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「粗にして野だが卑ではない」

2018年05月31日 11時28分35秒 | 日記
政治家への期待など疾うに失ってはいるが、ここの所の国会のやり取りを見ていると、〈政治の貧困〉という言葉がピッタリする。「加計森友問題」での安倍総理の答弁には「ご飯論法」なる命名までされ、揶揄の対象になっているが本当は怖いことだ。政治家としての品性も矜持もかなぐり捨てて、自己保身に汲々とする姿には、一国の長としての資格は既にない。この憤懣の覚めないうちに改選がやってくれば良いが、彼らはほとぼりの覚めるのを待つだろう。

「粗にして野だが卑ではない」。この言葉が何故か好きである。出所は城山三郎が書いた『石田禮助の生涯』の副題だが、国鉄総裁の頃、国会答弁でこの言葉を枕に置いて、議員にも歯に衣着せぬ言葉を吐いたと云う。司馬遼太郎が描いた明治人の性格にもそのような品性が濃くあったのを思い出す。本当の主義主張を持つ〈骨太〉の人間をそこには見る。それは私自身を含めて現代人に最も欠けるものではないか。我らは上の言葉を〈拳拳服膺〉しなければならない。

恐らく〈品性〉などと云うものは相当に観念的なものであって、意識して醸し出されるものではあるまい。自らを厳しく律する姿勢がなければ確立しない。ましてや家業紛いに受け継いで来ただけの多くの政治にそれを求めるのは酷と云うものかも知れない。「この国をどうするか」などの意識はテンから持っていない。常に床柱を背負って座る境遇に馴れてしまっていれば、膝が抜けるほどに酒を注いで回る立場の人間をは理解出来ないだろう。

それにしても、〈権力〉の魔力には唯々驚くしかない。国会対応の茶番劇を見せつけられていたかと思えば、今度は日大アメフト部の椿事である。「起こる筈のないことが起きた」と関係者が云うから〈椿事〉であろう。ここでも「ご飯論法」が駆使され、指導者と学生との間に「言葉の解釈に〈乖離〉があった」などと、難しい言葉を探し出して来て煙に巻こうとしたが、自らがそれに噎せてしまったようだ。会見では連発する〈正直〉と云う言葉の虚しさだけが響いていた。

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