私も 一言 投稿用 (こんな話を聞きました)。

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浄土真宗の味わい 電話法話の原稿 みなさんの一言

しあわせ 幸せ 仕合わせ

2023-07-25 14:22:46 | 日記
 私たちは「しあわせ」を 追い求めて、生きています。
その「しあわせ」を「幸せ」と書くことが多いものですが、
ひと昔前までの辞典は「仕合わせ」と 表記されていました。                
「幸せ」の「幸」とは「山の幸・海の幸」の 恵みを意味します。
人間は その山や 海の恵みを 有り難い 恵みと受け取ることが出来ず、 
思いのままに乱獲し、乱開発してきました。

 「幸 多かれと・・ 」の「幸」も「恵み」の意味でしたが、
今では、人間の「望み(欲望)」の延長線上にあるものと受けとられています。 
「幸」には「恵み」以外に、「こいねがふ」という 欲望の意味や 
「むさぼる」をも 意味します。 
「むさぼる」とは、三毒の煩悩の一つである「貪欲(とんよく)」で、
「足ることを 知らない」ということです。  
そんな私たちが「しあわせ」を 望んだとしても、むさぼり続けるだけで、 
いつも満たされず、不平・不満ばかりを いいながら生きています。
自分の思い通りにならず「愚癡(ぐち)」を こぼし、
「憤り( 瞋恚・しんに)」を 感じるしかありません。  
そんな私たちに、本当の「しあわせ」は あるのでしょうか。

 一方、「仕え合う」と書いて「しあわせ」は、お互いが 相手や
周りのために 仕え合うことを「仕合せ」と言うのです。
欲しい 物が 手に入り、自分の思い通りになることに満足するのでなく、
信頼している人に 喜んでもらえることを「仕合せ」だというのです。
作家の司馬遼太郎氏によれば、「仕合せ」の「仕」は「ある人に
つかえること」だそうです。

 自らの生命をかけて  仕えるべきものに出会うことです。
生きている中で、辛いこと・苦しいことなどが あったとしても、
自分の「めぐりあわせ」言いかえれば 不思議な「出会い」が 
ぴったり合う因縁を「仕合せ」というのです。

 私たちは、人間として この世に命を恵まれました。
しかし、生まれてきたことを当然のこととして、また、恵みを恵みとして
受けとめていない 私がいます。 
そうして、命の営みの中で、多くの恵みや 出合いがあるのに
まったく気づかず、生かされている「しあわせ」も 生きている慶びも
味わえないままでいます。

 親鸞聖人は、法然聖人と出会えたこと、そして阿弥陀如来のご本願に
出合えたことを「仕合せ」だったと慶ばれています。
親鸞聖人の生涯は、決して幸せであったとは言えないものです。 
幼い頃 両親を亡くされ、念仏禁止令で遠く越後に流罪になり、
晩年は、ご長男の善鸞さまを 義絶せねばならないなど、苦難の連続でした。
しかし、親鸞聖人は その不幸を 嘆くのではなく、お念仏とともに
慶びをもって力強く生き抜かれました。 

 それは 法然聖人と巡り会えたこと、そして何と言って
阿弥陀仏のご本願に遇うことができ、人間として生まれてきた
不思議と、慶びを味わうことが出来て、とても仕合せだったのだと思います。
それが、教行信証の総序に「ああ、弘誓の強縁、多生にも値ひがたく、
真実の浄信、億劫にも獲がたし。たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。」
という言葉として 表れているのだろうと味わえます。

 お念仏の教えに遇うことが出来れば、当たり前なこと、平凡なものが、
不思議で有り難く、しあわせに感じられるようになることを、
教えていただいています。

 

仏教のことば

2023-07-18 13:30:54 | 日記
 コンピュータを開くと いろいろな情報が入ってきます。
浄土真宗本願寺派(西本願寺)総合研究所から
「仏教のことば」も、定期的に 送られてきています。

 その中に こんな言葉がありました。

 お説教というのは、私を中心にした世俗の領域から如来を中心とした
聖なる領域へと、人びとの心を転換させることでしょう。
                 (梯實圓『平等への視座』P132)

 私たちは 人間中心の損得勘定の生活をしていますが、
そうした価値観だけではなく、仏さまの価値観があることに 気づかせ
そして、現実を正しく見る力を得らさせようと いうはたらきなのでしょう。


また、 こんな【仏教のことば】もありました。

 仏さまの教えによって、新しい心の視野を開いていただくことを、
お救いにあずかるというのです。
                  (梯實圓『仏の願いに遇う』P52)

という言葉もありました。

こんな【仏教のことば】
   話を聞くということは、こちらがものを考えておったら、聞えません。
  こちらを空っぽにし、素直に向うのいうことを受取ることであります。
              (桐溪順忍『他力ということ』P27)

また、

  私の手のつけようのないような広大な世界に、私は
つつまれているのだなということが味わえてくるようになりますと、
わからないというわかり方がわかってきます。
                 (梯實圓『仏の願いに遇う』P37)

私たちは 目の前の現実に目を奪われ、一喜一憂しながら
生きています。
仏教の教えに出会うことで、その悩み苦しみが少しは違って見え、
感じられてくるものです。
そうした 仏教の教えがあることを 先輩たちは 南無阿弥陀仏
南無阿弥陀仏と口にして聞く、お念仏の教えとして 
私たちに残してくださっているのです。



 

仕合わせな人生を

2023-07-13 08:04:15 | 日記
 今でこそ どこの家にも空調が備わっていますが、
30年ほど前までは 扇風機と団扇の時代でした。
お盆のお参りなど、勤行する私の後ろで、ずうっと団扇で
あおいでくださっていたおばちゃんがあったものです。

 それから、しばらくして 冷房だけのエアコンが
付けられるようになりました。
ある冬 寒い朝の月忌参り、玄関で声をかけると、
さっさと二階の仏間に上がってお勤めを開始
慌てて奥さんが飛んで来てエアコンを付けてくださいます。

 ご自分の部屋は、冷暖房のついた空調でしょうが、
仏間は冷房だけの古いタイプ、「もうちょっと待ってくださいね。
もうすぐですから」と、言い訳しながら、リモコンを持ち、
空調の風に手をあてて ゴメンナサイねと声をかけられます。

 この部屋は冷房しかないことを知っている私は、
エアコンを止めてくださいと、手で合図しながらお勤めを続けます。
冷気が真横から いきよいよく吹きつけます。
時間がたつに従って、ますます冷え込んで来ますが
お勤めを止めて、冷房を断る訳にもいかず、
冷凍室のような極寒の中でのお勤めでした。

 お勤めが終わり、ありがとうございます。
ここは 冷房しかないようですからと、断ると
アーそうでしたねと、慌てて、石油ストーブを 運んでくださいました。

その奥さんが、先日97歳でご往生になりました。
家業を手伝いで早朝3時からの働きづめのお母さんでした。
お姑さんが厳しい方でしたから、ご苦労も多かったでしょうが、
これが自分に与えられた仕事と、腰が曲がった姿で
にこにこしながら、はたらいておられた様子を思い出します。

 都合のよいことも、不都合なことでも自分のやれることを
精一杯勤めさせていただく、それが仕合わせであると、
教えていただいたよな、有り難いお念仏の方でした。
こうした有り難い方が 一人また一人お浄土へと生まれて行かれます。

 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏のお念仏を聞くとき、あの方々が
阿弥陀さまと一緒に 呼びかけていただいていると、
味わい 私もこの世の勤めを、自分で出来ることを
にこにこしながら精一杯、果たしていきたいと思います。


 

きく・菊・聴く・聞く

2023-07-05 10:53:28 | 日記
 幾たびか お手間かかりし 菊の花
   加賀の千代女の俳句とも言われています。

 菊つくりというのはなかなか手間のかかる作業らしいです。
大輪の菊を一本仕立て、三本仕立て、断崖仕立てなどの鉢に
育てるまでには大変な苦労がかかるようです。

春先から、挿し芽をし、苗を育て、ある程度の大きさになったら、
鉢に植え替える。
鉢を植え替える前には、土作り。川砂、腐葉土、赤玉土などを混ぜ、
どの肥料も入れるのか・・・・

2週間ほどなじませ、その後、鉢の下に網をしき、・・・・・
水やり、施肥、わき芽摘みなど、花を咲かせるまでには、こうして
かなりの時間と手間がかかるのです。

  幾たびか お手間かかりし 菊の花

の俳句の中には、菊つくりの手間ひまにかけて、私たちの今の仏縁を
いただくまでの手間ひまを込めて詠んでおられるのです。
「菊」は私たちが阿弥陀さまのご本願を「聞かせていただく」身に
お育てをいただいた、その「聞く」に通じるものです。

そして「花」はその聞かせていただくことによって阿弥陀さまの
お慈悲に気付かせていただくことができたよろこび、すなわち
「信心の花」を咲かせさせていただくことができたよろこびを
表していると味わうことができます。

「きく」という漢字もいろいろありますが、代表的なものは
3種類あります。「聞く」と「聴く」と「訊く」です。
『聞く』は、音・声を耳で感じとる。耳に感じて、知る。
という意味で、「鳥の鳴き声を聞く」「話し声を聞く」「うわさを聞く」
というように使われます。

『聴く』は、耳を傾け、注意して聞き取る。という意味で、
「ラジオ講座を聴く」「講義を聴く」「名曲を聴く」と
いうように使われます。
『訊く』は、たずねて、答えを求める。問う。相手に質問する。
という意味で、「訊問(じんもん)する」というように使われます。

 親鸞聖人が「教行信証」に書かれている「きく」は「聞」です。
「聞即信」「聞というは、衆生仏願の生起本末を聞きて
  疑心あることなし。これを聞と言うなり」と示されます。

 私たちの五感(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)のうち最初に
身につく感覚は「聴覚」と言われています。
お母さんのお腹にいる時からお母さんから呼びかけられている
「声」を聴くとはなしに聞いて、生まれてからも
「あなたのお母さんよ」と呼びかけられている声を
聞いて育っていくのです。

物心ついて、こちらから真剣に物事を把握しようと
耳を傾けて一生懸命に聴いていきます。
そして、学びを深め人生の幅が広がって行きます。
しかし人生50年ないし100年の間に学び尽くすことは不可能です。
そして、いのちの最後のぎりぎりまで残る感覚も「聴覚」と
いわれています。

阿弥陀さまのお慈悲に出遇うこともよく似ています。
はるか昔から、阿弥陀さまに「南無阿弥陀仏」
(あなたの真実の慈悲の親は阿弥陀であるよ。)と、
呼び続けていただいたのであります。

有る時、仏縁をいただいて「南無阿弥陀仏」とはいったい
なんだろうと疑問に思った時に、こちらから仏法を聴く
(求めていく)ご縁をいただくのです。
その聴聞のご縁の中で、私の方が聴きに行っていたのでは
なかった。阿弥陀さまから呼びづめに呼ばれていたのだと
(聞かされていたのであったと気付かされる)お慈悲の
大きさを知らされるのです。

阿弥陀さまの「呼び声」は、耳に聞こえる聴覚だけでなく
「こころ」の底の底まで、響いて下さる救いの響きなのです。

    淨教寺さま ホームページより 奈良県奈良市