明鏡   

鏡のごとく

「歴史の改鼠」

2018-03-16 12:04:49 | 詩小説
鼠が走るのであります。

歴史の夜というものがあるならば、歴史の屋台骨の屋根の柱という柱を。

鼠は改めて声高らかにいうのであります。

歴史は書き換えられた。権力者によって。

では、歴史とは一体何であるのでしょうか。

例えば、有色人種の血の流れた総理や大統領がいたとして。

その奥方もれっきとした有色人種の血の流れた人であるとするならば。

歴史を伝えるという報道番組において、有色人種の血の流れた女の子が、その奥方の肖像画を憧れを持って眺めている映像を流されたといたしましょう。

そうして、女の子にこう言わせるのであります。

「わたしの女王様」

と。

こうして遠くからみているだけであると、歴史を造るのは、権力者だけではなく、それを強化し続けるものたちのなせるあわせ技である。

と、言わざるをえないのであります。

有色人種の中の女王様にあこがれるのか、それとも、すべての人々の女王様と崇めさせたいのか。あるいは、同じ肌の色のものが女王様であることこそが、ヒエラルキーの頂点としての「女王様」を自分の鏡として、うっとりと魅入らせるものとなるのであろうか。

どこか、気味の悪いプロパガンダのようで、軽いため息のような、しかしながら、濁った吐き気を感じたのであります。

鼠が夜中に走り回るような、見えない、うす気味の悪い意図がうっすらと透けて見えてくるようなのであります。


学校を造るのに、しかも同じ思いを持っていると信じていたお友達のようなものを支援することが間違いであるのならば、グローバル化に乗り遅れるなと、外国人留学生を受け入れろと言い続け、誰も彼もを安く使い捨てようとするものに加担し、自国の若者とその家族にだけに高い授業料を払わせ続けるものたちの偏った支援をも、糾弾されるべきことといえませんでしょうか。

いつまでも、死者を出しても、その責任を追求し続ける、その姿勢は、だれかにあやまってもらえれば被害者は納得すると言いながら、永久に頭を下げさせたいだけの、どこかの国のやり方と相通じるものがあります。

しかも、その被害者面をした国のものが同じことをやっていたことは、いっさい、見ようともしない、取り上げようともしない徹底ぶりなのであります。

鼠が穴から這い出てまで、歴史を改めていこうとする、その理由を紐解こうとするならば、おそらく、女/王様になりたいのです。

お前は間違っていると。

上から物申すことができるような、女/王様に。

今日も、明日も、明後日も、昨日も、昔々も、その昔も。

鼠は改めて、走り回るのです。

お前は間違っている。わたしこそが正しいのだと。

政権交代しても、同じことなのは、女/王様が変っただけだということを、思い知らされるだけだということなのだと。

だれに加担しているか、ただ、それだけのことなのだと。

なるべく、ビョウドウであるためには、その女/王様になる機会が、ビョウドウであるべきなのだと。

ただ、それだけのことなのだと。





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