明鏡   

鏡のごとく

『叙勲の朝』

2013-11-06 23:35:36 | 小説
 叙勲の朝。
 私は一個の車椅子に座り、早朝の車道をもの患いするようにゆっくりと進んでおりました。
 今日のこの、秋晴れの日のように、「いってんのくもりもないように」生きてきたわけではないのでございますが、私のようなものが勲章をもらうとなれば、いつのまにか、晴れやかな人生というものを雲の間に間にみるようなルーペを授かるような心持ちになるのでございます。
 私は、いつも、杖をついて歩いており、これからも歩いていくように仰せつかったようなのです。
 天を指すこともなく、地を地ならしするか、第三の足を棒のようにして先々を見通すように、じわりじわりと座頭市のように盲滅法、歩くのでございます。

 眼球さえ白濁してきた私の面倒を見ているのは古女房でございましょうが、実のところ、私があの女の面倒を見ているのでございます。
 一緒にいる。
 ただそれだけで、面倒を見ているのは、お互い様でございます。
 女房も私も、生きていることが痛く面倒になってきたのでございます。
 杖をつきながら歩くことに何の意味がございましょう。
 人の二倍は重い世界を生きるようなものなのでございます。
 年をとるということは、世界が重くのしかかり、時間だけが軽やかに私の前や後ろに過ぎていくことなのでございます。意味はない。無味。
 私のお祝いに駆けつけた娘たちも、意味は無い。無味。
 階級のはっきりした世界であるだけに、名前を呼ばれるのが早いほど、位が高いということに意味があるのは、此の場にいるものだけなのでございます。
 此の場にいない者にとっては、時間のように軽やかに前や後ろを通り過ぎて行くものなのでございます。


 今日、私は一つの句を読みました。

 厳密に言うと、ひとりの老婆が読んだ句を思い出そうとしておりました。

 黄昏時に白い服を着た瓶底眼鏡の老婆が白髪のちょんまげを結わえた老いたちわわのようにきっと私を見ておったのでございます。

 老婆は言いました。


 昨日、自分の書いた紙に滑ってしまって、手をしこたま打ってしまったわ。
 句を書いておったのよ。
 
 はつしものおりしあしあとうすらかみ

 霜降りがうっすらとかみがまうようにとおもうとったんやがな。
 そのうすかみでしこたますべってしまったわ。


 確かに、老婆の歩みは、うすいかみのように軽やかで、朝霜の上にそおっと舞い降りるようでございました。

 私ときたら霜の上を車椅子の重みといっしょに、いや人間椅子のように、意志を持ってぎっこんばっこん移動するように、踏みつけていくだけなのでございます。


 叙勲の朝。

 秋晴れの曇り一つ無い此の日のために、それでも朝はやってきたのでございます。
 
 かつては、じぇらるみんの盾を持ち、過激派に臆することなく、地域の平和のために、生きてきたことになっているのでございます。

 額の中の勲章は、さしずめ採集された昆虫にさされた針。押し花の死の瞬間のようにいつまでもそこに収まっているのでございます。

 

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