イスラエル人が、モーセとアロンに向かってつぶやいた時、神ご自身が不平を静めて解決なさった。神が立てたリーダーに民がつぶやいていると、神のご計画が全く進まなくなるから。
教会では牧師に対して信徒たちが集団でつぶやくことは、神様に対して不満を持っていることになる。そうなると、自ら進んで神のみわざに用いられようという献身の思いがそがれてしまい、教会は成長は止まり、後退することになる。
一方、リーダーは、アロンの杖のように、芽をふき、つぼみを出し、花をつけ、アーモンドの実を結んでいたという程の、新鮮さ、勢い、生命力がなくてはならない。
この時、視覚教材のような形で、神様はイスラエル人を納得させたが、これはいつでも誰でも見える場所に保管されたのではなかった。人々の目には隠された。
あかしの天幕の中からアーモンドの実のついた杖を出して来て、皆に見せたが、その後また天幕の中に戻しからです。
だから、人々は、不満をつぶやくことに対して戒められた事実を、覚えていなくてはならなかった。次世代にも伝えて行かなくてはならなかった。
私は神様からの戒めやさとしが与えられ時、その時ははっきり意識して悔い改めるのですが、すぐに忘れてしまって同じような過ちを繰り返すことがあります。
それでも、神様は忍耐強く、何度も何度も、導いてくださっています。しかし、それを自分だけ納得して終わらせず、弟子づくりに生かして行かなくてはならない。