GoingMyWay

やりたい事はやらずにおられるか!それが俺の道。そんな考えのもとで研究と資格取得を中心に毎日を生きていこうと思います。

ターちゃん

2009-04-02 22:24:29 | 雑記
15年ぶりに「ジャングルの王者 ターちゃん」を観た。


ニコニコで検索すると後半しか無かったので、ヤフーで検索したら1話からあったので観てみた。ターちゃんは俺が9歳の頃に放送していて凄く面白いアニメである。
オープニング曲を久しぶりに聴けた。ニコニコで言う神曲です(笑)。

凄く懐かしいアニメを観れて今日はちょっとハッピーでした。

俺の歩いてきた道~高校編~

2009-04-02 15:53:12 | About Me
 俺は私立K高校に入学した。(ミクシーに高校名載せております)
 中学編で書いた様に、ピアノ・テニスを辞めた。高校は進学校なので勉強しなきゃいけないと思ったからである。
 それでも、一応、部活はやっていた。囲碁将棋部である。中学の時ピリーに囲碁を教えてもらって、囲碁にはまったのだ。また、当時「ヒカルの碁」が流行して、囲碁をやろうと思った理由でもある。まぁ、入部したと言っても、バリバリやってるわけでもなく、ただ気楽にお遊び半分(8割くらい)で行ってただけなんだけれども。
 あと、言ってしまえば囲碁はまだまだマイナーなゲームなので、俺の近所に打てる者がいなかった。囲碁を教えてくれたピリーは2局目で倒してしまい、友人Mにも囲碁を教えたが、そんなに続かなかった。だから、対戦相手がいるという意味では良かったかもしれない。
 上記の事もあって、俺は天狗になっていた。近所で打てる奴がいない=俺が最強という簡単な図式にあてはめており、どうせお遊びでやってる高校の囲碁部でも俺が最強だと本気で思っていた。自分がどれぐらいの強さか分かってもいないのに。
 入部後、先輩と打つことになった。どうせ、俺が勝つに決まっている。と、思いながら対局したのだが、あっさりと負けた。ってか、強いんすけどwww。

 また、俺と同じく1年生の子も囲碁が打てる様だった。
 彼は中学から、この学校に通っている様で、俺のうち筋を見て、なんか上から目線で囲碁を語ってきたので、ふざけんなよという気持ちで対局したのだが、彼にも負けてしまった。俺は弱かった様だ。

 この時期で、確かインターネットが普及し始めた時だったと思う。
 同時に、インターネット囲碁にはまり始め、本末転倒の如く、勉強なんかせず囲碁にはまり続けた。中学で「勉強しなきゃ。」と言う事でピアノとテニスを捨てた代わりに囲碁を拾ってきた感じであった。
 親からは「いつまでやってんねん!」とキレられる位、学校から帰ってずっとやっていた。まさに廃人であった。勉強は一切せず、ひたすらパソコンの前に座ってるというのは、周りからしたら痛い存在だったはずだろう。

 しかし、囲碁の実力はついた。
 部長(二段)は倒せなかったが、コテンパンに倒された先輩を倒し、俺を上から目線で見てた同期も倒せる様になった。痛い人間になっていく代わりに囲碁の実力は軒並み上がっていった。
 事実上、先輩が抜けた後は俺が高校で一番囲碁が強くなった。勿論、囲碁人口が少ないので(数人レベル)、まさに『小さなお山の大将』であることには変わりないが、高校で一番になった。全然、偉くも何ともない称号である。

 一回だけ団体戦の試合に出た事がある。
 ここで軽く囲碁の団体戦について話しておく。団体戦は三将・副将・大将と3人1チームであり、2勝した方が勝ちである。黒番・白番を決めるニギリは大将のみ行い、大将が黒であれば、三将も黒で、副将は白という感じである。
 俺は最強であったが、同時に部活には出ていなかった(サボっていた)ので、俺より部活に出ていた同期の子が大将を張っていた。俺は副将であった。

 しかし、俺達は当然活動が盛んでもないので、他校にコテンパンにやられた。全試合全敗だったんじゃないかなwww。
 お山の大将である俺もコテンパンにされた。偏差値70近くある高校とも対戦したがコテンパンにやられた。あとで棋力(囲碁の強さを示す数値)を聞くと五段・六段であった。勝てるわけが無かった。お山の大将なんて、初戦こんなもんである。

 それでも、俺は最高二段まで上り詰めた。
 インターネット囲碁で二段は怪しいという声も貰ったが、初段は確実にあったとは思う。まぁ、何も認定試験とか受けていないので、履歴書には書けないのだけど、有段者の仲間入りが出来た事は良かったと思う。
 因みに、今は初段の力はありません。5年はやってないのでwwww。


 次に、勉学の話に移りたいと思う。
 1年生になって3ヶ月程したら模試を受けさせられた。さすがは進学校。年に3回ほどは模試を受けるようになっている様であった。先生から「京大・阪大・神大は志望校として書いておくように」と言われていた。
 そして、初めての模試の結果は、数学の偏差値が64で、他は50後半と前半位で合計偏差値が58位であった。京大・阪大・神大は判定はE判定だっが、関西大学がA判定、立命館大学がC判定、ノリで書いた早稲田大学はD判定で中央大学はA判定だった。
 この結果にすっかり満足した俺は「今でこれなら、3年後は楽勝だな。」とここでもまた天狗になっていたと思う。

 高校受験は100時間勉強すれば大丈夫で、大学受験は1000時間勉強しないとダメだと言われている様に中学の時と同じ勉強方法で勉強してはいけないのに、俺は3年間中学の時と同じ勉強方法で勉強していた。期末試験は、いつもテスト一週間前から。中学と違い、高校1年で言うと現代文・古典・数学Ⅰ・数学A・英語(ライティング)・英語(リーディング)・現代社会・物理・化学と9個も試験があるのに、一週間前からやっていたのである。
 一学期の中間テストは中の上位の点数を取っていたのだが、期末試験から軒並み点数が下がっていった。と、同時に授業についていけなくなった。「高校に行ったら勉強しなきゃいけない。」と言っていた俺は、それでも勉強をせずぐうたらぐうたらしていた。
 いつの間にか、俺は欠点との争いばかりになっていた。うちの高校の欠点は当時30点ちょいだったのだが、欠点でなかったら「おっしゃー。」とバカみたいに本気で喜んでいた。何がおっしゃーなのだろうか。この時は、まるっきし危機感なんてものを感じていなかった。
 勿論、模試での点数も悪くなり、数学の偏差値が64から45あたりまで下がる様になった。国語の偏差値が35まで落ちたことがある。それでも、危機感を感じず、毎日、何も感じないまま過ごしていた。

 体育の時間で、学校の行事で「クラス対抗駅伝」というのが高校1年の時にあった。駅伝には全員出られるというわけではなく選抜であった。
 中学の時に鍛えられていたのもあるので、俺は選ばれる事に自信があった。高校で出会った友達Sも「俺も自信がある。」と言っていた。あの時のSの自信たっぷり度は凄かった。「俺、絶対に駅伝メンバーに選ばれるわ。」と言うと、「俺も絶対行ける。」と言っていた。何を根拠に、そう言えるのか不思議でならなかったけど、かなりの自信が有る様だった。
 そして、初めてのランニング練習で俺はSと競う事になった。
 そこで、俺は見事にSに勝った。俺は選抜圏内に入っていたが、Sは圏内に入れておらず、せいぜい中の中か、中の下であった。何を根拠に自信があったんだろう。後で、「どうしたどうした?」と聞くと、「レベルが違ったわwww。」と言っていた。
 俺は代表に選ばれた。中学で鍛えた力が発揮されて嬉しかった。
 だが、駅伝本番に、前の走者が見当たらないというミスを犯してしまい、スタートを出遅れてしまった。メンバーにも迷惑をかけてしまった大会になってしまった。

 あと、武道の時間では剣道と柔道を選択でき、剣道をやっていたので剣道を履修していた。
 当然の如く、初心者は楽勝であった。なんて気持ちが良いのだろうか。剣道の試験があり、友達Fに運悪くパートナーがいなかったので、俺がパートナーになり、Fは試験を受けた。俺の試験は既に終わっていたので、彼に良い所を見させようと(良い点取らせようと)攻撃せず、突っ立っておけば良いものを、俺は攻撃してしまった。友人には悪いと思ったが、攻撃の隙を与えず攻撃していた。
 試験後、違う友人に「あれは酷いわwww。」と言われた。

 また、クラス内で勝ち抜き戦があった。
 俺は燃えに燃えた。1人倒し、2人倒し、7,8人倒した時に、もう1人剣道経験者がいて、事実上の最強決定戦になった。
 あの時の試合は結構面白かった様に思う。当時の俺は凄いハイテンションだったと思う。小学生の頃より、かなり攻撃性が増してた様に思う。こっちが打っても、なかなか審判の手が挙がらなかった。審判は前の試合で負けた人がやる様になってたと思うのだが、なかなか挙がらなかったので、審判に「おい!今のは入っているやろ!!!」とキレた事があった。心技体全然お構いなしだった。
 それでも打ち続け、やっと引き胴が決まった。先生が「入った!」と言って、俺が勝利した。友人は気が気でなかっただろうwww。
 同時に、俺がクラス内剣道最強という称号を貰った。一部の生徒には「ツワモノ」と呼ばれる様になった。

 昼休みでは、よく友達と大富豪したり、廊下で紙を丸めたボールで野球をしていた。
 どこでもある様な昼休みだと思う。また、ピリーとは帰宅時にバスが来る間の時間、体育館の裏で野球をしていた。下手投げで石を投げて、それを木で打ち返すといった簡単な野球。結構楽しかった。

 だけど、高校では明るい思い出は少なかった。
 高校でやった事なんて、上記の事と、スキー実習くらいで、たいした出来事もなく3年が過ぎていった。
 相変わらず学校の成績は底辺で、実力テストで化学の点数が3点だった時がある。何をどうやったら3点とれるんだwww。模試でも下から数えた方が早かった。下から6番目の時もあった。
 今の怠け癖は高校の頃からついていた様に思う。剣道と囲碁が学校一強かったが、頭は学校一悪かったように思う。高校でも弱くても大好きなテニスを続けていればよかったと本気で思った。なんで全てを捨てたのだろうか。
 高校生になって得た事は一つもなく、ただただ無意味な3年間を送ってしまったと後悔だけが残った。どうしようもない位のバカだった。

 高校3年になり、親は流石に大学にいけるか心配をし始めて家庭教師を取る事になった。また、俺自身も焦ってきたので、親にK塾行かせてくれと頼んで行かせて貰った事がある。
 だけど、何一つ進歩は無かった。ただただ、お金をドブに捨てるだけの様な感じであった。親が汗水たらして稼いできたお金なのに。

 俺には高校の思い出なんてものが一つも無い。
 小学校の時や中学校の時みたいに頑張ったと言えるモノが何一つないから。だから、高校ドラマとか甲子園とか見ると本気で羨ましかったりする。
 学校生活が楽しいかつまらないかは自分自身なのだ。学校パンフレットを見て、本当に楽しい学校生活が送れるかなんて、分かる筈が無いのだ。結局は、自分がどの様に学校生活を送るかが一番大事なのだ。パンフレットに書いてあるモノは全て手段なのだ。道具なのだ。それらを自分がどう使うかで学校生活が決まるのだ。
 俺は、その手段や道具を全てドブに捨てた。なんでだろうか理由が分からない。「まぁ、いいや。」と全てから逃げてきた。
 結局は、何一つ変わろうとしない自分のせいだ。俺は自分で自分を何の役にも立たない屑にしてしまったのだ。

 大学受験になり、こんな俺が合格するはずも無く、受験した大学全て落ちた。
 当然の様に俺は予備校に行く羽目になってしまった。

 この3年間は、本当にどうしようもない位ダメな人生だった。
 完全なダメ人間に成り下がってしまった。


 浪人編に続きます。