【スミス→リカード→マルクス→ヴェーバー→ケインズ】
しかしアダム・スミス殿が生きていた時代から現代の世の中に至って自由主義の価値観もだいぶ多岐にわたるようになりました。 スミス派経済学が誕生してまもなくデヴィット・リカード氏によりスミス氏が掲示しそこなった更に実践的な経済構造が客観的に考察されていきました。 リカード氏いわくは: 物質そのものがもつ『価値』はその生産過程の最終段階で決定されその土地の労働資本の質および土地の質によりも変化するなど現代の経済学において基礎を築いたスミス殿の説からさらに基本となる摂理を考案していきました。 また彼は国際貿易はスミス殿の提示した『完全利点』による貿易でなく『相対利点』による貿易の理論を啓示しました。 つまりは一つの国の一つの生産物の絶対的生産量に委託するのではなく2つの国の同じ2つの生産物を比べて、どちらの国が片方の生産物の生産をあきらめた場合どのぐらいの値でもう片方の生産物を生産できるか、という理論です。 そしてこの貿易理論が現代のグローバル貿易理論においてほぼ100%応用されています。
またリカード氏の経済学において最も影響力のある背景は彼が『集産主義』の原点を築いたことにあります。 つまりは税金や行政的影響力による『富の再分割』です。 社会を発展させる上である程度経済構造において賃金および物流交換の集積をおこない一部を公共事業、福祉、教育および行政発展にあてるという理論です。
このリカード氏の『集産理論』は後にかの有名なカール・マルクスの『資本論』においてさらに深く応用していきました。 しかし、リカード氏が集産理論を客観的に考察したのに対し、マルクスはそれの極論『計画経済理論』を打ち出しました。 その上で『資本論』の結論もリカード氏の『経済政策と税政策』の結論と異を決するものとなりました。
マルクスの『資本論』において打ち出された集産主義こそがすべての階級に位置する個人を資本主義において築かれた契約から開放する自由主義と当時から現代に至り支持されてきました。 マルクスの理論はスミス氏とは異なり『巨大な行政』による計画経済および超福祉国家の大成を志としています。 資本主義により生じた生産階級(ブルジョワジー)と労働者階級(プロレタリア)の間での貧富の差の拡大はマックス・ヴェーバー氏も共感し彼の理論もまたマルクス主義の背景を彷彿させるものとなりました。 しかしマックス・ヴェーバー氏はマルクスが啓示した『計画経済』および『巨大な行政』は結局のところ行政を肥大しそれを管理する官僚達の社会的地位が向上し新たなる階級社会を迎えるという懸念を示しました。 ヴェーバー氏いわくは確かにマルクスが言うように経済力は個人の社会的地位を決定付ける重要な要素の一つではあるが、他にも個人の『団体』や『格式』なども影響を及ぼす要素だと決定づけています。 ヴェーバー氏が経済的物流を効率化するには『労働組合』や『学者団体』などの団体による影響力およびマルクス主義とは異なる『政治構造』の転換を提示しました。
後に自由市場経済の歴史上最も名の残るカタストリフィーがおこりました。 ニューヨークのダウンストリートからおきた『世界大恐慌』です。 超巨大化した西欧列強国による植民地政策および世界貿易による物価の大変動、大企業による横暴な市場独占などによる物流の停滞およびビジネスサイクル(経済の景気変動)の不調整。 この世界恐慌の起きた理由はアダム・スミス殿の『国富論』においての経済理論でも触れられている事実によって生じたものです。 物流の停滞が賃金率が利潤率に対し低下したことが原因の一つであります。 およびその当時までの自由市場経済(計画経済のアンチテーゼ)いわくは「ビジネスサイクルは放任しても自然に循環する」という理論でした。 また古典派経済学者からも保守されている理論ですがでもあります。 しかし、この理念が『世界大恐慌』が起こったことにより非難されました。 その理論はもう一人の天才経済学者ジョン・メイナード・ケインズ殿によって裏付けられました。
【自由主義の行方…】
上記の文章においては『経済的視野においての自由主義』について述べてきました。 しかし我々にとってもう一つ重要なことは『社会的視野においての自由主義』についての考察です。 それは次章の 【序論:個人と社会】をお読みになる上で理解いただけるでしょう
このポストモダン社会において自由主義の定義は非常に複雑なものと化しています。 特に「ビジネスサイクルは放任しても自然に循環する」という理念を硬く誇示する経済的復古主義ともいえる古典派経済、顕著な新自由主義、の台頭およびソ連型共産主義による自由主義の否定による反自由主義(アンチリベラリズム)の存在、および今最も左翼学生運動により 尊まれている『協同的自由主義』および『新国際主義』がより現代の世の中においてより自由主義の定義と私のような『自由主義者』たちの存在をより説明を困難とさせるものと変貌させていきました。
また経済学においても『経済的復古主義/古典派経済』、『相対利点貿易』、『集産/計画経済』、『ケインズ派経済』の経済社会学的見直しを迫られています。
『新自由主義』は80~90年代においてレーガン&サッチャー(日本においては中曽根総理)の政策および現代共和党ブッシュ政権率いるアメリカ合衆国が行っている帝国主義経済が市場経済の存在に対する懸念をつのらせ、『相対利益貿易』は現代の第一世界と第三世界においての絶対的生産力の格差および行政不安定により均一な取引が達成できない事実が浮かびあがり、『集産/計画経済』の理念はソ連型共産主義の横暴な集産/計画経済によりゆがめられ、その他先進国においての官僚主義の肥大を招きました。 そして英国で敬われている新労働党のゴードンブラウン氏による『ゴールデンルール≒財政政策重視≒ケインズ政策』は英国だけでなくヨーロッパ諸国においても尊敬されていますが、戦後日本の経済を至極急速に発展していきた『日本型ケインズ経済政策』はその高度経済成長期の悪しき遺産として急物価高騰、スケールの大きい財政政策による官僚主義の肥大および企業と政治の癒着を招き日本においては非常に人気が薄いです。
18世紀ヨーロッパの啓蒙思想においての自由主義から20世紀初頭に台頭したヘーゲル左派などの無政府革命思想による自由主義、戦後起こった新保守主義もしくは新右翼とよばれたアメリカ合衆国やサッチャー政権下の英国保守党を中心とした新自由主義経済、そして改めて見直される『アナキズム(無政府主義)』。 自由主義は経済、社会、行政そして性(SEX)にわたるまで考察され細分化されていきます。 これからの自由主義への世界の個人達によっての見解は変化していくのでしょうか? そして当HPの『青き自由主義』への評価はいかに?
次へ:【序論:個人と社会】
しかしアダム・スミス殿が生きていた時代から現代の世の中に至って自由主義の価値観もだいぶ多岐にわたるようになりました。 スミス派経済学が誕生してまもなくデヴィット・リカード氏によりスミス氏が掲示しそこなった更に実践的な経済構造が客観的に考察されていきました。 リカード氏いわくは: 物質そのものがもつ『価値』はその生産過程の最終段階で決定されその土地の労働資本の質および土地の質によりも変化するなど現代の経済学において基礎を築いたスミス殿の説からさらに基本となる摂理を考案していきました。 また彼は国際貿易はスミス殿の提示した『完全利点』による貿易でなく『相対利点』による貿易の理論を啓示しました。 つまりは一つの国の一つの生産物の絶対的生産量に委託するのではなく2つの国の同じ2つの生産物を比べて、どちらの国が片方の生産物の生産をあきらめた場合どのぐらいの値でもう片方の生産物を生産できるか、という理論です。 そしてこの貿易理論が現代のグローバル貿易理論においてほぼ100%応用されています。
またリカード氏の経済学において最も影響力のある背景は彼が『集産主義』の原点を築いたことにあります。 つまりは税金や行政的影響力による『富の再分割』です。 社会を発展させる上である程度経済構造において賃金および物流交換の集積をおこない一部を公共事業、福祉、教育および行政発展にあてるという理論です。
このリカード氏の『集産理論』は後にかの有名なカール・マルクスの『資本論』においてさらに深く応用していきました。 しかし、リカード氏が集産理論を客観的に考察したのに対し、マルクスはそれの極論『計画経済理論』を打ち出しました。 その上で『資本論』の結論もリカード氏の『経済政策と税政策』の結論と異を決するものとなりました。
マルクスの『資本論』において打ち出された集産主義こそがすべての階級に位置する個人を資本主義において築かれた契約から開放する自由主義と当時から現代に至り支持されてきました。 マルクスの理論はスミス氏とは異なり『巨大な行政』による計画経済および超福祉国家の大成を志としています。 資本主義により生じた生産階級(ブルジョワジー)と労働者階級(プロレタリア)の間での貧富の差の拡大はマックス・ヴェーバー氏も共感し彼の理論もまたマルクス主義の背景を彷彿させるものとなりました。 しかしマックス・ヴェーバー氏はマルクスが啓示した『計画経済』および『巨大な行政』は結局のところ行政を肥大しそれを管理する官僚達の社会的地位が向上し新たなる階級社会を迎えるという懸念を示しました。 ヴェーバー氏いわくは確かにマルクスが言うように経済力は個人の社会的地位を決定付ける重要な要素の一つではあるが、他にも個人の『団体』や『格式』なども影響を及ぼす要素だと決定づけています。 ヴェーバー氏が経済的物流を効率化するには『労働組合』や『学者団体』などの団体による影響力およびマルクス主義とは異なる『政治構造』の転換を提示しました。
後に自由市場経済の歴史上最も名の残るカタストリフィーがおこりました。 ニューヨークのダウンストリートからおきた『世界大恐慌』です。 超巨大化した西欧列強国による植民地政策および世界貿易による物価の大変動、大企業による横暴な市場独占などによる物流の停滞およびビジネスサイクル(経済の景気変動)の不調整。 この世界恐慌の起きた理由はアダム・スミス殿の『国富論』においての経済理論でも触れられている事実によって生じたものです。 物流の停滞が賃金率が利潤率に対し低下したことが原因の一つであります。 およびその当時までの自由市場経済(計画経済のアンチテーゼ)いわくは「ビジネスサイクルは放任しても自然に循環する」という理論でした。 また古典派経済学者からも保守されている理論ですがでもあります。 しかし、この理念が『世界大恐慌』が起こったことにより非難されました。 その理論はもう一人の天才経済学者ジョン・メイナード・ケインズ殿によって裏付けられました。
【自由主義の行方…】
上記の文章においては『経済的視野においての自由主義』について述べてきました。 しかし我々にとってもう一つ重要なことは『社会的視野においての自由主義』についての考察です。 それは次章の 【序論:個人と社会】をお読みになる上で理解いただけるでしょう
このポストモダン社会において自由主義の定義は非常に複雑なものと化しています。 特に「ビジネスサイクルは放任しても自然に循環する」という理念を硬く誇示する経済的復古主義ともいえる古典派経済、顕著な新自由主義、の台頭およびソ連型共産主義による自由主義の否定による反自由主義(アンチリベラリズム)の存在、および今最も左翼学生運動により 尊まれている『協同的自由主義』および『新国際主義』がより現代の世の中においてより自由主義の定義と私のような『自由主義者』たちの存在をより説明を困難とさせるものと変貌させていきました。
また経済学においても『経済的復古主義/古典派経済』、『相対利点貿易』、『集産/計画経済』、『ケインズ派経済』の経済社会学的見直しを迫られています。
『新自由主義』は80~90年代においてレーガン&サッチャー(日本においては中曽根総理)の政策および現代共和党ブッシュ政権率いるアメリカ合衆国が行っている帝国主義経済が市場経済の存在に対する懸念をつのらせ、『相対利益貿易』は現代の第一世界と第三世界においての絶対的生産力の格差および行政不安定により均一な取引が達成できない事実が浮かびあがり、『集産/計画経済』の理念はソ連型共産主義の横暴な集産/計画経済によりゆがめられ、その他先進国においての官僚主義の肥大を招きました。 そして英国で敬われている新労働党のゴードンブラウン氏による『ゴールデンルール≒財政政策重視≒ケインズ政策』は英国だけでなくヨーロッパ諸国においても尊敬されていますが、戦後日本の経済を至極急速に発展していきた『日本型ケインズ経済政策』はその高度経済成長期の悪しき遺産として急物価高騰、スケールの大きい財政政策による官僚主義の肥大および企業と政治の癒着を招き日本においては非常に人気が薄いです。
18世紀ヨーロッパの啓蒙思想においての自由主義から20世紀初頭に台頭したヘーゲル左派などの無政府革命思想による自由主義、戦後起こった新保守主義もしくは新右翼とよばれたアメリカ合衆国やサッチャー政権下の英国保守党を中心とした新自由主義経済、そして改めて見直される『アナキズム(無政府主義)』。 自由主義は経済、社会、行政そして性(SEX)にわたるまで考察され細分化されていきます。 これからの自由主義への世界の個人達によっての見解は変化していくのでしょうか? そして当HPの『青き自由主義』への評価はいかに?
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