明鏡   

鏡のごとく

テレビは外で見るもの

2010-06-18 10:19:14 | 小説
  それにしても、君のおやじさんは、いつやってくるんだい。
 そろそろ、やってくる時間ではないのかい。

家内は淡々と言った。

 そうね。もうすぐ迎えに行く時間。
 こっちにきたら、車高の低い車を改造してね。
 自分で運転できるようにしたいんだって。
 私が横に乗っていたら、いざという時にブレーキが利くようになるかなとも思ってるけど、半身動かない状態だから、どこまで動けるかが、鍵になるわね。
自動車教習所みたいに、助手席にも、ブレーキペダルが欲しいところだけどね。


 我が家の車を改造するのかい。
 まあ、別に、普段それほど僕は乗らないからいいけど。


 差し当たり、手元にあるもので、代用できるものは、代用すればいいと思って。
 長年使ってぼろぼろだから、多少の傷も気になりにくいしね。
 リハビリも兼ねての車だから、ちょうどいいかなと。


 構わんよ。僕は。


 それじゃあ、私、ちょっと行ってくるわ。


 家内がとあるところに預けていた父親を迎えにいくということで、自分は、新しい年老いた家族を迎える為に、部屋を片付けるながら待つことにした。
 自分の両親も、そのうち、世話になることもあるかもしれないので、お互い分担しておけることは分担することが、暗黙の了解であった。

 人一人死ぬまでに、どこで、どのように過ごすか等、考えたこともなかったが、彼女の父親を見ていると、あれだけ、家に寄り付かない、登校拒否の子どもがいると言って相談に乗り、そのままその女の口車と肢体にのってしまった、母親の苦労も知らない、外面ばかりのよい父親であったと家族からののしられながらも、最後は病院ではなく、家で思うが侭に暮らしたいと思うのであるから、不思議ではある。
 最小にして最大の自由。
 あるがままの生活。
 原則はあるのかもしれないが、規則はない。
 がらんどうの自由。
 自分の自由。
 時分の自由。

 生の最後に向かうものは、もしかして、そういったことなのかもしれないが、たとえそうだとしても、今の自分には、これといって自由が見当たらない気がしている。
 家に居ながらにして、家内に占拠されて、反旗を翻してみてもどうということはなく、家外から帰ってくると子どもがいることで、自由はないかもしれないが、がらんどうではないことは確かだが。
 
「生活」は善かれ悪しかれ、どろどろと赤黒く流れて来た溶岩が固まったと思ったら、その裂け目からぱっくり赤々と煮えたぎったマグマを吹き出し続けて、休む暇さえないものであった。

 我が家には、時間をつぶすと言われているテレビという箱もない。

 家という時間箱だけではなく、家族がそこに蠢めき続けていることが、今の僕の「生活」であった。

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