“全ての人に優しくすることが出来れば、安らぎが訪れる事”は私には分かっている。
それは疑問の余地の無いリアリティだ。
問題なのは、今の私には克己心を掻き立てなければそれを現実の物にするのが難しいということだ。
自らを律すること、規律を守ること。
戒と律が、善い人である為に設けられていることは明白だ。
どんなに戒律を守っても、少しも優しい人に成らないのなら、それは偽善というものだ。
優しさの中には、強さや正しさや清らかさが含まれている。
それは、優しくしてみて初めて分かることだ。
何の為の規律なのか?は、優しくするという愛の形を実現するための強さを得るための規律なのだということを知って居れば良い。
規律は背骨のようなものであり、規律が無いのは背骨が無いようなものだ。
背骨がなければ立つことも座ることも出来ない。
どうしてそれでこの世の善のために働くことが出来るだろう?
生活を律することが出来て、初めて徳目を実践することが出来る。
ダルマは人生の必修科目だが、それもこれも規律ある生活が出来てこそだ。
死んで何処に行くかは、生きているうちに何をしたかで決まる。
心優しい人として一生を過ごすなら、神仏に頼らずとも後生は安楽だ。