信頼して委ねるのは自分の魂であり、和らげられ溶けてしまうのは頑ななマインドであり、成熟して開花するのはハートの花びらである。
百万の言葉を費やさずとも、私達の魂には神の一触れがあれば十分である。
神に見つめられるなら、見つめられる者の目は神の愛を見る。
神の声を聞くなら、声を聞く者の耳は神の愛の囁きを聞く。
神に触れられるなら、触れられた者のハートには神の愛が流れこむ。
ハートに神の慈愛を宿した者の清らかな思いは、カイラーサ山の主のように崇高な霊感に満ちている。
シャラナガティ(神に我が身の一切を委せること)は自分の小さな自我の為せることではなくて、抵抗虚しく神の愛に屈服した時に初めて為せることである。