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浄土真宗の味わい 電話法話の原稿 みなさんの一言

朝のどまんなかに ~生かされていた ~

2022-10-26 13:15:13 | 日記

北御堂 大阪の津村別院のホームページの 「法語を味わう」に
こんな法話がありました。 (2022年10月)

まっさらな
朝のどまんなかに
生きていた
いや
生かされていた   (東井義雄師)

 東井義雄師の「目がさめてみたら」という詩の最後の一節です。
皆さんは「目がさめてみたら生きていた」ことに驚きや感動を
持ったことがありますか?

 生きていることが「当たり前」と思っている私たち。
そうした私たちに仏さまは「当たり前ではない、
多くのご縁によって生かされている」ことを教えてくださいます。

 この詩の最後は「生きていた いや 生かされていた」と
結ばれています。
新しい朝を迎え、今日も「目を覚ますことができた」
「生かされていた」という感動が伝わってきます。
「当たり前」と思っていたことが、「当たり前ではなかった」
という気付きです。

 昔、テレビで活躍をされたある司会者の方は、
「朝が来た 新しい朝が来た 自分のための新しい朝だ」
という言葉を大切にされていたそうです。
これは仕事で悩んでいた時に、お父様から送られた言葉だそうです。

「今日もまた新しい朝が来た。お前のために朝が来たんだから
粗末にするんじゃないぞ。」

 朝目が覚めたら生きていたという不思議。
もしかしたら目がさめなかったかもしれない。
その「いのち」が今日もまた、生かされていたという感動。
その不思議と感動を深く味わうところに、
また今日も新しい朝が来た、力強く精一杯に
歩んで行こうという喜びが湧いてくるのではないでしょうか。

 


しあわせな人生  ~お念仏に遇えた人~

2022-10-14 10:24:22 | 日記

ネットのご法話で、こんな話を聞きました。

いろいろと多くの人にお会いし、いろんな方の人生をみさせてもらいますが、
なかなか この人は しあわせな人生を送っておられるなあという方は
少ないものですよ。

 皆さん方は、自分が しあわせな人生を歩んでいると思えますか。
もういっぺん人生をやり直すことが出来るとしたら、何をしますか。
ちょっと違うことをしたいなあと思いますか。

 それは、今の自分の人生に満足していないと言うことです。
もういっぺん 人生やり直すことが出来るとしても、今とまったく
同じ人生を送りたいなあと、こころから思える人は
しあわせな人生を歩んでいる、送っている人であるといえましょう。

 そして、その しあわせの一番の根幹は 何かというと
お念仏に 出会えたかどうかということに つきる。
お念仏以外のものは みんな壊れていきます。
お念仏だけは ただいまからお浄土の世界まで
壊れることなく、このわたくしを教え導き 育てて
くださっている世界がある。

そういう世界に出会えたといえることが、 私の人生が 
しあわせな人生であったということができるのではないか。

 恩徳讃にある 報謝ということは、如来さまが
成就してくだったお念仏を、そのままにいただいていくこと、
それ以外にないということ。

お念仏を そのままいただいていくこと、それ以外に報謝はない、
仏さまの教えを、お念仏をそのままにいただけたこと、
それこそが、私の人生は しあわせであったといえるのではないか・・
・・・と


 幸せな人というのは、 どういう人なのか。
次に また人間に生まれることができるなら、もう一度
今と同じような人生を送りたいと思える人でしょう。
それは お念仏に出会えた人。

お念仏出会え、そのままいただけた人は
どれひとつ、何一つとして無駄なことはなかった。
みんな意味のある ありがたいことであったと。
この人生が最高であったと思える人に、育てられていくのです。

南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏の人は  私の人生は
有り難い人生だった と思える人 ではないかと味わえます。

 

 


お母さんの写真が

2022-10-05 09:37:49 | 日記

 日曜学校など 子ども会の全国組織 少年連盟のページにあった
子どもさん向けの ご法話です。


 「お母さんの写真が、 笑っているときも泣いているときもある 」
   龍尾 一洋師

 沙紀ちゃんが小学校三年生の時に、お母さんが亡くなりました。
お母さんが亡くなってからは、朝夕必ず仏さまにお参りします。
そしてお母さんの写真に話しかけるのが日課になりました。

あるときお父さんに言いました。
「今日はお母さんの写真が笑ってたよ」
「どうして」
「今日は算数のテストで百点だった。家にかえって
 お母さんの写真を見たら笑ってたよ」

知らない人が聞けば、写真が笑うはずはないと言うかもしれません。
しかし沙紀ちゃんには、自分のことを心配しながら亡くなっていった
お母さんの心が見えていたのです。
お母さんの心の中には、喜んでくださっている自分の姿がありました。

またあるときは、悲しませてしまっていた自分の姿がありました。
お母さんの心は、沙紀ちゃんのことでいっぱいで、いつ思い出しても、
沙紀ちゃんのことを心配してくれて、笑ってくれたり泣いていたり
しているのです。

アミダさまは、私のことを心配してくださって、かならず
仏にしますとおっしゃいます。
いつ思い出しても、忘れているときでも、アミダさまの心は
私のことでいっぱいなのです。
いつでも私と一緒にいてくださるのです。