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浄土真宗の味わい 電話法話の原稿 みなさんの一言

仏さまになって ~おばあちゃんの願い~

2022-07-26 15:07:26 | 日記

  いつも町内を散歩しておられたおばあちゃんが、往生されました。
小学生のかわいい男のひ孫さんがいつも 一緒でしたが、
高齢になると看護師さんだったというお嬢さんと、ゆっくりゆっくり
近くの道を毎日、毎日歩いておられました。

体だけ丈夫ではだめで、頭もしっかりしていなければと、
子どもさん用の計算ドリルや 漢字ドリル等に毎日挑戦されて
いると、噂で聞いていました。

 毎月一回、お寺では勉強会、お念仏の教えを学ぶ会を開いて
いましたが、毎回出席され、みなさんと楽しくお茶の時間を
過ごされていました。
健康で長寿でありたい、そんなみなさんの憧れであり、
目標でもあった方でした。

 その勉強会の出席簿を見ると、154回まで、○印が
付いていました。
103歳だったということですが、最後まで自宅で
介護されました。
枕経に伺った時には ことによるとご門徒で
最高齢かもしれませんと、お嬢さんやお孫さんたちに
話して帰ってきました。

 お寺の過去帳を、マイクロソフトのエクセルに
整理して打ち込んでいます。
親子や兄弟、親戚など、関係する方の法名や命日を
調べるには、 とても便利で、すぐに探し出せます。

その過去帳で、年齢欄を中心に、並び替えをしましたら、
数えで106歳の方が お二人、105歳の方がお一人おられ、
1000人あまりの方々で、このおばあちゃんは 
4番目の長寿でした。

そして数え歳100歳以上の方が なんと12人もおられ、
そのお名前を 見ていると、ほとんどの方が、お寺の法座で
よくお顔を拝見する方々でした。

 お通夜の席では、沢山のお孫さんたちと、おばあちゃんも
お勤めされていた正信偈を、一緒にお勤めをしましたが、
その経本の表紙には、浄土真宗と書かれています。

科学的な頭の現代人は、人間をはじめ生き物は、いのちが終われば
すべて終わりと理解していますが、お念仏の人は
お浄土に生まれ、阿弥陀さまと一緒になって、はたらく
仏さまになるのだと、お話を繰り返し聞いていただいた方でした。

ですから、私たちを導く南無阿弥陀仏の仏さまとなって、
今もう ここに働いていただいているのだとお話しました。

 元気な時のおばあちゃんは、可愛いみなさんが、
生きがいをもって みんなと仲良く、頑張っている
そんな姿をみるのが 一番の喜びだったのでは、ないでしょうか。

そして、仏さまになられた今も、お孫さんたちが、みんなに支えられ
喜び多い人生を送っていただくことが 一番喜んでいただける
ことだと思います。

どうか、南無阿弥陀仏を口にして、思う存分生き抜いてください。
南無阿弥陀仏の仏さまとなったおばあちゃんは、今、ここに、身近に
はたらきかけ、呼びかけ、応援していただいていると味わいます。
・・・・と・・・・ 。

 

 


半眼 ~内側も見る~

2022-07-20 15:48:54 | 日記

 今回も 子どもに聞かせたい法話 
~ 心に響く 三分間法話 ~ (法蔵館発行)からです。

 皆さんは片目をつむって片足でどれくらい立っていられますか。
けっこう難しいものです。
片目は両目の半分ですが、もう一つ半分の目があります。
仏さまの「半眼」です。

 京都・広隆寺の弥勒菩薩を写真などで見たことのある人は
知っているでしょうが、皆さんのお寺やお仏壇の仏さまの両眼を
よくごらんなさい。
どちらも半分しか開いていないでしょう。

 それには訳があります。
半分は外の世界、人間の苦しみ悩んでいる姿を見ておられ、
あと半分の眼で人々を助けるにはどうしたらよいかと 
わが内を見ておられるのです。
半分は外を見、半分は内を見る、これが仏さまの半眼です。

 ところが、人間はふつう外ばかり見ています。
たしかに外もしっかり見ないといけません。
信号などとくにそうです、交通事故になりますから。
それに他人のこともよく見るでしょう。
人がずるいこと、悪いことなどをしたら、すぐに見つけて攻撃します。

 しかし、自分のこと、自分の心の内はどうでしょう。
自分にも悪い心がありますが、それをどれほど見ているでしょう。
自分の内側はあたりまえにしていて、ほとんど中を
見ていないのではないでしょうか。

 やはり仏さまのように、外も内もしっかり
見ることのできる子どもになりましょう。
それには朝晩、仏さまにお参りをすること、そして仏さまのお顔、
半眼をよく拝み、「なもあみだぶつ」と称えることです。
きっと半眼のお心がわかるでしょう。

 というのは、「あみだぶつ」というのは
「ひかりといのちきわみなき仏」という意味ですから、
その「光」をいただく(「なも」する)のが、
内を見ることになるからです。
                 藤枝宏壽師著

 

 


サラダ記念日 

2022-07-13 12:14:33 | 日記

「この味がいいね」と君が言ったから 
 七月六日はサラダ記念日
  (俵万智さんの歌集『サラダ記念日』より)を思い出します。

 ちょうどこの本が出版されたころ、東京から福岡へと転勤しました。
各専門部門から代表を出している百数十人もいる大きな組織でしたが、
人事異動の時には 大会議室で、担当役員を中心に、
お別れ会を開いていました。

私のセクションは 広島に帰る人と二人でしたが、代表が一言づつ
挨拶する決まりでした。その時 こんな挨拶をしました。

「いま話題は 衛星放送で 100万台すでに突破したようです。
 もう一つ、サラダ記念日という本が、これも100万部突破したようです。

 この本の中に、こんな詩がありました。
  上り下りのエスカレーター 
    すれ違う一瞬 君に会えてよかった

   上り下りのエスカレーター
    すれ違う一瞬 君に会えてよかった

 という詩がありました。 みなさん どうも、
  有り難うございました。」

  予想外の大拍手でした。

  次の方々が 挨拶しずらかったようですが、
  立食の時には 多くの人が声をかけてくれました。
  君とは 自分のことかと 別れるにも、心地良かったのかしれません。

  多くの言葉よりも 短い言葉で 表現される強さを感じたものです。

南無阿弥陀仏は 短い言葉で 君のことを第一に考え 見守っているよ
大丈夫 大丈夫 自分でやれることを やればそれで良いのだよ
心配しなくて良い、私利私欲ではなく必要と思って行動したのだから
失敗なんかない、君がガンバッタことは 知っている。
今は思い通りの結果は出ていなくても、やがて君の思いは実現する
大丈夫 大丈夫 南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

一人漏らさず 救うから 大丈夫 大丈夫 出来ることしなさい。
南無阿弥陀仏でいいんだよ、こう呼びかけていただいているのです。









命の代表選手

2022-07-06 20:00:16 | 日記

「 仏の子を 育てる会 」という福井の浄土真宗寺院の
住職さんや坊守さんが 福井新聞の宗教コラムに書かれたものを まとめた
子どもに聞かせたい法話 ~ 心に響く 三分間法話 ~ (法蔵館発行)
 その中に 「命の代表選手」という 文章がありました。

 自分の「命」のことを 少し考えてみましょう。
私たちは今、生きています。
生きているということは、命があるということです。

それでは この命は、誰からもらったのでしょう。
そう、お父さん・お母さんからいただいた命なのです。
でもそのお父さんやお母さんにもそれぞれ両親の命がありました。

私たちからいうと、四人のお爺ちゃん・お婆ちゃんの命です。
そのお爺ちゃん・お婆ちゃんにも、それぞれ両親の命がありました。
つまり私たちからいうと、八人の大爺ちゃん・大婆ちゃんの命が
あったわけです。

こんなことを計算機で 二十八回繰り返すと、私一人の命の
誕生のために、一億三千四百万人をはるかに超える
祖先の人たちの命が必要だったことになります。
なんと、現在の日本の人口に近い数です。

 いやいや、これだけで驚いてはいけません。
私たちは今日まで、無数の命を食べてきました。
米・野菜・果物・卵・魚・肉、みんな動・植物の命なのです。

しかも私が食べた命だけが、私の命になっているのではありません。
両親・お爺ちゃん・お婆ちゃんはもちろん、無数の祖先が
食べた無数の命までもが、私の誕生のために必要な命だったのです。

 こんなことを考えると、私の命は私だけのものではなく、
私は無数・無限・無尽の「命の代表選手」として、
人生というトラックを走っているのです。頑張らなければなりません。

 もちろん、人をいじめるなど、絶対ダメです。
その子も「命の代表選手」なのですから。
                      (安野龍城師)