柳川文芸誌「ほりわり」35号ができた。
合評はまだであるが、例会に文芸誌ではなく、柳川のほりわりそのものを整備したという田中吉政の末裔の方や水濠柳川の水をテーマにした会をされている方々がいらしていた。
田中吉政は、穴太衆とともに、城の建築や河川工事など、土木工事はもちろん、都市デザインを手がける天才であった。
ぺシャワール会の中村哲さんも独学して、山田堰や柳川を研究されていたが、その大元を作った人とも言えるのである。
今、水害が激しくなる一方であるのは否めない事実であるが、コンクリだけでは生命も水も行き場を失ってしまうということに、気づき始め、川の流れをよく見極め、自然を生かした堰を作っていた当時の方々の知恵を学ぶのは、大切なことであると思われる。
川下りの大東の工藤先生によると、曲がりくねった川のかくんと曲がったところに大きな石があったのだが、それはわざと置いてあるもので、それで、強い流れを受け止めていたのだが、現代の人々が邪魔に思ったのかどかしてしまい、そこから決壊がたびたび起こるようになったのいだということ。
自然を生かして、生活も守るということが、大切であるのは言うまでもないが、自然のものに、寄り添うように作っていくやり方は、茅葺屋根とも近しいものを感じていた。
なんでも固めてしまうことがいいとは限らないということ。
自然と共に暮らす、共生するということの、自然な形を教えていただきありがたかったが、それを生かしていくことができるように、なりたい。
合評はまだであるが、例会に文芸誌ではなく、柳川のほりわりそのものを整備したという田中吉政の末裔の方や水濠柳川の水をテーマにした会をされている方々がいらしていた。
田中吉政は、穴太衆とともに、城の建築や河川工事など、土木工事はもちろん、都市デザインを手がける天才であった。
ぺシャワール会の中村哲さんも独学して、山田堰や柳川を研究されていたが、その大元を作った人とも言えるのである。
今、水害が激しくなる一方であるのは否めない事実であるが、コンクリだけでは生命も水も行き場を失ってしまうということに、気づき始め、川の流れをよく見極め、自然を生かした堰を作っていた当時の方々の知恵を学ぶのは、大切なことであると思われる。
川下りの大東の工藤先生によると、曲がりくねった川のかくんと曲がったところに大きな石があったのだが、それはわざと置いてあるもので、それで、強い流れを受け止めていたのだが、現代の人々が邪魔に思ったのかどかしてしまい、そこから決壊がたびたび起こるようになったのいだということ。
自然を生かして、生活も守るということが、大切であるのは言うまでもないが、自然のものに、寄り添うように作っていくやり方は、茅葺屋根とも近しいものを感じていた。
なんでも固めてしまうことがいいとは限らないということ。
自然と共に暮らす、共生するということの、自然な形を教えていただきありがたかったが、それを生かしていくことができるように、なりたい。