龍の御歳後:徒然の記

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小学生時代の思い出

2024-04-04 21:47:50 | 日記
昔の田舎では、教師、坊さん、警察官は名士であった。多分、中学までの先生は大半が北海道教育大学卒でしょうね。子供の頃は考えたことも無いが。

幼稚園:お寺の坊さん。御贔屓の子供一家があって、当方は目を付けられて何回も帰りに残された。
小学1年:タテイシ先生。町の中心から外れた、漁港近くの私の家の近くの鉄工所のお嬢さん。家庭訪問もあったように思うが、うっすらと顔を覚えているものの、可なり大人しい方だったのであとはほとんど覚えていない。
2年:クロサワ先生。結構、元気な真面目な女性であった。当方、ADHDの気質があり、授業中も可なりうるさく、今でいう、先生が切れて、保健室に行って口に絆創膏を張ってもらうように命令された。保健師さんに絆創膏を張ってもらい、廊下でバケツを持って立たされた。でも、病気になった時は優しくしてもらった。
3年:キヤ先生。美術が得意。外で寺門の水彩画を描く授業があった。美術の評価は3であった。(私への評価は絶対評価であったらしい)先生の水彩画はサラッとした素敵ではあったが、他のクラスのミナズキ君とクドウさんのは子供の目からみても重厚な凄い絵であった。ミナズキ君はあまり売れてはいなが、プロの今でいうグラフィックデザイナーになった。
4年:ササキ先生。3年の時に担任だった子供たちがお気に入りで、我らのクラスは相手にされず、全く記憶に残っていない。
5、6年:ナガハマタカヒロ先生。日教組系の先生だったが、政治色なく誠に公平な立派な方であった。共産系なので、全科目絶対評価。体育の評価などは50名弱のクラスで、5評価は1名のみ。我は全科中5が半分。これは極めて正しく、中学では全て5になったが、2流高校への進学にもかかわらず5は7割くらいにしかならなかったので、ナガハマ先生の評価は的確であった。教師としては高校を通しても最も立派な方であったと思っている。理想高く、数年後に教壇を離れ、日教組の組織に移動した。今になって考えると、先生に取って、賢明な選択では無かったように思われる。

歳を取っても、子供の頃の思い出は比較的鮮明に残っているものである。

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