羊の見る夢

霊性。

覚醒。

2023-08-10 23:47:12 | 日記
人類は心を一つにしたとき覚醒する。

個別的な魂という観念への囚われから解放されて、私とかあなたとかの区別が意味を成さなくなる。

覚醒とは夢から覚めることであり、無知の眠りが終わりを告げることでもある。

体は無数でも生命は一つである。

心は無数でも意識は一つである。

自我(アハム)は無数でも真我(アートマ)は一つである。

虚偽は無数でも真理は一つである。

神達は無数でも神性原理(ダイヴァ タットワ)は一つである。

道は無数でも行く先は一つである。

人間は意識を拡大することのできる生き物であり、私の現実とかあなたの現実とかではなく、私達の現実ということを理解し受け入れ共に造り上げて行くことができる。

人間は一つの目的に向かって共に力を合わせて働くことができ、欲望を犠牲にして他者の幸せのために尽力することもできる。

個我性は取り除かれねはならない足枷であり、遍在のアートマ(パラマートマ)への信仰が足枷を打ち砕くハンマーである。

どんな川から流れ込んだ水でも海の中ではその区別を失う。

私やあなたや彼や彼女は、その川であり、パラマートマはその川が流れ込む大海だ。

名前も姿形も失うとき大きな意識の中に溶け込んで一つになる。

神と一つに成るとき、何処の誰それという個我性は消失する。









超ポジティヴ。

2023-08-10 21:16:42 | 日記
誰が何を言っても、微笑みを絶やさずに顔色を変えないでいます。

何が起きても、微笑みを絶やさずに顔色を変えないでいます。

一切を行っているのは、神であり、神が私達に悪い事をする筈が無いと思っているからです。


神のように生きたいと願う時に、私達の心はブレークスルーに向かって動き始めます。

神への信頼は、闇雲に信じ込もうとすることによってではなくて、一つ一つの小さな体験の積み重ねによって育まれます。

然し、かつてアウシュヴィッツに収用されたユダヤ人の中には、信仰を失い神を呪う程の苦しみに苛まれた者も居ました。

このような人達に対しては、何が起きようとも、それはあなたにとって良い事なのです!と言うことは出来ません。

救出に向かうことが出来ないのなら、せめても苦しむ人の魂の安寧のために祈ることが偉大な同情心を持つ者の為すことです。


清らかな祈りは、血を吐くような絶望にうちひしがれた瀕死の魂をも抱き留める、天使の腕(かいな)に異なりません。

善悪正邪は私達の行動如何にかかっているのですから、私達は善行と正しい行いによってしか、神の信頼を勝ち得ることは出来ないのです。

神は善悪を超越した真理の神であるかも知れませんが、それなら私達は一体どんな者なのか?と自らに問わなければなりません。

様々な罪や過ちにまみれていながら、自らが神に比肩する者のように振る舞ってはなりません。

高慢(キリスト教)、増上慢(仏教)、は共に地獄に堕ちる大罪だとされています。

私達がする事が、私達が何者であるかを示しています。

存在と行動が相反するなら、私達の魂は引き裂かれてしまいます。

行動が善と徳に彩られている者が邪悪な罪人の筈がありません。

また、邪悪な振る舞いをする者が清らかな魂の筈がありません。

人は誰でも、自らの行いによって、自身を浄化したり汚染したりしているのです。







猿の檻。

2023-08-10 15:16:09 | 日記
猿の檻に入って猿と一緒に暮らしたい人が居るだろうか?

もしあなたが感覚に蹂躙されるがままになっているなら、猿の檻の中で怯えて暮らしている愚か者と同じです。

猿のような心とは、感覚の奴隷になっている心です。

感覚の欲求を満たすことだけが、猿のような心の望みです。

猿のような心で居れば、ギラつく目で欲望の対象をロックオンします。

イエスの戒めは猿のような心を持つ者には届かないのです。

感覚の欲求に蹂躙されて傷つくのは自分自身のハートの純粋さと、自分自身の高潔な人格です。

神様は人間に対して本能に身を委ねてはいけないとは言いません。
神様が言っていることは簡単です。本能に身を任せるにしても時と場合を弁えろと言っているのです。

様々な聖典には、その事が説かれており、誰もその神の声を聴き違えることはないでしょう。

理性とは人間が道を過たないために、人間に授けられた神の力です。

ブッディ(知性)という言葉には、そのような意味が込められています。

のべつまくなく発情している猿のようで居ることは、発情期のある猿よりも惨めです。

目のやり場に困るなら、見なければ良いのです。



シヴオーハム(私はシヴァ)。

2023-08-10 07:31:21 | 日記
シヴァを見ようと熱望し私はシヴァ私はシヴァと繰り返し唱えている時、それは集中と呼ばれる。

実際にシヴァを見てシヴァを感じて、ただシヴァシヴァという思いに浸っている時、それは黙想と呼ばれる。

シヴァの目で世界を見ている時、“私”や“私は〇〇である”がシヴァの中に溶け込んで消え去っている時、それは瞑想と呼ばれる。

それ故、神への思いは集中によって始まり、瞑想によって成就すると言われる。

何故なら、神への思いとは神と一つになりたいという熱望であるから。