羊の見る夢

霊性。

分かっていること。

2023-08-29 23:46:59 | 日記
“全ての人に優しくすることが出来れば、安らぎが訪れる事”は私には分かっている。

それは疑問の余地の無いリアリティだ。

問題なのは、今の私には克己心を掻き立てなければそれを現実の物にするのが難しいということだ。

自らを律すること、規律を守ること。

戒と律が、善い人である為に設けられていることは明白だ。

どんなに戒律を守っても、少しも優しい人に成らないのなら、それは偽善というものだ。

優しさの中には、強さや正しさや清らかさが含まれている。

それは、優しくしてみて初めて分かることだ。

何の為の規律なのか?は、優しくするという愛の形を実現するための強さを得るための規律なのだということを知って居れば良い。

規律は背骨のようなものであり、規律が無いのは背骨が無いようなものだ。

背骨がなければ立つことも座ることも出来ない。

どうしてそれでこの世の善のために働くことが出来るだろう?

生活を律することが出来て、初めて徳目を実践することが出来る。

ダルマは人生の必修科目だが、それもこれも規律ある生活が出来てこそだ。

死んで何処に行くかは、生きているうちに何をしたかで決まる。

心優しい人として一生を過ごすなら、神仏に頼らずとも後生は安楽だ。






すがる。

2023-08-28 08:48:36 | 日記
助けて欲しくてしがみつく→すがる。

信頼して安心して預ける→委ねる。

憧れが更に高じて愛を成就したくなる→一つになる。

どの段階に於いても、それはプレマ ヴァヒニ(愛の流れ)に他なりません。

私達一人ひとりは、愛が流れる川のようなもの。

神は、愛を満々と湛える大海のようなもの。



賜り物。

2023-08-27 21:55:44 | 日記
心は神様からの賜り物。

有り難く頂いて大切に使います。

五感も神様からの賜り物。

有り難く頂いて大切に使います。

知恵や知性や思考力も神様からの賜り物。

有り難く頂いて大切に使います。

感情も神様からの賜り物。

有り難く頂いて大切に使います。

人格や倫理観も神様からの賜り物。

有り難く頂いて大切に使います。

悟性や理解力も神様からの賜り物。

有り難く頂いて大切に使います。

生命や人生も神様からの賜り物。

有り難く頂いて大切に使います。

善い事をするようにと神様が授けた様々な能力を正しく使います。
悪を為す為に使わないようにします。

目は善い事を見るように与えられました。

耳は善い事を聞くように与えられました。

手は善い事をするように与えられました。

足は善い所へ行くように与えられました。

心は善い事を思うように与えられました。

世界は善いもので、自分もまた善いものだと知るように知性が与えられました。

知性(ブッディ)はブッダ(悟りの人)となりました。

サードゥ サードゥ (善哉 善きかな)はブッダの常套句になりました。

何故なら、悟りの心には清らかで美しい世界が映るからです。




人は誰しも皆苦しみは不自然なものだと思っている。

2023-08-26 09:41:07 | 日記
私達は誰でも、色々なことを覚えていたり忘れていたりしますが、覚えているにしろ忘れているにしろ其れには自然な理由自然な原因があります。

しかし、覚えていることが苦しみをもたらしたり、忘れていることが苦しみをもたらしたりするときに、その苦しみにも自然な理由や自然な原因があると見なす人は居ません。

私達人間は本来的に苦しみは不自然なことだと感じているからです。

今現在の出来事によって生じている苦しみでさえ、こんなのは何か変だ、こんなのは何か間違っていると感じるのですから。

ヒンドゥーの聖典では、その理由を私達は本来的に至福に満ちている自己(アートマーナンダ)だからだと説いています。

アートマの至福が私達人間の真実本質であるが故に、苦しみの存在を自然なものだと認めることが出来ないのです。


























スピリチャリティ(霊性)は真実か?

2023-08-25 16:40:51 | 日記
キリストの天国には、素晴らしい平安と完全な健康状態があると言われています。

ブッダの悟りにも素晴らしい平安と完全な健康状態があると言われています。

それらが真実であるかを知ろうとするならば、それらを盲目的に闇雲に信じ込もうとすることは最も避けなければならないことです。

また、聖者は、金銭によっても、虚栄心をくすぐっても、恫喝しても、動じないのですから、正しい答えは自分自身に依らなければ得られない訳です。

霊性というものが真実であるかどうかは、志願者や探求者が自らの身の上に探し求めるものです。

自分というものが今此処に居るということが全ての全てなのです。

其処から出発して其処に帰って来ます。

真実を探し求めて自己を発見するのです。

全てが我が身の上のことである時、其処に居るのは神の自覚を持つ者です。