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2021/03/25

2021-03-25 09:10:00 | 日記
「武漢ウイルスと習近平帝国2020」の続きです。

次は、日中国交正常化についてです。

1972年9月29日、日中国交を一気呵成に果たした田中角栄首相は大平正芳外相とともに意気揚々と帰国しました。
息せききって訪中した田中首相や当時の外務省首脳がそんな合意を見抜く知識を持ち合わせるはずもなく、中国の意のままに操られて日中復交三原則を日中共同声明でも承認し、台湾を一方的に切り捨ててしまったそうです。

この拙速外交の大きなツケに、日本は今日も高い代価を支払わされているばかりか、それほどの代価を払ってきたのに中国側は日本に対する敬意や本物の友情を示すことは一切なかった。
日中国交樹立は、はたして正しい選択だったのだろうかと書いていました。

日中国交30周年では日中友好を称える一万三千人もの代表団が訪中したというのに、日本人の国民感情はすでに冷え切ってしまっていた。
中国毒餃子事件に見られたように、中国産の食品や漢方薬の危険が報じられたり滞日中国人犯罪の増加が重なったりしたことも大きな原因であったみたいです。

日中友好の美名に隠れた日中癒着の体質は、実は日中国交正常化以前から日本政府・外務省内に存在していたそうです。

対中国外交に関しては、どこの国の外交官なのかわからないような外務官僚が省内を跋扈し、いわゆるチャイナ・スクールと呼ばれるグループを形成してきていたそうです。

なぜこのような事態を招くことになったのかというと、まず外務省、とくにチャイナ・スクールの人々の歴史認識と思想性の欠如、そしてストラテジー(外交戦略)の欠如があげられます。
中国を刺激しないことが唯一の外交思想と考える人々に、中国に対して戦略的思考で当たる意識や気構えが生まれるはずがないと書いていました。

1977年に香港総領事に就任する前には内閣調査室次長でもあった野田英二郎氏は、やがて外務省推薦で文部省(現文部科学省)の教科書検定審議会委員となり、2000年10月には日本の教科書検定に中国寄りの歴史観を持ち込み、そのような歴史観を援用しようと様々に工作したことが報じられたそうです。

この歪んだチャイナ・スクールの伝統こそ、戦後日本外交における大きな過ちだったといえます。

チャイナ・スクールのピラミッド構造は、戦後日本外交に大きな害悪をもたらしたのみならず、政治家たちの日中癒着の構造をつくり上げた原因でもあるそうです。

彼らのバックアップによって田中、三木、大平、竹下、宮澤、橋本といった自民党政権の親中派の総理大臣の流れが綿々と引き継がれてきたそうです。


現在の日本の対中国外交に一貫して見られる「贖罪外交」「謝罪外交」「位負け外交」のルーツは、すでに1930年代に根を張りつつあったのであり、チャイナ・ロビーに誘導されやすい外務省の性癖としての対中国軟弱外交は、すでにこの時期にも始動していたそうです。

対中国低姿勢外交を主導してきたのは幣原喜重郎外相だったそうです。

文部省は1946年7月3日、文部大臣官房文書課長の支那の呼称を避けることについてと題する通知を省内各部局のみならず、公立私立大学、高等専門学校校長に宛て流布したのでした。
こうして我が国の新聞雑誌などのメディアのみならず、大学や専門学校などからも一斉に支那の呼称が消えていくのであるが、そのなかでも最も迅速に対応せざるを得なかったのが当時官立専門学校の一つであった東京外事専門学校でした。

なぜなら現東京外国語大学の前身である同校には明治初期の東京外国語学校(明治6年創立)以来の永い歴史と伝統を有する漢語学科、のちの支那科があり、当時も我が国の代表的な外国語専門学校として支那語を教えていたからでした。