明鏡   

鏡のごとく

英彦山

2021-01-26 10:20:10 | 詩小説
英彦山に登った。
雪の残った道をアイゼンを靴につけて、岩の上の雪をがっしがっしとふみふみしながら登っていった。
雪に吸い取られた熱と微塵のなくなったマイナス零度の空と気は、美味しい水と同じ香りがする。

雪の残る山に登る前の参道沿いでは、彫刻家の知足先生のご実家も拝見できた。
修験道の流れをくむ御宅が連なる参道。
朝から木を切る人々がいた。
枯れていく木の手入れをされているようだった。
静かな石段を登り登りしていると、鹿が来るのだろうか、柵が所々見受けられた。
山の奥にも鹿ぞなくなることもなく、夜な夜なやってくる鹿のクーというような甲高い鳴き声を聞くことができるのは、柵の中であれ、幸いであるのかもしれない。
などと思いながら、さらに、石段と言うよりも石ころ、岩のゴツゴツと転がったままの姿の、自由奔放な道を這い上がり出した。

梵字岩という看板を見つけ、梵字岩を拝見しに横道に逸れていった。
せり出した大きな岩に三つほど、径がひとひろほどの円の中に、梵字が刻まれていた。
どうやって、足場を作って、あそこに、梵字を刻むことができたのだろうか。と話しながら、どうしても、彫らずにはいられない思いがそこにあったのだけは確かなのだろうと思いながら、元の道に戻っていった。

さらに奥まっていくように雪道が増していくと、滑り出し、万が一、転んだとしても、さほど痛くはないようなガチと固まっていない雪肌となっていった。

一時間ほど登った先に、大きな山の裂け目のようなものが目の前に現れた。

そこが、今回拝見したかった、凍った滝であった。
とけ始めていたのか、氷の礫が、時々、氷柱の先からこぼれおちた冷たい汗のように、重力のままに、転げ落ちながら、雪肌に砕け散っていった。

雪崩のように、圧で押し殺されることはなく、鋭い透明な一撃の氷柱の欠片は、水の凶器にもなる。

ロシアでは、年間、千人が氷柱でなくなるらしい。

と上村さんがいった。

透明な氷柱が、体を貫くということ。
痛みも凍るような、血も凍るような死を思った。

転がってきた、一片の氷柱の透明なかけらをつかみ、一口、囓った。

滝の、流れるままの岩肌をカチ割った時に立ち上る香りと味の塊を、体に取り込んでいるようだった。

お腹壊すよ。

と、言われながら、お腹の丈夫な、インドに行っても、壊さなかった腹の図太さに感謝しながら、美味しく、冷たい氷飴玉のように頂いた。

それから、鬼杉に会いに行った。

奈良時代から、生きていたというそれは、38メートルほどのところで、お辞儀するように折れてしまったというが、それでも、高く高く、すっくと立っていた。

美味しいコーヒーを入れていただいて、美味しいお弁当もありがたくいただいた。

近くに落ちていた、鬼杉の葉や枝をありがたく手に取り、うちの古民家の杉皮葺の屋根の中に一緒に時を同じくして、ずっと一緒にいてくれるように、大切に持ち帰った。















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