淋しいということは
竹林に降る雨の音からきている
と ろっくはりうっとで詩人に教えてもらった日
もうひとつの寂しいということを思った
雨が降った後
晴れた夕暮れの中を自転車で帰りながら
寂しいはどこか さうだあじの響きと重なる気がして
あるはずのない坂道をのぼるように ペソアの詩を思い出そうとしていた
川の横 車が通り過ぎるのを待つ間
韓国のバッチをつけた若い水兵さんが たずねてきた
ここはどこですか ここは中洲川端です
天神はどこですか ここをまっすぐです
こんなところに水兵さん
ここは港も近い
今では船で二、三時間あれば
国と国を渡れるらしい
それから 又 自転車を走らせながら
たくさんの名を使ったペソアの他の名前を思い出そうとしていたが
昔 リュックを背負って歩いた
ポルトガルの坂道から海を見たのを思い出していた
坂道の途中
おなかがすいてパン屋を覗いて見ていると
半ズボンの少年がパンを盗んで逃げ出した
坂道の向こうへ行ってしまった
ああ そうだった
”無が無をのこす、無だ
ぼくらは・・・かたりをかたるものがたり 無だ”
リカルド・レイス
家に帰り着くと
イムジン河を歌っていた人が首を吊ってなくなったということを知った
見えない歌が目の前を通り過ぎていく
坂道を走ったあの半ズボンの少年のように
ああ そうだった
そうだった
”無が無をのこす、無だ
ぼくらは・・・かたりをかたるものがたり 無だ”
(9/18 詩ボク山口大会にて読みし詩)