ハレルヤ!  喜び、喜びおどろう

聖書のことばを中心に、2019年12月から、あふれる思いをブログにまとめています

一粒の麦の話は、異邦人への救い拡大の話

2020-01-18 21:56:55 | 礼拝説教
明日の主日礼拝での説教箇所はヨハネ12章 簡単そうで難しい箇所
黒崎幸吉先生のネット上で公開されている記事から予習をした

2章20節 禮拜せんとて祭に上りたる者の中に、ギリシヤ人數人ありしが、
「神の国がユダヤ人より異邦人に移ることの序曲ともいうべきものであった」


12章21節 ガリラヤなるベツサイダのピリポに來り、請ひて言ふ『君よ、われらイエスに謁(まみ)えんことを願ふ』
彼らがピリポに紹介の労を依頼せる所以は、彼らがおそらくベツサイダの附近の住民であったからであろう。十二使徒中ピリポとアンデレのみギリシャ語源の名を持っている


12章22節 ピリポ往きてアンデレに告げ、アンデレとピリポと共に往きてイエスに告ぐ。
ユダヤ人の反対を受けつつあるイエス、またイエスは従来ユダヤ人のみに伝道していた。ギリシャ人が訪ねるのを躊躇したのであろう。
ピリポはアンデレと相談した。


12章23節 イエス答へて言ひ給ふ『人の子の榮光を受くべき時きたれり。
ギリシャ人らが熱心に、反対にその選民ユダヤ人は不信に、このことが己の死の近きことを示す一事実であることを感じた
異邦人の救われんがためにまずイエスが十字架上に死に給うことが必要であることを(10:15-17)彼らに示し、また彼らもまたこの死を経ることが必要なることを教え給うた。
「栄光を受くべき時」とは死を経て復活昇天し給う時を言う。
▲ギリシャ人はおそらく智慧や知識、すなわち哲学をイエスから学ぼうとしたのであろうがイエスはこれに対して自分の十字架の死を示し給うた(Ⅰコリ1:22-23)


12章24節 誠にまことに汝らに告ぐ、一粒の麥、地に落ちて死なずば、唯一つにて在らん、もし死なば、多くの果(み)を結ぶべし。
12章25節 己が生命を愛する者は、これを失ひ、この世にてその生命を憎む者は、之を保ちて永遠の生命に至るべし。
弟子たちやギリシャ人らもまた彼に倣いてその生命を棄つべきこと、而してこれによりてのみ永遠の生命に至ることを教え給うた。
ここに異邦人のキリストの弟子たるべき要件を示し給うた。
師弟の関係に入るごとき程度のものではなく、イエスまず死に給い、弟子たちもまたその生命を憎まなければならない。
キリストの弟子たることは至難であることを示している。
「生命を憎む」とは己の生命を愛することの反対であって、神に仕えんとする者はこの世におけるその生命が、いかに多くの妨害を与うるかを知るが故にこれを憎むに至るのである。
▲▲ギリシャ人は本来自己を愛しこれを完成しようとした。ヒューマニズムはこの点において福音と対立する。


12章26節 人もし我に事へんとせば、我に從へ、わが居る處に我に事(つか)ふる者もまた居るべし。
キリストの弟子たらんとする者はイエスの進み給う十字架への途に、彼の後に従って進まなければならぬ。
キリストに仕うる者はキリストの居給う処にいるのであって、従って彼とその苦難を共にしなければならぬ
しかしながら同時にその栄光も、これをキリストと共にすることができるのである(黙14:4)。
ゆえにこの道は苦難の途であると共に栄光の途であって、イエスより離れて苦難の途を避くる者はこの栄光に達することができない。
この御言によりイエスに従わんとするギリシャ人らにその困難について教え給う。
▲キリスト者はイエスを信ずるだけでなくイエスに仕える者でなければならぬ。イエスを自己の救いに利用しようとする者は真のキリスト者ではない。



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