サブロー日記

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草鞋を履いた関東軍  7

2006年12月14日 | Weblog
  草鞋を履いた関東軍   サブロー日記  ○7
 北海道から内原までは長い旅である。青森の駅前で買った赤いリンゴが網棚の上に、あちこちと見える。この食糧難の時代、さすがリンゴの国、青森であった。
長い旅の疲れも、武蔵野の面影を残す小楢の林を見ると、もうそこは茨城県東茨城郡下中妻村内原である。この年を越すと我が隊も憧れの満州へ行ける。この春、同時に入隊した各県の中隊は殆んど渡満していた。推進隊のおっさん達も少なくなっており、広い弥栄広場も静かなたたずまい。ただ警備本部と防火班の訓練が何とか活気を保っている。
12月に入ると、また所外訓練の命が出た。今度は千葉県潮来町の干拓作業である。野口雨情の「船頭小唄」で、有名な潮来出島である。終日近くの霞ヶ浦航空隊の練習機が飛び交っていた。
作業は湿原を開墾し、排水溝を作るものであった。休日の一日、を利用し、数キロ離れた鹿島神宮への行軍があった。参道に剣豪、新当流開祖、塚原卜伝の祠があり、こんな所に?と思った。 作業も慣れてきた或る朝のこと、小さな事件が起きた。
 「各小隊全員集合終わりました!」わが川村小隊長は、凍てついた四囲の空気を破るがごとく、大声で本部入り口で叫んだ。この朝は特に寒く、刈り倒された葦の上に真っ白く霜が降りている。しかしなかなか中さん出て来ない。(この頃より親しみをもって中隊長を中さんと隊員は陰で呼んでいた)。待ちどうしい隊員はがやがや、ぶつぶつと騒ぐ。小隊長は再三「静かにしろ!」と怒鳴る。まだ出てこない。この寒いのに!、やがて藤野幹部。桑江教練幹部。広瀬中隊長が出て来た。この朝、中さんの口髭が一層威厳を光らせていた。出て来るなり、「川村、この騒はなんだ。こんな事で小隊長が務まるか!」と怒鳴った。小隊長が、中さんに怒られるのをわれわれ隊員は初めて見、皆顔を見合わせた。
朝礼は事無終わった。我々隊員は各作業場に散ったが。頭に来たのは小隊長。隊員全員の前でこっぴどく怒られ、小隊長としての面目が無い。特に川村小隊長は純粋無垢、真直ぐな人であった。小隊長は隊員を送り出した後、本部に駆け込み「小隊長を止めさせて下さい。そうでなければ命令退所させて下さい。」中隊長の前に願い出た。中さんもちょっと言い過ぎた。とは思ったようであるが、なかなかの頑固者で、両者の対立は午後にまで及んだ。藤野。桑江両幹部が仲に入り色々ととりなしたが、小隊長は頑として受け付けない。見かねた桑江幹部が「川村君もそう言っていますから、暫く一般隊員でやってもらったらどうでしょう、」。中さんも、渡りに船と「ではそうする事にするか、、、、、」。小隊長は「僕は二度と小隊長は致しません!」。居並ぶ幹部の前で宣言した。
彼は二度と小隊長をすることは無かった。此の事はやがて満州で意外な方向へと進展していった。
やがて所外訓練も終わり。渡満の日も決まった。渡満用の行李、新調の服、シャツ、跨下、その他が支給され愈々の感を深くした。私達は満州に行くことに就いて一点の曇りも、何の疑いもなく、ただ唯皇国の為、身を満州建国のために捧げる覚悟のみであった。毎日君が代と、海ゆかば、で心身共に鍛えられて来たのだ。
 昭和19年2月13日。弥栄広場で、厳粛な渡満壮行式を終え、東京に出て、宮城遥拝、上野の国立博物館を見学 、東海道を下って伊勢神宮へ、ここで武運長久の祈願の神事をしてもらい、一路新潟港へ、そして希望を胸いっぱいに膨らませ風雪厳しい日本海へと船出したのである。   つづく、、、







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