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浄土真宗の味わい 電話法話の原稿 みなさんの一言

最も度し難いのものは この私

2023-01-31 09:17:58 | 日記
お姉さんの結婚式の朝 お内仏の前で撮った笑顔いっぱいの
家族写真を見せてもらいました。
その大切な写真が、お内仏の前で撮られているということに驚きました。
日頃から仏前に座り手を合わせてきた家族だったから、その場所を
選んだのでしょう。

 七宝講堂道場樹 方便化身の浄土なり
 十方来生きはもなし 講堂道場礼すべし (『註釈版』562頁)

 これは親鸞聖人が作られた「浄土和讃」の一首です。
「講堂」とは 聞法の道場であり、お寺の本堂や家庭の
お内仏を意味します。
親鸞聖人はこの「講堂」の字の横に、小さく「ナラウイエ」と
書かれています。

 いったい何を習うのでしょうか。それは自分自身を習うのでしょう。
喜び、悲しみ、腹を立てる自分自身の姿です。
その姿は時に目を覆いたくなるような愚かしいものかもしれません。
しかし、その見たくないものをしっかりと見て、習う。
それが本堂やお内仏という場なのです。

詩人の相田みつを氏は、「じぶん/この/やっかいなもの」
  (『いのちいっぱい』ダイヤモンド社)と、他者ではなく、
自分こそが一番煩わしい者であると教えてくださいます。

 私の目はありのままの世界を見ているにもかかわらず、
「自分」は勝手な解釈でもって、ものごとを常に選り好んで
生きています。
周囲の人を、親を、連れ合いを、子を、そして自分自身さえ
ありのままにいただくことなく、事実をねじ曲げ、
そのうえ不平不満を言って生きているのです。



 そのような私が、本当の私自身を見ることができる場として
聞法の道場があるのでしょう。
その確かな依り処を大切にして欲しいという仏さまの願いを、
お内仏の前に座る家族の姿をとおして、あらためて
教えていただいたことでした。

 稲城先生の法語「世の中に最も度し難いものは他人ではない この私」
この法語は、不確かな目で見たものを絶対化するどうしようもない私を
言い当てられた言葉です。
いかに我が身中心の思いで生活しているのか。
それさえも厳しく教えられないとわからない。
そういう我が身の愚かさを教えていただくのが道場です。
その自分が最も救われなければならないものであると目覚めたとき、
頭は自然と下がるのです。
                  松江 長親師を参照

親は 子どものために

2023-01-24 14:46:59 | 日記
 テレビ放送開始70周年記念ドラマ として
「大河ドラマが生まれた日」を 2月上旬に放送するという
PR番組をみました。

 昭和39年の東京オリンピックの直前、テレビの躍進を脅威と感じた
映画会社は 所属の俳優をテレビには出演させない協定を結び、
テレビと対抗していた時代のことです。
映画に負けない新しい連続大型時代劇を自分自身で制作できないかと
奮闘する中、映画俳優の 佐田啓二が出演することを了解してくれて、
第一回大河ドラマ「花の生涯」が、スタートしたという物語のようです。

 この記念ドラマには、佐田啓二の息子 中井貴一が、大河ドラマを発案した
芸能局長の役で出演しているということです。
ところが、中井貴一のスケジュールがなかなか取れず、
たまたま空けてあった一日、父の祥月命日に、収録をしたとい
うコメントもありました。

 もう40年も前を思い出しています。
夜の8時台の総合テレビ 報道や教養番組がほとんどとなった中、
やはり娯楽時代劇が必要と急遽制作することになりました。
作品は 藤沢周平さんの原作と決まっていましたが、あとは白紙
毎週一回の放送ですから、週5日間のスケジュールが必要ですが、
主役級の俳優は 2年3年先まで、予定が入っており、なかなか
いい人が見つかりません。

 そんな中、訪ねてきた中堅どころのプロダクションのマネージャに
「時代劇 主役 新鮮な若者 いませんか?」「いますよ」
「え、誰、どこに」「佐田啓二の息子さん」「今何をしている人」
「大学3年か4年生ですよ」「経験はあるの」「映画連合艦隊に出てましたよ」
「会えるかなー」「段取り取ってみます」

 放送センターの西口前の喫茶店で会うことになりました。
約束の時間に行くと、恰幅がいい母親がひとり現れて、本人はクラブ活動で
少し遅れますとのこと。
内容を説明すると、主人の佐田啓二さんが夜の8時台のドラマ収録のために
蓼科高原(たてしなこうげん)から帰る途中、自動車事故で亡くなった。
その同じ8時台に 息子に主役の話があり、あとは本人次第との感じでした。

 真っ黒に日焼けして、ラケットを持ち、練習着のまま現れた青年は
自分は父親と別の道を行きます。大学のテニス部のキャプテン、先輩の
紹介で、就職は大丈夫。ゴメンナサイとの強い決意でした。

「そういわず、卒業前の思い出づくりに 一本だけやってみない」
「とても無理です、大きな大会もひかえていますから」
「今結論を出さず、後で返事を・・」で別れました。
ちょっと無理かなあーが印象でした。
しかし、数日後 出演したいとの返事が届き思いました。

 親は子どもや孫の幸せのために 心配りをします。
亡くなっても親は子どものことを一番に考えてはたらきかけて
くれているのだろうと
しかし、なかなかそれに気づかずにいるだけ、
この父と、子どもの映像をテレビで見ながら、この場合は 
それを感じ取ることが出来、受け入れただけだと、つくづく感じています。

親はいつも 子どものことを応援しているのです。
阿弥陀さまは すべての人を我が子のように、いつもいつも
私に任せなさいと、見守っておられるのです。
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏と 呼びかけ見守って
おられるのです。


 

酔っぱらって

2023-01-17 13:50:07 | 日記

 朝から 赤い顔をし 酒臭く 二日酔いで苦しんでいる人がいます。
たばこを切れ間なく吸い、指先は黄色く 近づくと匂う人もいます。
酒やたばこや賭け事に酔いしれている人たちに比べると 
自分は真面目で まともな人間であると思っていますが、
自己中心で 行き先もわからず、 道に迷っていながら 
それに気づかず、生きている人は 酔っ払っている人たちと 
同じように 無意味な人生を送っていると 言われます。

何のためにこの世に生まれ どこへ向かって、生きているのか 
考えもしないで、毎日をすごしていることを、
むなしい人生であると 仏教では 言うのだといいます。

 蓮如上人の御文章には

 八万の法蔵をしるというとも、後世をしらざる人を
 愚者とす、たとい一文不知の尼入道なりというとも・
 後世をしるを智者とすといえり・・・・  とあります。

 希望したわけでもなく、気づいてみると、この世に生まれていました。
そして 追いかけられるように競い合って
勝ったと言って喜び、負けたと言って悲しみ
得をしたとはしゃぎ 損をしたと悔しがり、一喜一憂しながら
無我夢中に走り続けているのが私たちです。

 親鸞聖人の ご和讃には

 本願力にあひぬれば むなしくすぐる人ぞなし
 功徳の宝海 みちみちて 煩悩の濁水へだてなし  と。

 阿弥陀如来は、一人も漏らさず救い取る、人間に生まれたことを
喜び、生きがいある人生をまっとうさせたいと願いを立て
完成されました。

 この本願の教えに出会えれば、この人生は 喜び多い
すばらしいものになること間違いないと、お釈迦さまは
教えていただいています。

 この私は 今は 自分本位で 自分の家族や仲間のことしか
考えられない生き方をしていますが やがて  多くの人々の幸せのために
生きることが喜びとなる 仏になって欲しいと
阿弥陀如来は呼びかけておられるのです。

どうか 仏となって みんなのためにはたらく そうした目標をもって、
この人生を 送って欲しいと呼びかけておられます。

難しいことを言っても何もしない できない私たちに 代わって
自分が 苦労して修行して、南無阿弥陀仏と自分の名前を
信じ 口にするものを、一人残らず 自分と同じ能力を持つ
仏にしようとはたらいておられるのです。

 無理なことは言わない 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏のお念仏だけで良い 。
私たちの 父 祖父母 多くの先輩たちも 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
と、一緒になって はたらきかけておられます。

 何のためにこの世に生まれ、何のために生きるのか、
そのことがはっきりすることで、この人生は まるで違って
見えてくるものです。

 あなたも酔いしれて 虚しい人生を送るのではなく、どうか、
喜び多い 生きがいある人生があることに気づいてほしいと。
お念仏の教えに出会えれば、 生まれた目的 進んで行く方向
本当の喜びが はっきりと見えてくるのです。

 

 


最も確実な親孝行は

2023-01-11 14:26:29 | 日記

 今年も お精進がはじまりました。
ご本山 西本願寺では、1月9日から、親鸞聖人の御命日の法要、
ご正忌報恩講が始まりました。

 お寺だけではなく ご門徒のお宅でも、この期間中、お精進をして
肉や魚を食べるのを遠慮していたようです。
お正月が終わり、ご正忌報恩講が近づくと、生ものを煮炊きした鍋や釜を、
丁寧に洗い、ご正忌報恩講の準備をしていたということです。
京都では 昔、この間 魚市場もお休みだったと聞いた事があります。

 親鸞聖人は お釈迦さまが説いていただいた、数多くの教えの中で
無量寿経にある阿弥陀さまのお念仏の教えこそが、真実の教えであると
味わっておられます。

 全てのひとを一人も漏らさずに救うには どうすればよいのか
五劫という長い長い間 考えに考えて 48願をたて、
お念仏ひとつで お浄土へ救い取り もれなく仏にしようという
願いを完成するために 大変 大変 ご苦労いただきました。
親鸞聖人は 「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、
ひとえに親鸞一人がためなりけり。」と 味わっておられます。

 教育テレビでは 子どもさん向け番組で  「えほん寄席 寿限無」
というのが 放送されているようで、字も読めない 小さな子どもさんが
寿限無 寿限無 五劫のすりきれ・・・・と 暗記しているようです。

この寿限無は 無量寿経の 無量寿でしょうし 五劫のすりきれは
法蔵菩薩の 五劫思惟のご苦労のことを 知った人が 
このお話を作り、お念仏を喜ぶ人々がそれを受け入れてきたのでしょう。

 親は 子どもの幸せを願い 立派な名前を考えて寿限無 寿限無という
長い長い名前を つけてやったのでしょうが、
すべての親は 子どものために 子どもの幸せのために 頑張り苦労しています。
その親がもっとも喜んでくれるのは、子どもが喜び多く 生きがいをもって
自分のためだけではなく、多くの人のために 頑張って生きてくれることでしょう。

 それには、お念仏の教えに出会うことで、その方向性 進むべき道
やるべきことが見えてくるものです。
どうか、両親や祖父母を喜ばせるには お念仏の教えに出会っていただくことが
最も早く 最も確実な親孝行ができることでしょう。

 ご正忌報恩講は、そのご縁を結んでいただく チャンスです。
ご本山の ご正忌報恩講は インターネットでもライブ配信されています。
どうか、一日でも早く お念仏のご縁をいただいていただきたいものです。

 

 

 


深い深い思い

2023-01-04 13:15:21 | 日記

『大無量寿経』には、阿弥陀仏が仏に成られる前、
法蔵菩薩であられたとき、世自在王仏のもとで教えを
受けておられましたが、教えを受けるなかで、菩薩は、
“浄土を建設して、悩み苦しむ人びとをすべて救いたい”と
願うようになられたのでした。

 そのために、他の仏の浄土の成り立ちを教えていただきたいと、
世自在王仏に懇願されたのです。
世自在王仏は法蔵菩薩の願を聞き入れて、多くの仏の浄土を
お示しになりました。

 菩薩は、諸仏の浄土とそれらの浄土に生きる人びとのありさまについて、
みなことごとく見究きわめられたのでした。
そしてその上で、法蔵菩薩は、他の仏の浄土とは違った浄土を
実現したいという、殊のほか勝すぐれた願いを発こされたのです。

 殊のほか勝れた願いというのは、真実に無知でありながら
それに気づかず、教えに背を向けているために悩み苦しむ凡夫、
いわば、どうにもならない凡夫をこそ、迎え入れる浄土を
実現したいという願いであったのです。

法蔵菩薩は仏になろうと志しておられましたが、もし、
その願いを成就させることができないのであれば、むしろ
自分は仏には成らないとまで誓われたのです。

 凡夫は、ものの道理がわかっていないのです。しかも、
ものの道理がわかっていない、そのことも、実はわかっていないのです。
それなのに、自分自身にこだわって、自分はわかっていると思い、
わかっていると思っていることだけが道理だと思い込んでいます。

このような凡夫が浄土に生まれるなどということは、通常は
あり得ないことです。
浄土というのは、自分にこだわって思い上がるなどという、
そのような汚がれがまったくない世界だからです。

 法蔵菩薩は、そのように浄土に往生できるはずのない凡夫を、
どのようにすれば自分が建設しようとしている浄土に
導き入れることができるのか、それを深く深く思案されたのだと、
『大無量寿経』に説かれています。

そのことを親鸞聖人は「五劫思惟し」(五劫、これを思惟して)と
述べておられるのです。
「劫」というのは、気が遠くなるような、途方もなく永い時間
をかけて法蔵菩薩は思案されたわけです。

 私たちも、時には、真剣に思案することがあります。
けれども、どんなに真剣に、誠実に思案したとしても、
必ず、自分とか、自分の都合とかいうものが絡んでしまいます。
そのような思案とはまるで違った、純粋な思案、どうにもならない
凡夫を救うための思案を深く深く重ねられたのです。

その思いの深さを「五劫」という時間の永さで言い表わしてあるのです。
つまり質の深さを量の多さによって表わしてあると考えることができるのです。
それほどの深い思い、大きな願いが、私ども凡夫に差し向けられて
いるわけです。

 ここであらためて、親鸞聖人のお言葉が思い起こされます。
『歎異抄』によりますと、聖人は、「弥陀の五劫思惟の願を
よくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり」と述べておられます
これほど深い願いがご自分に差し向けられていることに
感動しておられるのです。

「たすかるはずのない凡夫を何とかして たすけたいというこの願いは、
実は、自分に向けられているとしか思えない」と言っておられるのです。
ここには、ご自分を救い難い凡夫であると、真っ正直に厳しく
見据えておられる聖人の眼差しがうかがわれるのではないでしょうか。
そして、その深い自覚から法蔵菩薩の願いに触れたときの喜びを
表明しておられるのではないでしょうか。

 法蔵菩薩は、深い思案のすえ、たすかるはずのない凡夫をたすける手立ては
これしかないと、思い当たられたのです。
そして、四十八項目からなる誓願を選び取られたのです。
そのことを「摂受(しょうじゅ)」(摂さめ受ける)と説かれているのです。
             
           九州大谷短期大学長 古田和弘師