央区)に最初の四天王寺(元四天王寺)を建立したのですが、守屋の怨霊は啄木鳥(きつつき)に化して元四天王寺の伽藍をつつき回り壊してしまいました。
そしてこれに代わるものとして、5年後に場所を変えて建造したのが四天王寺(大阪市天王寺区)です。
しかし、それでも守屋の怨霊はあきらめず、今度は数千羽の啄木鳥となって四天王寺を攻撃しました。このとき厩戸皇子は鷹に変身して啄木鳥どもを退治するとともに、四天王寺の一郭に「守屋祠」を建てて啄木鳥どもの霊を鎮め、再び暴れ回らないように金堂から監視しつづけたのです。四天王寺金堂にはいまも鷹の止まり木があります。
ちなみに、元四天王寺はどうなったかというと、その跡には聖徳太子の両親(用明天皇・穴穂部間人皇后)を祀る「鵲森宮」(かささぎもりのみや。通称「森之宮神社」)が建っています。ビルの谷間にある小さな神社で、うっかりすると見過ごしてしまいそうな祠ですが、大阪環状線森ノ宮駅の前にあります。
               
                       (鵲森宮=森之宮神社)
じつはGGの出生地であり5歳まで過ごした家は、大阪環状線森ノ宮駅と玉造駅のちょうど中間点にあり、森之宮神社は数百メートルの距離にありました。
                                                         GG


信州善光寺(11)

2014年12月20日 | その他

                          聖徳太子

善光寺は聖徳太子に縁のあるお寺のようです。すでに書いたように、仏教が6世紀半ばに伝来(仏教公伝)すると、物部氏と蘇我氏の間で激しい権力闘争に発展しました。物部氏は神道護持派、蘇我氏は仏教推進派というわけです。
聖徳太子は蘇我一族の中でもスーパースターでしたから、当然のことながら仏教推進派だったのですが、だからといって神道を完全に否定したわけではないようです。聖徳太子にとって、神道は重要ではあるものの、当時の中国の先進的な統治体制や中国文化を導入したいとする立場からすると、その背後にある仏教を無視できなかったのでしょう。明治新政府は積極的に西洋文明を取り入れましたが、その背後にはキリスト教があったこととよく似ているように思えます。
           
               (聖徳太子)          (四天王寺 金堂と五重塔)
そこで起ったのが「丁未の乱」(ていびのらん)という大事件でした。西暦578年、蘇我馬子は厩戸皇子(聖徳太子)らを率いて進軍し物部守屋を討ちました。そしてその守屋の亡霊を鎮めるために創建したのが四天王寺(大阪市天王寺区。寺内に「守屋祠」がある)です。
そして「丁未の乱」で敗北した物部一族は全国に霧散して身を隠しましたが、守屋の次男一派が逃亡した先が信州だったのです。
            
                       (諏訪大社と守屋山の位置)
諏訪湖の畔に諏訪大社があります。その諏訪大社を創建したのが守屋の次男であり、諏訪大社の神長官を代々つとめる守矢氏は守屋の末裔といわれています。また、諏訪上社本宮には拝殿はあっても本殿がありません。拝殿の南にそびえる「守屋山」がご神体だからです。大和国(奈良県)の大神神社(おおみわじんじゃ)のご神体が三輪山(みわやま)であるのと似ています。
善光寺本堂の内々陣の、絶対秘仏が納まっている瑠璃壇の境壁には金箔を施した八角柱があり、これを「守屋柱」と呼んでいるそうです。この守屋柱は善光寺本堂の大黒柱ですが、そもそも善光寺は物部守屋の霊魂を鎮めるために建立した寺とさえいわれ、その背後には聖徳太子の存在があったということでしょう。
                                                    GG


信州善光寺(10)

2014年12月15日 | その他

                         護持・運営

善光寺は「無宗派」のお寺と書きましたが、善光寺本体には僧侶はいません。じつは善光寺の敷地内には天台宗と浄土宗のお寺が一つずつあり、そこに属する僧侶が善光寺の護持・運営を担当しているのです。
              
                           (善光寺案内図)
善光寺境内を眺めると、本堂に向かって左下(南西)、山門の左(西)に「大勧進」があります。また、「大勧進」のずっと下(南)の方に「大本願」があります。そしてその周囲にはたくさんの「○○院」「○○坊」と称する子院坊があり、善光寺を護持・運営する僧侶たちはそれらの場所に居住しているそうです。
「大勧進」は天台宗のお寺で、「大本願」は浄土宗の尼寺です。そして、「大勧進」の住職(大勧進大僧正)と「大本願」の住職(大本願上人)は善光寺の住職(最高責任者)を共同して兼務しています。つまり善光寺には2人の住職がいるということです。
    
               (大勧進)                        (大本願)
余談ながら、善光寺内の天台宗本坊がなぜ「大勧進」と呼ばれるかといえば、善光寺伽藍の造成修理や運営の資金を広く集める(「勧進」という)総元締の役割を担っているからです。また、「大本願」の歴代住職(大本願上人)は皇族・華族の出身とされ、現在の第121世上人は鷹司家出身の鷹司誓玉という女性です。大勧進も大本願もそれぞれの宗派でも格の高いお寺なのです。
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