龍の御歳後:徒然の記

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思い出の田舎で出会った先生たちへ!

2015-12-11 23:55:28 | 日記
思い出せるかなー、50年は経っているから。

小学校1年 立(?)石先生 田舎町の特に僻地の同地域に住んでいた先生。大人しい女性。まったく話をした記憶がない。うるさい生徒だったろうから、あまり好かれてなかったと思う。
2年 黒澤先生。元気の良い先生でした。あまりに私がうるさく、授業中におしゃべりするため、頭に来たらしく、保健室に行って、口に×の絆創膏を張ってくるように言われました。そのあとは、廊下で立たされ坊主。結構好きでしたけどね。
3年 忘れた、さっきまで覚えていたのですけどねー。美術が選考だったらしい。写生に行くと、確かにうまかった。子供心に。少し気取っていて、歩くときあまり膝関節を曲げない人だと記憶しています。確か、美術の評価は3を付けてくれま
した。
4年 佐々木先生。 われらのクラスが大嫌い。3年の時受け持ったクラスに思いをはせて、まったくわれらのクラスを無視していました。
5,6年 長浜先生。日教組の先生でした。非常に立派な先生でした。この時代、学校の成績は相対評価でしたが、この先生は信念を持って絶対評価をしていました。40-50人クラスだったと思いますが、体育で5は一人だけでした。私は当然5なんかもらえませんでしたが。
国語(5)、算数(5)、理科(5)、社会(5)、美術(4)、音楽(5)、家庭科(5)、体育(4)だったかなー。
随分長い間手紙のやり取りをしていました。義理を欠くのが当たり前の私としては、かなり長続きした尊敬すべき方と思います。そう長浜先生、貴方の評価を肝に銘じていれば、こんなに無理した人生を歩まなかったかも知れません。

中学1年 左京先生。つまらんことで厳しかったけど。教育者としては疑問符の付く方でした。生活指導欄に、生意気とかかれました。もう少し表現方があるだろうし(国語が専門なんだから)、それを現実的に伸ばしてやるのが教師だろう、
とその時思いました。片親でしたから、おやじが笑いながら話していました。
2年 記憶なし。木村先生だったかなー。高田先生だったかなー。
3年 高田先生。熱い人でしたが、生徒の実力をきちんと評価できなかったなー。
相対評価でしたから、田舎中学ではオール5です。私立高校の受験対策は0でしたから、バタバタ受験に落ちて大変傷つきました。さらに、公立高校は、都会の2番目の高校を受験させてくれたりして、その後大学行くのに大変でした。(当時は公立高校は奇問、難問はなかったので、単細胞の頭でも良い成績は取れたのです。)入学時は、1番の進学校の平均値よりは遥かに上の特進クラスでしたが、入学後、まあ勉強しないのですよ。参りました。後々、この馬鹿教師と思いました。
やはり高校選択は大事ですよ。今なら、中学でしょうか。

予備校の教師に知り合いがいます。子供の数は減少していても予備校に来る生徒の数は減っていないそうです。精鋭の数は減らないというところでしょうか。
まあ、私の場合は、大学浪人までは、予備校とは無縁の生活を送っていましたから、よくわかりませんが。