無宗派
仏教にはいろいろな宗派がありますが、善光寺は「無宗派」を宗とするお寺です。つまり、善光寺はどんな宗派でも受け入れますということです。
善光寺が創建されたのは仏教公伝(西暦552年)からおよそ100年後の飛鳥時代のことでした。その頃の日本仏教にはまだ宗派が形成されておらず、宗派が形成されたのは奈良時代になったからのこと。法相宗、律宗、華厳宗などの、いわるゆ「南都六宗」と総称される宗派がそれです。
当時の仏教と寺院は大衆には関係のない存在でした。それぞれの宗派には宗派を代表するお寺(大本山)はありましたが、当時の仏教はいわば学問仏教であり、今風にいえば寺院は国立大学、僧侶は大学生といった存在。僧侶には国家試験のようなものがあり、国が面倒をみていたそうです。
(東大寺=華厳宗大本山) (興福寺=法相宗大本山)
(唐招提寺=律宗総本山) (善光寺=無宗派)
奈良の代表的な寺院といえは8世紀半に聖武天皇が創建された東大寺ですが、東大寺は華厳宗の大本山とはいうものの、そこでは法相宗や律宗などの南都六宗、後には平安仏教である密教(天台宗、真言宗)も同居していたそうです。南都仏教は学問仏教であって、葬式や年忌などの法事には関与せず、檀家というものは元々ありません。
そういうわけで、飛鳥時代創建の善光寺は今日でも、いかなる宗派も受け入れる(つまり無宗派)という伝統を継承しており、檀家制度もないのです。
GG
12月に入って雑用に追われているうちに、結婚記念日も過ぎていました~。
GGが大学図書館に出かけた時などひとりで昼食をとる機会に2度ばかり、大学最寄りの
インドカレー店でランチを食べたところ「美味しかった!」といっていました。
そこで私も一度食べてみたいと、きのうGGと一緒にランチにでかけました。
インドカレー店ですが、日本語が上手なネパール人が経営していているようです。
今日のランチメニューはキーマカレー。
最初にネパール紅茶が出てきて、そのあとサラダ、カレーとナン。
カレーももたっぷりあって中央には半割の茹で卵が飾りに入っていました。
そのカレーの味がすばらしかったです。カレーの辛さも客の希望をきいて調節してくれるので
ありがたい。それに焼きたてのナンの大きさにはびっくりでした。
おかげで腹一杯になりましたが、これでなんと500円というのだから、これまたびっくりでした。
(ナンは篭からはみ出しています)
ささやかですが、ぬくもりのある結婚記念日ランチでした。
KUN
ご本尊流転
善光寺のご本尊は流浪の身となった時期がありました。それは戦国時代(16世紀)のことです。
まず、川中島の合戦(1553~1564年)のときに武田信玄が、善光寺が戦火で焼失することを恐れて(これは大義名分でしょう)ご本尊を甲斐国(山梨県)に移し、信州善光寺に匹敵するような甲斐善光寺を建立し、その寺のご本尊にしてしまったのです。ちなみに、川中島の合戦は善光寺本尊の争奪戦だったとさえいわれるほど、善光寺は戦の渦中にあったそうです。
(甲斐善光寺) (甚目寺)
次は織田信長です。信長は徳川家康を援護する形で「長篠の合戦」に加わり、武田氏を滅ぼすと善光寺本尊を甲斐善光寺から本拠地の岐阜にうつしましたが、信長はそのわずか2か月後に本能寺の変で非業の死をとげ、善光寺本尊は尾張の甚目寺(真言宗)に移されました。しかし浄土宗を篤く信仰した徳川家康は、浄土宗の仏である阿弥陀三尊はやはり浄土宗のお寺に置くのがいいと、善光寺本尊を甲斐善光寺に戻しました。
(方広寺)
今度は豊臣秀吉です。秀吉は天下を統一すると、京都に立派な方広寺を建立し、甲斐善光寺から善光寺本尊を迎えました。しかし秀吉はその直後に発病し、善光寺本尊が秀吉の枕元に現れて「余は信州に返りたい」とお告になったため、善光寺本尊を信州善光寺にお返しになりました。
このように善光寺本尊はおよそ40年間、あちこち間転々と移動したのですが、信玄も信長も秀吉も善光寺本尊の祟りで死んでいます。そして家康だけが善光寺本尊の功徳にあずかり、270年も続く川時代の基礎を固めることができたのでした。仏を粗末にすると仏罰てきめんですね。
GG
本田善光とは
ところで、阿弥陀三尊を難波の堀江から信州まで背負って運び、善光寺という寺院名の由来にもなった本田善光とはどういう人物でしょうか。善光は信州麻績の里(長野県飯田市)の出身ということはすでに書きましたが、なぜ難波の堀江に行ったのでしょうか。
じつは善光は飛鳥時代のお役人で、古くから渡来人が集まっていたことで知られる河内(大阪府南西部)に住んでいたようです。現在、その辺りに「河内長野市」がありますが、長野県の「長野」はこの長野に由来するそうです。
(畿内図) (本田善光像。 左から息子・善光・妻)
さて、本田善光。その正体については諸説あるようですが、参考になるのは平安時代に編纂された私撰歴史書『扶桑略記』に、百済王善光が来日し難波に住んだという記述があることです。この私撰歴史書をどこまで信用していいのかわかりませんが、『日本書紀』や『続日本記』にも「百済王善光」が登場し、善光王は百済滅亡のため帰国できず日本に亡命し、持統天皇から「百済王」という称号を賜ったという話もあります。
また、こんな話もあります。
善光寺本堂の内々陣には、本田善光と妻と息子が横一列に並んだ像があり、妻の弥生は立て膝で座っているそうです。テレビの韓国歴史ドラマを見るとわかりますが、高貴な女性は膝を立てて座っていますこのことから推測すると、善光の妻、さらにいえば善光自身も渡来人だった可能性は否定できません。
いずれにせよ、本田善光は廃品回収業者でも、ただの田舎者でもなく、そこそこの地位にあったお役人だったことが想像できます。
なお、前回(6)で書き洩らしましたが、善光寺は創建時には百済寺と称されたという話もあります。
マル
絶対秘仏
ずいぶん話が横道にそれましたが、ここで善光寺の話にもどります。
本田善光が難波から運んできて元善光寺(飯田市)に祀ってあった仏像(阿弥陀三尊)は、仏教を篤く信仰された皇極天皇の勅命で、善光が芋井の里(長野市)に運びうつしました。その仏像を祀るため、天皇の勅願で創建されたのが善光寺です。完成は西暦644年のことでした。
(信州善光寺本堂と前立本尊)
念のためいうと、この仏像は、芋井の里に至る途中、諏訪湖のほとりで一時的に(7年間)滞在した寺があります。それを諏訪善光寺といいます。つまり、信州には元善光寺、諏訪善光寺、善光寺(信州善光寺)の3つの善光寺があり、単に「善光寺」といえば信州善光寺を指します。
(元善光寺) (諏訪善光寺)
ところで、善光寺に祀られたご本尊は10年後に、ご自身がお告げになってお隠れになりました。それ以来、善光寺の住職(最高責任者)ですら、ご本尊を拝顔してはいけないことになったのです。これが絶対秘仏といわれる所以です。
このため、ご本尊そっくりといわれる代役の本尊がつくられました。これを「前立本尊」(まえだちほんぞん)といいます。前立本尊は、普段は本堂の脇にある天台宗別格寺院の「大勧進」に安置されていて見られませんが、7年に一度の御開帳のときだけ大勧進から本堂にうつして公開されます。
その7年に一度の御開帳は来春に行われることになっているのですが、先日の大地震で善光寺境内あちこちで被害が出ているようです。とはいえ、御開帳を延期するわけにはいかないでしょうから、善光寺にとってはまさに正念場ということでしょう。
善光寺創建以来1370年になりますが、この絶対秘仏は本当に実在しているのかと疑問がわきます。それについては、明治初期、明治天皇の勅命で政府の役人が善光寺を訪れ、本堂内々陣にある厨子を開けさせたところ、ご本尊は確かに納められていたそうです。ただ、善光寺は創建以来10数回も火災に遭遇しており、ご本尊は相当ダメージを受けているのではないでしょうか。
GG
信州と馬と善光寺
「馬刺し(ばさし)」。馬の生肉を刺身にしてたべるのですが、その発祥の地は信州とされています。信州は昔から代表的な馬の生産地だったからです。
馬はもともと日本列島に存在せず、アジア大陸から渡来した動物です。といっても馬刺にするために連れてこられたのではありません。有力は武器になったからです。戦国時代の武士は馬にまたがって戦場を駆け巡ったことでもわかるでしょう。
(馬刺し) (朝鮮三国時代)
朝鮮半島の三国時代(紀元前1世紀頃~7世紀頃)、高句麗・百済・新羅は戦に明け暮れていました。このため多くの人々が戦から逃れようとして舟で日本に渡ってきました。その多くは北九州に、あるいは瀬戸内海を経由して近畿に上陸したのですが、日本海の急流を利用して越前(福井県)や越後(新潟県)に渡り、陸路あるいは水路をのぼって近江(滋賀県)や信濃(長野県)、さらには大和(奈良県)に至って定住しました。この人たちが朝鮮半島から大量の馬を持ってきたのです。
すでに書いたように、蘇我一族の蘇我馬子やスーパー・プリンスだった厩戸皇子(「聖徳太子」という呼称は後のこと)の「馬子」「厩戸(うまやど)」は馬と関係があったし、物部氏は有力な軍事氏族でしたから馬とは大いに関係がありました。
つまり、ここで言いたいのは、信州とくに北信地方は高句麗、百済、新羅からの渡来人の聖地ともいうべき土地柄であったこと、蘇我氏も物部氏も「馬」と「信州」には大いに関係があったこと、だから善光寺とも大いに関係があったということです。そのへんのことは次回以降に書きます。
GG
北伝仏教と南伝仏教
前回(3)で、仏教は北伝仏教と南伝仏教に大別されると書きましたが、両者の主な相違点をおさらいしておきます。前回の記事に載せた「仏教伝播のルート」図を参照してください。
まず、北伝仏教から。シルクロードを経て1世紀頃に古代中国に伝播した仏教は大きく変りました。インドの初期仏教と大きく異なる点は、①限られた人(出家者)だけでなく、普通の人(在家者)でも仏に帰依できること。②「他力本願」という思想が入ったこと。③この世(現世)だけでなく、古くからの祖先崇拝思想と絡んで、あの世(来世)が重視されるようになったことでしょう。
こうなると信者が大幅に増えるから、タクシーでは乗り切れず大型バスが必要になります。北伝仏教が「大乗仏教」と呼ばれるようになった所以です。
(北伝仏教 京都五重塔、 托鉢僧)
(南伝仏教 アユタヤ仏舎利塔、 托鉢僧伽)
一方、スリランカを経由して東南アジアに伝播した南伝仏教(上座部仏教。俗に小乗仏教とも)はインドの初期仏教にちかく、①在家の信者もサンガ(僧伽=出家集団)に奉仕することで仏の恩恵に授かれるとはいえ、基本的には出家して修行しなければならないこと。②自力本願であること。③現世重視であることなどでしょう。
日本仏教は中国仏教の流れを継承しているから大乗仏教です。奈良仏教はともかく、鎌倉仏教といわれる浄土宗や浄土真宗、日蓮宗などになると、人々は経典を読まなくてもいい、座禅などしなくてもいい、ひたすら「南無阿弥陀仏」や「南妙法蓮華経」を唱えれば極楽浄土へ行けるという、いわば“仏まかせ(他力本願)”の仏教になりました。ましてや「葬式仏教」なんて日本独特のものです。
(輪廻転生)
蛇足ながら、インドの「輪廻転生」の思想では、人は死んでも必ず何らかの生き物に生まれ変わり(転生)、しかも何度も繰り返す(輪廻)と考えます。必ず生き返るのだから祖先崇拝という考えはありません。また、蛇や獣に生まれ変わりたくないなら、現世を正しく生きなければなりません。釈迦が終生説きつづけたのは、来世のことではなく、現世での「正しい生き方」でした。
GG
仏教
仏教の歴史を簡単におさらいしておきます。
いうまでもなく、仏教はお釈迦様の教えです。お釈迦様は天竺(インド)北方の小さなシャーキャ国の王子として生まれ、その名をガウダマ・シッダールタといいました。生まれた時期は紀元前7世紀~紀元前5世紀といわれていますが、はっきりした年月は分かりません。「釈迦」という呼称は、生まれた「シャーキャ国」(シャーキャ族の国)に由来しています。
(釈迦の生誕地ルンビニー(現在はネパール領)と生れ育った王宮跡)
16歳で結婚し、一人息子を得てなに不自由ない豊かな生活をしていましたが、そういう生活に飽き足りなかったのか、無常観にさいなまれたのか、29歳のときに妻子を残して出家し、修行苦行の旅にでました。
そして35歳になって覚り(さとり)を開き、その経験をもとに80歳で入滅(死去)するまで人々に“いかに正しく生きるべきか”を説き歩きました。それが仏教の始まりでした。
(仏教の伝播ルートとその時期)
仏教は大別して2つのルートで、主としてアジアに拡がりました。ひとつはガンダーラからシルクロードを経由して北東に、もうひとつはセイロン(現在のスリカンカ)を経由して南東に向かいました。前者を「北伝仏教」とか「大乗仏教」といい、後者を「南伝仏教」とか「上座部仏教(小乗仏教)」と呼んでいます。
同じ仏教でも北伝仏教と南伝仏教ではまるで異なりますが、その違いは次回に回します。
仏教がシルクロードを経由して古代中国に伝わったのは西暦1世紀頃で、中国では土着信仰や風習を取り入れて大きく変化しましたが、儒教や道教とともに中国文化に大きな影響をあたえました。
その仏教が朝鮮半島に伝わったのは4世紀頃で、さらに百済から日本に伝来したのが6世紀半ばのことでした。
GG
蘇我氏と物部氏
ところで物部氏とか蘇我氏とはどういう氏族だったのでしょうか。
(当時の畿内) (豪族の分布)
物部氏は、饒速日命(にぎはやひのみこと)を氏祖とし、河内地方(大阪府東部)から出た氏族です。氏(うじ)が示すように、ヤマト朝廷の物資をつかさどる部門(物部)を職務とし、とくに兵器を製造・管理をつかさどる最高責任者(大連)だったようです。いわば、朝廷の職務を担当する内務官僚みたいな存在だったのでしょうが、司法分野(裁判)も職務だったようです。
裁判といっても現在のように証拠物件による立証ではなく、神意に頼って物事の真偽、正邪を判断する裁判(神明裁判)だったから、神道に深い関わりがありました。仏教を激しく排除しようとした裏には、そのような背景があったのでしょう。
(物部守屋) (両氏の対比) (蘇我馬子)
一方、蘇我氏は、天皇家の血を継ぐ武内宿祢が氏祖とされる、葛城地方(奈良県南西部)の土着の豪族です。かつては王家(天皇家)に対抗する勢力だったものの、王家に服従し大王(天皇)を支える執政官のような存在だったのでしょう。
一族の蘇我韓子、蘇我高麗(馬背)、蘇我馬子といった名前をみると、渡来人ではないにしても、渡来集団と深いかかわりがあったようで、蘇我氏が朝廷で勢力を拡大できたのは、渡来人集団がもつ当時の先進技術をバックにしていたからといわれています。
大連(おおむらじ)の物部氏と大臣(おおおみ)の蘇我氏は大王(天皇)を支える二大勢力でしたが、蘇我氏が渡来人を見方につけて物部氏の地盤を急速に浸食し、物部氏に焦りがあったという背景があり、仏教は権力闘争の“具”になってしまったようです。
GG
11月15日~16日は地域の文化祭。晴天に恵まれました。
近隣センターでいろんな活動をしているサークルの展示の場でもあります。
書道、水墨画、水彩画、生け花、手編み、パッチワーク、地域の小学生の絵も貼りだされています。
いろんな模擬店が出たり、おお賑わいです。
私たちの絵のグループは、講師の絵をはじめ16点が展示されています。
私は、今年はバラ(ピエール・ドウ・ロンサール)を描きました。絵のサイズは6号。
タイトルは「ほほえみ」。
KUN
先日の投稿『善光寺』で書いたように、信州善光寺の納骨堂を見学して、ここなら永久の住処(墓場)として申し分ないと思ったが、善光寺のことは何も知らないに等しいことに気がつきました。
善光寺は、絶対秘仏とされる仏像(阿弥陀三尊=阿弥陀如来・観音菩薩・勢至菩薩)を本尊とする日本で最も古いお寺の一つであること、無宗派のお寺であること、「牛に引かれて善光寺」という諺があること、自分の知識といったらその程度のものです。そんなわけで善光寺について少々調べてみましたので、何回かにわけて投稿します。
善光寺由来
(善光寺本尊=前立本尊)
まずはご本尊から。この仏像は銅を鋳造し表面を金で鍍金した金銅製で、しかも阿弥陀如来の背丈はわずか40センチ余り。その歴史をたどると、まず天竺(インド)でつくられて朝鮮半島に渡り、6世紀半ばに百済王から欽明天皇に献上された仏像で、日本仏教はこの仏像で始まりました。
しかしこの仏像が伝来すると開明派(仏教容認派)の蘇我氏と国粋派(仏教排除派)の物部氏が対立しました。そんなとき疫病が蔓延したため、物部氏は疫病蔓延が余所者の神(仏教)の仕業であると主張し、欽明天皇の許しを得てこの仏像を海中(難波の堀江)に捨てました。
(難波の堀江に捨てられる) (善光は背負って信州へ)
そして、その仏像を難波の堀江から探し出し、拾い上げたのが本田善光なる人物です。善光は信州麻績の里(長野県飯田市)の出身で、その仏像を自宅へ持ち帰り、お寺を建てて祀ったのです。そのお寺を坐光寺といいます。のちの「元善光寺」です。
GG
28日。孫たちが学校へ向かったあと長男夫婦と私たち4人で、きのう回れなかった霊園を
もう一か所見に行ったあと、長野市の善光寺に向かいました。道中~紅葉がきれいでした!
善光寺にはロッカー式の納骨堂があることを知っていたので、そこを見学したかったのです。
前もって連絡しておいたので、ゆっくり見学することができました。
「雲上殿」は紅白の本殿(本堂と納骨堂)とその隣の西納骨堂からなり、納骨堂はどちらも
満杯のため募集していませんが、現在本殿の東側に東納骨堂を建設中です。
善光寺本堂前で 雲上殿本殿前で
(西納骨堂の内部) 廊下の両側が納骨庫 納骨庫入口からみた内部
三面・四段式の納骨ロッカー 本殿にある本堂(ここで供養読経)
本殿前からの眺め(善光寺・長野市街方面。右は西納骨堂) 建設中の東納骨堂
東納骨堂が完成(2015年)次第、一般募集するとのことなので、参考のため本殿と西納骨堂殿
の中を見せてもらったのですが、、私たちだけでなく長男夫婦もすっかり気に入ったようでした。
善光寺からの帰途、私たちをJR長野駅まで送ってくれたので、15時01分発の長野新幹線で
上野まで。乗り継ぎのタイミングがよくて長野駅から自宅まで2時間15分で帰宅できました。
KUN
翌日の28日、ママはお仕事が休みでしたが、子どもたちは学校があります。
たまたま学校給食のない日でしたので、タイちゃんとユイちゃんのお弁当を用意しなくては
いけなくて、ママはてんてこ舞いのようでした。
(お弁当の中身が気になるユイちゃん)
(「いってきま~す」と友達と学校に向かうユイちゃんとタイちゃん)
(学生服姿のケンタを写そうとしたら、急発進したのでシャッターチャンスを逃しました)
KUN
安曇野の長男から連休を取っているが来ないかとの連絡があり、GGと出かけてきました。
27日の朝、こちらは気温が上がり足早に歩いたら汗ばむぐらいでした。
上野から長野新幹線に乗り、定刻どおり11時半ごろに長野駅に到着しました。
長野駅では、篠ノ井線の乗り継ぎまで1時間余り時間があったので駅の外に出ましたが、
外の風は冷たくてヒンヤリしていました。
私はお蕎麦が食べたかったので、「戸隠そば」の看板に引かれて駅前の店に入りました。
案内された席に座って壁に貼ってあった色紙を見ると、ナント”小沢征爾”さんのサインも!
長野にはよく演奏で来られるので立ち寄られたのでしょうね。
GGは温かい「きのこそば」、私は「もりそば」を美味しくいただきました。
姨捨山から千曲川・長野市方面遠望
篠ノ井線の普通電車は各駅停車。のんびりと車窓から紅葉景色を1時間余り楽しみました。
長男が最寄駅にクルマで迎えにきてくれて長男宅へ直行。仕事から帰宅していたトアコママも
一緒に、今回の目的・・・・安曇野での永遠の別荘(お墓)探しに出かけました。
最近、安曇野市の広報誌に募集案内が掲載されていた市営霊園4か所をクルマでお墓廻り。
ちょうど墓地で仕事されていた墓石業者の人から、参考になる話を聴くことができました。
お墓の需要が増える一方で供給が追いつかず、墓地の確保は容易なことではなさそうです。
見て回った安曇野市営霊園
夕方、長男宅に戻るとユイちゃんが学校から戻っていて、お友達と遊んでいました。
この春に会って以来7カ月ぶりの再会ですが
中学生になった学生服姿のケンちゃん、5年生のタイちゃんも元気いっぱい!
夜はみんなで外食することになり、ゆっくり食事できました。
KUN
ギンナン(銀杏)
今朝は肌寒いほどでした。外の気温は10℃を下まわり、いよいよ秋も本番。木々は冬支度を急いているようにみえます。
<東の空が明るくなり、一度に目をさましたいちょうの実はドキッとした。きょうはいよいよ旅立ちの日だ。お母さんのいちょうの木は黄金色の子を千人も生んだからにぎやか。その子らが旅立ちの日を迎えて不安な気持ちをみんなで話し合っている。お母さんのもとを離れたくないし、みんなバハバラになってしまうのがいやなのだ。
空の星がすっかり消えた。光の束が黄金の矢のように飛んできて、子どもたちが明るく輝いたとき、北風がゴーっと吹いてきて、子どもたちは一度に雨のように枝から飛び降りた。
北風は笑いながら、今年もこれでさよならというわけだ、といって向こうへ消えていくと、お日様は燃える宝石のように東の空に輝き、あらんかぎりの光を悲しむ母親の木と旅に出た子どもたちに投げておやりになった・・・>
これは宮沢賢治の童話「いちょうの実」のあらすじ。宮澤賢治はイチョウ(銀杏)を人間の親子にたとえ、ギンナンが落ちていく姿を旅立ちと捉えているが、その根底にあるのは、人間だけが特別な存在ではない、人間も動物も植物も、山や川でさえも生き物であり、心を持っている・・・ということでしょう。
これは決して宮沢賢治だけのひとりよがりの考え方ではなく、そういう観念は親から子、子から孫へと受け継がれ、童話を読んだ子どもたちにもその心が通じます。それが日本人共通の思いだから。
木の実落つわかれの言葉短くも 橋本多佳子
歩道を歩いていたら、たくさんのギンナンが落ちていました。お母さんのもとから旅立ったのです。ギンナンは臭くて嫌われ者ですが、10粒ほど拾って帰り水の中につけました。果肉がとれて白くなったギンナンの種子を焼いて晩酌の肴にしようという魂胆だが、はたしてうまくいくでしょうか。
GG
補足: GGが拾って持ち帰ったギンナンは、きれいに洗って干したら、このようになりました。
KUN