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浄土真宗の味わい 電話法話の原稿 みなさんの一言

お念仏は 公の言葉  

2022-11-29 19:06:38 | 日記

 お念仏の教えは、簡単な教えですけれど、簡単であるから
誤解しやすいのです。
法然聖人の教えは、じつに簡単ですよ。これはどんな人でも
分かる、分かりやすい教えです。

法然聖人からどういう教えを聞いたかを、親鸞聖人は
ひと言で仰っておられます。(『歎異抄』)

 「親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまゐらすべしと
   よきひと(法然)の仰せをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり。」

と、仰ったのです。これだけです。
「お願いだから、どうぞお念仏を申して、お浄土に生まれてきてくれよ
 というのが阿弥陀様の願いだ」。
この願いのお念仏とは仏様の願いのお念仏です。
人間の願いの念仏とは違います。
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と称えて、仏様に何かを
お願いしようなんていうのは、大変愚かなことなのですよと。

「南無阿弥陀仏」とお願いするのは、私ではなく仏様なのですよ。
仏様は誰を願っているかというと、この私を願っているのです。
仏様は私を願ってくれているのに、私が仏様を願ってどうするのですか、
仏様の言葉を 私ごとに使ってはいけません。

 だいたい、仏様の言葉を私ごとに使うというのはおかしいですよ。
何でもそうでしょう。公の言葉は公に使わなければいけない。
お念仏は公の言葉です。「生きとし生けるすべての人に、
どうぞこの『南無阿弥陀仏』と申して、そしてお浄土へ生まれてきてくれよ」と
お願いくださるから、「有難うございます、仰る通りお念仏を申して
お浄土へ生まれさせていただきます」と言って、「南無阿弥陀仏、
南無阿弥陀仏」と、皆さんは仰っているのではないですか。違いますか。
もし違っておられたら今日限りあらためてください。
そうでなかったら浄土真宗の門徒ではないですよ。

 そういうことで、お念仏のお謂われというのは これだけのことです。
善人であろうと悪人であろうと、賢くあろうと愚かであろうと、
男だろうと女だろうと、如来様は分け隔てはなさらない。
戒律を保って清らかな生活をしていようと、ふしだらな生き方をして
それしか生きられなかった人であっても、如来さまの願いを聞き入れて
「有難うございます。それではとお願いを申して、あなたの所へ
  帰らせていただきます」と言ったら、如来さまは一番喜んでくださるのです。
 それだから法然聖人はお念仏申しなさいと言われるのです。

 法然聖人のもとに集う在家の信者の方々は、「私みたいなものに、
そこまで言われているのですか」と、出家、在家の区別なく、
聖人の温かいお念仏のお諭しにしばしば感激されていました。
そして法然聖人は、聖人のところからお念仏して帰る人の姿を
ご覧になって「ものもおぼえぬあさましきひとびとのまゐりたるを
御覧じては、『往生必定すべし』とて、笑ませたまひしを、みまゐらせ候ひき」
(『親鸞聖人御消息』『註釈版聖典』七七一頁)と仰っておられます。

 にっこりと微笑んで必ず浄土に生まれていく人だなと言われたのです。
田舎の爺さんがお念仏申しながら帰っていったら、法然聖人が喜んで
くださったということが書かれているのです。

         梯實圓師 「浄土から届く 真実の教え」 自照社出版

 

 


人間にわかる言葉で  ~阿弥陀さまの願い~

2022-11-23 16:17:58 | 日記

 教行信証の「教」というのは 何かというと、「大無量寿経」のことです。
この経はお釈迦様の言葉ですが 阿弥陀様の言葉でもあるのです。
阿弥陀様がお釈迦様となってこの世に現れてくださり、
私たちにわかる人間のことばに直して、 阿弥陀様のこころを
私達に説いて知らせてくださったのです。
それが大無量寿経というお経なのです。

 ですからこのお経はどこから出てきたかというと、お浄土から
出てきたお経なのです。 大無量寿経に このことが書かれています。
浄土の蓮華の華が、一つ一つの華が、それが一体一体の仏様となって、
そして十方の世界にかぎりなく開けていくというのです。

その仏様が、浄土の覚りの光が仏様となって、十方の世界に
あらわれてくるのがお釈迦様であり、十方の諸仏だというのです。
その仏様たちが、光の言葉を持って光の世界を人びとに説き、
人びとの暗闇のこころを明るく開いてくださる、それがお経なのです。

 だからお経となって仏様は届く、仏様というのはお経となって
届いていらっしゃるのです。

 私たちがお経を読誦する時は、お経本を頭の前にまず頂いて
拝読しています。
ただ本を読んでいるわけではないのです。
私の前に、私のわかる言葉で、仏様のおこころを知らせてくださっている、
仏様のお言葉であるということです。
そのお釈迦様の説かれた『大無量寿経』というお経が、
仏様の真実の言葉となって それが届けられているのです。

 その『大無量寿経』の内容を言いますと、「南無阿弥陀仏」という
名号を疑いなく受け容れてくださいと説いています。
疑いなく受け容れることを信心と言っています。

名号というのは仏様の名前で、「南無阿弥陀仏」という阿弥陀様の名前です。
「南無阿弥陀仏」は姿も形もありませんが、言葉だけがあるのです。
姿も形もないということはどういうことかというと、
私たちにはそれを見る眼がないのです。

これは眼を入れ替えなければならないのです。
仏様の言葉、如来様の世界を私たちが受け容れられる言葉となって、
言葉として私に届いてくださるのです。
言葉を超えた世界が、言葉となって響いてくるということです。

その言葉をとおして、私たちは言葉を超えた世界に気づかせて
いただくということが大切なのです。
そのために仏様は、名号となってあらわれてくださるのです。
名号というのは名前です。

「南無阿弥陀仏」という名前となって現れて、私に
呼びかけてくださっています。

     梯實圓師 「浄土から届く 真実の教え」 自照社出版

 

 


言葉で 救う 

2022-11-15 13:10:42 | 日記

人間は 言葉によって 喜び 悲しみ 苦しみながら 生きています。
合格の通知 孫が誕生したという連絡や、大切な人が
事故にあった 病気になったなど、言葉で知らされ
慌てたり悲しんだり喜んだりしています。

人間は 言葉によって 絶望し、また未来に希望を持ち
言葉によって 人生は大きく 左右されています。

 お釈迦様は 人々が生きがいを持ってこの世を生き、
悔いのない一生を終え やがて 今度は人々を救うはたらきが
出来る仏に成ることが出来ると、言葉で教えていただいています。

 しかし、その多くは、努力できるもの、 いいことが出来る人、
選ばれた特別の人だけは救われ、 平凡で怠け者の人々には
関係無い ほど遠い仏さまでした。

 ところが、一人の国王だった 法蔵菩薩は
善人も悪人も 努力できる人も 、できない人も、 全ての人を
救う方法はないかと、大きな願いをたて、すべての人に
代って 自分で永い厳しい厳しい修行をして、阿弥陀仏となり
「南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏」の 言葉で あらゆるものを
救うことができる強力な能力の仏さまになられたと。

 その阿弥陀さまの国、お浄土に すべての人を生まれさせ
自分と同じ能力を持つ仏にして 一緒になって
一人残らず救い尽くそうとされているのだと。

そのお浄土の様子も言葉で表現し、教えていただいています。
苦しみ、悩みのない 理想の国  お浄土に
この私を、そして全ての人を 生まれさせ、
ともに 仏として 活躍しようと呼びかけ続けておられるのだと。

 そのことを説くために お釈迦さまは この世にお生まれになり
言葉で説き また阿弥陀様の国へと帰っていかれたのだと。

先だった祖父母、親たちも 南無阿弥陀仏でお浄土に生まれ、
今 南無阿弥陀仏の仏様としてはたらき、この私を
お浄土へと 導いてくださっています。

 浄土真宗は 言葉の宗教 南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏を 
疑いなく信じさせ、一人残さず救い取るという阿弥陀さまが
すでに、はたらいておられると、言葉で教えていただいている
教えです。


誓いと願い ~如来の功徳で 仏道を~

2022-11-08 12:42:57 | 日記

  如来のご本願を仏願・弘誓などと表現することがありますが、
特に「誓願」という言葉にはお念仏の教えの特色が
よく表れていると思います。

 ご本願(第十八願)には、人びとが信心をいただいて
浄土に往生することを願われ、また、それができなければ
さとりに至らないと誓われています。
願われているのは衆生の往生、すなわち衆生の仏道であり、
誓われているのは如来自身の正覚、すなわち如来の仏道で
あるといえるでしょう。

 そして、衆生の往生には信心をいただいて(至心信楽して
わが国に生ぜんと欲ひて)ただ念仏せよ(乃至十念せん)と
願われているだけであり、ほかに何も条件がつけられていません。

 ここに示されているのが如来回向であリ、衆生から見れば
他力ということなのです。
仏の国へ往生するなどの果を得るには、功徳が必要です。
功徳とは良い方向へ進ませる力のことですが、
ご本願に功徳が往生の条件として示されていないのは、
その功徳を如来が準備して衆生に回施してくださるからです。
それが如来回向ということです。

 衆生のありようのすべてを見そなわし、無条件で浄土に
往生せしめるという願を建立するには五劫の思惟が必要でした。
そして十方の衆生を無条件に救うための膨大な功徳を
獲得するには兆載永劫の行が必要だったのです。

 衆生の側から見れば、仏教で救われるということは
私が間違いない仏道を歩む、ということです。
平たくいえば、間違いなくお浄土に往生し仏となる道と
してこの人生を歩むということにほかなりません。

出家者の仏道は、自ら行を修め功徳を得て仏果を目指す道です。
在家者の仏道は、自ら行を修め功徳を得ることはできませんが、
その功徳は如来が回施してくださるのです。

私が修めた功徳ではなく如来の修めた功徳をもって
仏道を歩んでいく、そのことを他力というのです。

 我が名よ届け、と喚びかけてくださっている如来さま。
念仏申しつつ歩む私の人生の道は、如来さまがともに
歩んでくださる仏道なのでした。

   本願寺出版社 「如来とわたし」 安藤光慈師著より

 

 


片道か 往復か ~還相回向が特徴~

2022-11-01 15:37:22 | 日記

 コロナの流行で みんなで マスクをし、手洗い うがいに検温。
病院や 介護施設では面会禁止と、国民全体で 気をつけたせいか、
コロナ流行の初年度は、お亡くなりになる方が 非常に少なく。
平均寿命がまた延びた、感じがしていましたが、
流行して 3年目を迎えて、努力のかいもなく高齢の方が次々と
亡くなられて 例年以上の忙しい秋を迎えています。

 お寺の住職や坊守さんも例外ではなく、組内のお寺で門徒葬があり
七条袈裟をつけ出勤しました。
 ご親戚代表がお礼の挨拶で、 「またお浄土で 会える。今度会った時に
 恥ずかしくないような生き方をしたいものです」との お言葉がありました。

 阿弥陀経には、倶会一処という言葉があります。
お浄土でまた必ず会うことを楽しみにということでしょうが。
浄土真宗の教えは、お浄土に往生するだけではなく、
仏に成っての還相回向がはっきりと説かれています。

 お浄土へ行ったきりではなく仏に成って必ず帰って、人々を救う、
片道ではなく往復の教えであると。
ですから、お念仏の人は、日付がなく、いのち終わった日に有効になる
往復切符を既に受け取っているようなものでしょう。
お浄土で仏になったその瞬間、もう自由にこの世に還って
人々を教化するはたらきができると、説かれているのです。

 2008年に。 本願寺派では「浄土真宗の教章」が 改正されました。
そして、その教義には、「阿弥陀如来の本願力によって、信心をめぐまれ
念仏を申す人生を歩み、この世の縁が尽きるとき、浄土に生まれて仏となり
迷いの世に還って人々を教化する」と はっきりと還相回向が明示されました。

 それまでも お正信偈の中では、「蓮華の国に うまれては 真如のさとり
 ひらきてぞ 生死の園にかえりきて まよえる人を 救うなり」とか、
 「往くも還るも他力ぞと」などとありましたが、
信心でお浄土に生まれることが強調されて、還相回向については、
教義の上では ハッキリと書かれていませんでした。

 そういう意味では、お浄土に生まれて仏となった方は
お浄土でじっと待っていてくださるのではなく、
この私の所に 南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏のお念仏となって
呼びかけ お浄土への道を歩んでくださいと導き、はたらきかけておられるのです。
往生のその日から、そのときから、お浄土を出て私たちに
はたらきかけていただいているのです。

 お浄土へ生まれ 今度お会いした時には、どうも有り難う
ございました。御蔭さまで、こうしてお浄土へ生まれることが出来
ご一緒に 活躍することが出来ますと、ご挨拶をするのです。
亡くなった方は、過去完了形の仏さまではなく、現在進行形の
仏さまとなって、今、ここに働いていただいているのです。