私も 一言 投稿用 (こんな話を聞きました)。

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浄土真宗の味わい 電話法話の原稿 みなさんの一言

等しく ~すべてのものを~

2023-02-21 10:41:41 | 日記
 お経には「一切衆生 悉有仏性」というお示しがあります。
これはすべてのいのちあるものは、みな仏になる可能性を
持って、生まれてきているという教えであります。

 また、阿弥陀如来様は、「十方衆生」を必ずすくうと誓い、
はたらいて下さっております。
十方というのは、東・西・南・北・北東・北西・南東・南西の
八つに、上下を加えたすべての世界です。
この十方のいのちあるものを、必ず仏にすることができなかったならば、
阿弥陀如来とは名告らないと、誓い、はたらいて下さっているのです。

 ですから、私たちは気付いていなくとも、どんな生き方をしていても、
すべて仏となるべき“いのち”を生きているのであり、願われて
生きているのです。
換言するなら、私たちは、阿弥陀如来様にすくわれるべき“いのち”を、
生きているということができるのです。

 人間に生まれさせていただいた尊さに目覚めるというのは、
このように仏となるべきいのちを生きているということへの、
目ざめ、気付きなのであります。

 大切なことは、この私の“いのち”が願われているだけではなく、
すべての“いのち”が、阿弥陀如来様にすくわれるべく、
今生きているのです。

 ややもすれば、日常の生活の中で、ともすれば“いのち”の尊さ、
如来様のはたらいて下さってある“いのち”であったということを
忘れてしまい、どんなにか“いのち”を粗末に扱っていないでしょうか。

 私が尊い“いのち”、如来様のはたらいて下さってある“いのち”を
生かされていることに気付く時、初めて、すべての“いのち”が等しく、
尊いと気付かされるのであります。

 同じ阿弥陀如来様が、はたらいて下さってある尊い“いのち”でありました。
同じ阿弥陀如来様のお浄土で遇わさせていただく“いのち”でありました
と目覚める、すべての“いのち”への共感もめばえ、
「たがいに敬い、たすけ合う」という人間関係が成立し、
南無阿弥陀仏にいかされる私の人生が展開していきます。

 南無阿弥陀仏のみ光りは、ときもところもこえ、人種や、
肌の色の違いや、家柄・・・・・・、そんなもの、何の関係もなく、
等しく“いのち”を育てて下さってあるのです。

『聞法(1996(平成8)年7月15日発行)』
          (著者 :小林 顯英)より



お浄土への道

2023-02-14 13:46:19 | 日記
 迷いとは、進むべき道を見失っているということです。
よく電話で、「お寺へ行きたいのですが、どの道を行けば
いいのですか、迷っています」と話されています。
進むべき道がはっきりすれば、生きる方向が定まります。

 私たちの人生、どの道を歩むことが、悔いなく
力強く歩める道でしょうか。
仏教は、生死(迷い)をこえていく道を教えていますが、
仏教の中でもさまざまな道があります。
どの道が私にふさわしい道かを知るには、
私の現在地を知ることが必要です。

 「進むべき道がわかりません。迷っています」という方に、
私は「現在地はどこですか」を聞き返します。
現在地がわかれば進むべき道を指示することができるからです。

  仏法を聞くとは、阿弥陀さまの光に照らされ私自身の姿、
即ち現在地が明らかになると同時に、阿弥陀さまが、
私たちの進むべき道を指示してくださっていることが
明らかになるのです。

 私は安心して迷える道、安心して
間違えてもいい人生の道を進みたいです。
迷ったらいけない、間違ったらいけないと
力んで生きる道はとてもしんどいし、疲れて長つづきしません。
また自分の思い通りにならなくても悔いなく生き、
私がこの人生に生まれて良かったと心から思える
人生の道を歩みたいです。

 二河白道の譬に、限りなき煩悩によって
苦しんでいる旅人が、前にも進むことができず、
後ろにも下がることができず、またとどまることも
できない状態の中で、お釈迦さまが
「汝ただ決定してこの道を尋ねて行け」と示され、
阿弥陀さまが「汝一心正念にして直ちに来たれ」と
私たちにお浄土への道を歩みなさいとよびかけられています。

このお浄土への道を歩む人は、霊やタタリの迷信に
振り回されることもありませんし、いくら私が間違っても、
間違うことのない阿弥陀さまが私の生きる依りどころと
なってくださっているから安心です。

「この道より我を生かす道なし」です。
どうか皆さまと共にこのお浄土への道を歩みたいものです。

『聞法(1993(平成5)年7月15日発行)』
   (著者 : 不死川 浄師)より

 

はたらき続ける仏さま

2023-02-14 13:44:23 | 日記
 車でお参りしている途中、 サイレンを鳴らした 救急車、消防車
パトカー。 血液センターや 電気やガス会社の車と よく出会うことがあります。
生命に関わる 緊急時。 サイレンを鳴らし救助に 向かっている 緊急車両です。

 ところで 浄土真宗の教えは、 すべての人を必ず救う。
一人残らず救うという。 阿弥陀如来の願い はたらきが 説かれた宗教です。

救急車両の場合は 誰かが電話をして、はじめて、救いに来てくれるものですが、
阿弥陀さまは 電話しなくても 頼まなくても いつでもどこでも誰にでも
平等に 救わずにはおかぬと はたらき続けておられるというのです。

 北原白秋の郷里 柳川地方では 年に一度 子どもたちに地獄絵を見せる
行事があると、昔テレビで見たことがありますが、死んだら終わりと
理解している人が多い現代では、地獄へ行くことや、地獄の苦しみから
救われるというイメージは なかなか持てないものです。

 ことによると、地獄のような苦しみは 将来ではなく死んだあとの話ではなく
今 ここに存在しているのに、医学や経済的な解決だけに頼って、
もうどうしようもないと 諦め落胆してしまっているのが、
現在の多くの人々であるようです。

 仏教は、お念仏の教えは、日常の生活に疲れ、 悩み苦しむ 人々を
頼まなくても呼ばなくても 必ず救おうと、はたらきかけがあるのに
それに気付くこともなく、溺れ苦しんでいる人に
その苦しみの原因が何によるのか、また、その
痛み苦しみ悩みを 和らげ解決する方法を 
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏と 
呼びかけ 教えておられるのです。

 救われるのは、この自分であると気づいたとき、
南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏の呼びかけは、自分を救いに
救急サイレンの音が 近づいてきた時のように、
ほっとし 安心感が得られるのです。

 仏さまの教えに出会い、南無阿弥陀仏の呼びかけの意味を 
仏さまの願いを聞き 味わうことが出来れば
生きがいや 喜びが与えられ 私のこころと体に 
大きな変化が起こってくるのです。