見出し画像

あげちうのブロマガ

世界が終わる前に終わった話

それは、現代の何処かでありそうな、理不尽な奈落ではある。

自分の愛犬を毒殺した奴が、大した罪にも問われず、数件先に住んでいるのだ。

「pixAI」にて、タイトルをプロンプトに入力して出力。

希望的結末は今、一部に激高を呼んだりは、する。

 

しかし、その犯人は犯人で、日々高齢の要介護な親を介護しつつ、その親の年金でしか暮らせていない状況では、ある。「就職氷河期世代」と言うのは…結局は社会的な否定の中で生まれた奈落ではあり。理不尽に耐えつつ、何時か訪れるだろう破綻、それを前にして、何かに追い詰められている。

それはその心理状態の中での、一つの「打開」に近い、と言うべきか。とある少女の、或いは産まれた時から一緒に暮らしてきた…しかし高齢の愛犬が、その日毒殺されてしまった…という結果と、その後と。そこにある深刻な疑問とそして「犯人はまだ、そこに居る」と言う生理的嫌悪と憎悪と、そして自身の非力さがそれに対してただ「我慢しろ」しか言われない、そんな事態。犯人の状況もまた、社会全体の方向性?その帰結である。若い少女に何が出来た?しかし、そのしわ寄せは或いは少女に向かって行って。

”そこ”に発生した奈落が或いは、時に世界その物の破綻を呼ぶのだろうか。

「世界が終わった」と、不意に実感する「状況設定」では、ある。国家にしろ、この奈落に対して何の対応も出来ずに、せずに、ここまで来てしまっている。自己責任を要求し得るのだろうか?国家的想定にしろ、「飼い犬が殺された」程度の過失までは想定し得ない、というのはあって。その高齢ニートも、「だから」そこでその老犬に自身の理不尽を向けた、訳だが。罪に問われにくい、からと言って、それは問題に成らないか、そこは深刻に重い問いとしてある、「倫理」は何かの帰結を求める事には。

しかしここは、状況を鑑みると、多分大した過失を問えない。ともかく最大の問題は、少女の愛犬はもう帰ってこない、そう言う事ではある。犯人が死刑に成ろうと、”それ”は変わらない訳で。

倫理上か、その高齢ニートに「自己責任だ」それを、認識させ得たか?は思う。自分がそう言う境遇に陥ったのは自身の愚かさ故である、と?犯人の境遇を考えると、違う倫理はそこまでの過失を問えない。逆にもちろん、だからその罪をしていい事には成らないそれは当然ではあるのだが。高校生くらいだろう少女に、相手をそこまで糾弾し得るか?は謎だ。両親も健在で、老犬を飼い続けるだけの余裕もある、犬相手の介護が大変だ?そこに、激高はあるかもしれない。

ともかく、犯人がその境遇に陥った理由は、間違いなく少女には無いだろう。その状況的には、人間を殺すような致命的な事態に成らずに済んだ、そう考えるべきかもしれない。或いは同じような、その終末を願った様な作品は、”そう言う事態”に果たして多少はか、意識の沈静を計りうるだろうか?

「良い結果」と言うのは、相変わらず複雑ではある。

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「日記」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事