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浄土真宗の味わい 電話法話の原稿 みなさんの一言

親のよび声

2023-04-25 14:41:49 | 日記
 小さな女の子が山の中で迷子になる事件がありました。
家族と遊びに来て、一人で道に迷ったのです。
警察や消防、近所やボランティアの人たちで探しますが、
夕方になってもなかなか見つかりません。

 そしてとうとう夜になり、「今日はもうダメだ。
これ以上は暗くてあぶない。明日また探そう」と誰かが言いました。
結局その日はあきらめて次の日の朝ふたたび集まることが決まり、
捜索隊は一時解散しました。

 ところが捜索が打ち切りになった後も、探すのを
やめなかった人がいます。
「どこにいるの〜、お母さんはここですよ〜」大声でさけびながら
必死になって探し続けたのは、その子のお母さんでした。
みんなが帰ってしまった後も、決して探すのをやめません。

 真っ暗な中さみしくて泣いているに違いない、
お腹を空かせてひもじい思いをしているに違いないと
子どもの身を案じ、心の底から心配をしているのです。
お母さんは子どもが見つかるまで心が休まることはありません。

その子を胸に抱きしめて安心させるまで、けんめいに探し続けます。
絶対にあきらめない、決して見捨てることができないのが
本当の親なのです。

 みなさんには自分のことを本当に心配してくれる人がいますか。
つらい思いをした時、悲しい気持ちになった時、声をかけて
くれる人はいますか。

 私たちの仏さまは「アミダさま」と言います。
アミダさまは「南無阿弥陀仏」という言葉になって、
今も私のところに来てくださっています。

「声に姿はなけれども 声のまんまが仏なり 仏は声のお六字と
 姿をかえてわれに来る」これは高松悟峰というお坊さんの言葉です。
 「南無阿弥陀仏」は、変な呪文やまじないの言葉ではありません。

  アミダさまのよび声です。
「ここにいるよ、ひとりじゃないよ。
 わたしはあなたを見捨てたり見放したりしないからね。」
アミダさまはこれまでもこれからも、ずっと私を
よび続けてくださいます。

「ナモアミダブツ」と大きな声で返事をしましょう。
アミダさまのまことの言葉をいただいて、疑いが晴れて
安心することを信心といいます。

道に迷った山の中で、親のよび声が聞こえたとき、
その声を疑う人はいませんね。
「南無阿弥陀仏」と声に出してとなえることは、
アミダさまのたしかさ、たのもしさをよろこんでいくことなのです。

        本願寺派 少年連盟 ホームページ 松月英淳師


 

法事の参拝者は 招待客ではありません

2023-04-18 13:16:07 | 日記
 仏事のイロハという本の中に「法事の参拝者は 招待客ではありません。」
という文章がありました。【法事に参画を】と説かれた所にです。

 法事は、主催者である施主とその家族が中心となって準備をし、
営まれるわけですが、同時に、案内を受けて参拝する人たちも
法事を営む一員であることを心得ていただきたいものです。

 なぜこんなことを言うかといえば、「法事はもっぱら施主が勤め、
我々がそこに招待された者だ」という意識が、参拝者の中にあるように
思えるからです。

 すなわち、施主が招待する側で、参拝者は招待された“ 客 ”である
というふうに対照的に捉えがちなのです。
しかし、法事の趣旨からいうと、それは間違いです。
法事は 故人に縁ある人たちが参集して、僧侶を招き、ともに
仏法を聞き味わうところに意義があります。
ですから、施主も、参拝した人たちも同じ立場にあるわけで、
法事に集まったすべての人々が、法事を営む一員だということです。

 もっとも、具体的に形に表れる準備や進行は、施主やその家族が
行うことになりますので、参拝者は側面から協力することになります。
たとえば、親の年忌法要であれば、子である施主の兄弟で費用を
分担してもよいでしょうし、参拝者全員に配る「お供養」の品を
負担しあったりしてもよいでしょう。 (略)

 参拝者が、当日お備えするものとしては、一般的に金封の「御仏前」や、
お菓子、果物といった供物類があります。
「御仏前」が施主へのお礼でないことはいうまでもありません。
報謝の心から仏さまにお供えするものであり、供物類も同様です。
いずれにしても、参拝者も積極的に法事に参画してください。

 【法事の意味】の項目では 

 法事は、仏事ともいいます。意味するところは、縁ある人々が集まって
ともに仏さまを敬い、その教えを聞き、僧侶を迎えて、仏道を
実践していく行事のことです。
浄土真宗でいえば、阿弥陀仏を敬い讃えて、その本願のはたらきである
お念仏のいわれを聞き、お念仏の人生を歩むことを確認し合う集い、
といえましょうか。 (略)

 ところで、この法事、亡き人をご縁に務めることから、「亡き人のために」
行うものと思われがちです。
いわゆる「追善供養」です。すなわち、亡き人のために私たちが法事を行って
善を積み、その功績を亡き人に振り向けて、少しでも良い世界に生まれて
もらおうという考え方です。

 しかし、浄土真宗の味わいでは、亡き人は阿弥陀仏の救いによって
すでに 浄土に生まれ、仏さまになっておられます。
ということは、こちらから善を振り向ける必要はないのです。
法事はあくまで、参拝者一人ひとりの「私のために」催される
仏教行事なのです。

 仏さまとなられた亡き人を偲ぶ時、亡き人は私たちに
「いつでもどこでも、どんなことがあっても、けっして
見放されない阿弥陀さまを依りどころにして、たくましく人生を
歩んでくれ、そして、私のいる浄土に生まれて、再び会おうよ」と
願われていることでしょう。
その願いを聞くのが年忌法要の大切な点です。・・・

  とあります。




すれ違い 行き違い

2023-04-12 17:30:44 | 日記
 門徒推進員養成の連続研修会を開いていますが、その研修の中心は
一つのテーマを元に話し合う、話し合い法座です。
ところが、受講者の発言を聞いていると、時々話がすれ違うことがあります。

 どうしてだろうかと思い、考えると、浄土真宗へのご縁の違いに
ありそうです。
私たちは この世の中で生きています。
この世間で、この世の中で、豊かな生活を求めて悪戦苦闘しています。
そして、この世の中が全ての世界だと思って生活しています。

 ところが、お釈迦様は この世では解決できない問題がある。
老病死をはじめとして、どうしても人間の力では
解決出来ない問題がある。
それをなんとか解決したいと、世間を出て、出家して、
厳しい修行を積み、悟りを開かれました。

 ですから、仏教は、この世の論理ではない、世間を超えた
世間の価値観とは まったく違う考え方の教えなのです。

 その仏教も、お釈迦様のように努力することよって、煩悩をコントロールして、
人間の力で 安心を得るものだというイメージが強いものです。

 ところが、今から800年程前、鎌倉時代に、法然聖人の教えを受けた
親鸞聖人は、人間の力を頼りにしていては、落ちこぼれが出る。
これではすべての人が救われることはない。
人間の努力だけではなく、仏さまが先に、すべての人を
救おうとはたらいておられるという教えが、説かれていることに気づかれ、
他力の 仏さまのはたらきの、南無阿弥陀仏のお念仏によって
すべての人が、必ずお浄土へ往生して 仏になれる教えがあると、確信して
勧めていただきました。

 ところが、これは、現代人には なかなか理解出来ない考え方です。
努力することが素晴らしく、頑張れ頑張れ、成せば成ると育ってきた
現代人には、なかなか理解出来ない教えです。

 話し合い法座に参加された方が、どの位置で、発言されているのか。
世間の価値観で、この世がすべてとの考えの方、
仏教は 自分の力で努力しなければならないと、受験生のような考えの方、
そして、よくお聴聞されて、他力のお念仏、仏さまのはたらき、仏さまの
願いがあることに出会われた方、こうした三つの立場の違いがあり、
話がかみ合わないことがあるのではないかと、感じました。

 仏教は 世間の論理を超えた価値観であり、その仏教にも
人間の力、努力がすべてであるという、聖道門の仏教もあり、
もう一つは、親鸞聖人が勧めていただく、我々よりも前に、私のために
仏さまが、はたらき呼びかけていただいている、南無阿弥陀仏の
お念仏の教えがあることを、もう一度 整理し見つめ直してみると、
話の行き違いが 少なくなるのではないかと、感じています。



信心よろこぶ そのひとを

2023-04-05 13:39:19 | 日記
本願力にあひぬれば  むなしくすぐるひとぞなき
 功徳の宝海(ほうかい)みちみちて
  煩悩の濁水(じょくすい)へだてなし(『註釈版聖典』五八〇頁)

 阿弥陀如来は いつも私に呼びかけ はたらきかけておられると
気付かされた人は むなしい人生で終わることはありませんよ。
煩悩一杯のこの私に 南無阿弥陀仏の功徳が満ち満ちて 
仏さまの仲間としての生きがいある 人生を送ることができるのです。

 親鸞聖人が お読みいただいたご和讚ですが、
お念仏の教えに出会うことが出来ると どうして
むなしい人生ではなくなるのか、
南無阿弥陀仏の功徳は いつどのように この身に
入る込んでくるのだろうかなどと
科学的な思考をする私たちは ついつい疑問に思ってしまいます。

 お釈迦さまは 「一切衆生悉有仏性」 すべての生きものには
仏になる種 仏になる性質 能力、 その種が宿っていると説かれています。
親鸞聖人も ご和讚に 

  信心よろこぶ そのひとを 如来とひとしと ときたまふ
   大信心は 仏性なり  仏性すなはち 如来なり  と 

 味わっておられます。

 阿弥陀さまは すべてのものを もらさず救おうとの願いを樹て
自分で厳しい修行をして、今から十劫前に仏となって 
はたらき続けておられる。
いつでもどこでも 絶えず はたらいておられる、それは、
私の外側からだけではなく
すべての生き物の中に、私の中でも はたらき つづけておられると
いうことなのでしょう。

 それなのに 私たちは それに気づかず 自分中心で 
一喜一憂しながら生きています。
赤ちゃんを見ていると 自分と他人との区別がなく、大事なものでも 
素直に相手に手渡すことができています。
しかし、少し知恵がつくと、これは私のものだと、おもちゃの
奪い合いが始まります。

 私たちは 学校教育を何年も受けてきて、競争心が芽生え
努力すると成果があがることを知り、損か得か 勝ちか負けか
という感情が膨らんで 損得勘定を基準に、生きています。

 ところが、この私のことを 一人子のように心配し、
なんとか喜び多い 生きがいある 人生を送らせ
やがては お浄土に生まれさせ 仏にしたいという阿弥陀さまの
願い はたらきを聞かせていただくことによって、 私の中にある仏性、
仏になる性質を持っていることに気づかされ、今までと生き方が
少しずつ変えられてくるのです。

 煩悩一杯の私のままで、仏さまになれるような能力が 開発されていき
それによって、ものの見方や行動が変わり、 私の人生は、
大きく違ってくるのです。

 お聴聞を勧めるのは、仏様の話を聞くことで、私のために はたらきかける
大きな力があることを、この真実を知らされ、気づかされて、
自分の進むべき方向 目標 生き方が 変えられていくのだと思います。

 両親や祖父母、多くの祖先たちが、阿弥陀さまと一緒になって
このお念仏の教えに遇い、南無阿弥陀仏を口にする生活をしてほしいと
期待して はたらき続けていらっしゃるのでしょう。

 やがては私も仏となって、子や孫だけでなく、多くの人々の幸せになる方法を
呼びかけ続けていくことができる。
死んだら終わりの人生ではなく、まだまだ 仏さまになって活躍できる未来がある、
明るい喜び多い人生を受け取ることになるのです。

 私の中の煩悩に支配され、わがままな自己中心的に生きていくのか。
それとも 阿弥陀さまの仲間として、生きがいある喜び多い
明るい未来を味わえる人生に、気づかせていただくのか。

 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏を口にして 耳に聞くたびに、
有り難い人生であることを 味わい感謝の毎日を送らせていただきたいものです。