もし、神様が目の前に居て“何でも話してごらん!”と言ったなら、あなたにしてもさぞかし心を込めて話すことでしょう。
これが本来の“話す”ということなのです。
お釈迦様が言葉を慎むと言ったのも、この本来の“心を込めて話すことが出来る為に”ということなのです。
お釈迦様もイエス様も必要な時には、幾らでも饒舌に話すことが出来ました。
単に饒舌に話したのではなく、“心を込めて”饒舌に巧みに懇切丁寧に話したのです。
私達も話す必要がある時には、誰に対しても心を込めて話します。
井戸を掘る人は水脈を堀当てるまで諦めずに堀続けます。
心を込めて話すのは、相手の人の心の底の愛の水脈を堀当てる為なのです。
自分の全人格を賭けた真実の思いで優しく温かい言葉を掛けなければなりません。
それは、神への祈りと全く同質のものでなければなりません。
神に向き合う時のように、相手の人に真摯に向き合わなければなりません。
愛の泉が噴き出せば、それは涙となって目から溢れ出します、嗚咽となって喉から溢れ出します。
愛は万人の内に内在しているからです。
丁度、神が万人の内に内在しているように。