goo blog サービス終了のお知らせ 

白井健康元気村

千葉県白井市での健康教室をはじめ、旅行、グルメ、パークゴルフ、パーティーなどの情報や各種コラムを満載。

ここで「ちょっと一休み」 【連載】藤原雄介のちょっと寄り道(100 最終回)

2025-06-07 05:30:33 | 【連載】藤原雄介のちょっと寄り道

【連載】藤原雄介のちょっと寄り道(100 最終回)

ここで「ちょっと一休み」

 

 


 68歳を目前に退職し、自由気儘な生活を手に入れた…筈だった。ところが、私を待ち受けていたのは、「ストレスのないのがストレス」という単調な暮らしだった。
 それでも、元々せっかちなくせに怠け者という面倒な性格の故だろうか、現役時代とは違って、「緩やかに流れる時間もそう悪くはない」と思っていたのである。とは言え、時が過ぎるにつれ、生活の芯がなくて、空虚を感じることが多くなったのも事実だ。そんなとき、白井健康元気村のブログ編集人、山本徳造氏からお声が掛かった。
 
「雄ちゃん、会社辞めてヒマやろ? ブログに連載せえへんか? これまでの海外体験、異文化との葛藤、酒や食い物に関するアレコレ、比較文化論なんか書いたら絶対おもろいで。いつもみんなと酒呑んでるときに話すような、あんな調子でええねん」
「エッ、なに言(ゆ)うてんの!? そんなん無理、無理!」

 と、こんな会話が3年に亘って何十回も繰り返された挙げ句、徳さん(普段、山本氏をこう呼んでいる)のおだてと褒め殺しの罠にまんまと引っ掛かり(嵌められ?)、根負けしてしまう。
 こうして令和4(2022)年7月30日に「真夜中のチンチェ」を寄稿することになった。そう、これが連載「藤原雄介のちょっと寄り道」の始まりである。マドリッドの安下宿(ペンション)でチンチェ(南京虫)に悩まされた体験を綴ったものだ。
 しかし、それがエッセイなどというものに全く縁がなかった私にとって、苦難の幕開けとなるとは……。
 現役時代、数え切れないほどの報告書や事業企画書などを書いては来たが、エッセイの類いについては、社内報や海外駐在地の商工会議所の会報などに何度か駄文を寄稿した経験くらいしかなかった。故に五里霧中、試行錯誤の連続であった。
 連載の回を重ねれば、取り上げるネタも尽きてくる。「エッセイの書き方」のようなハウツー本でも手に入れて勉強しようと思ったりもしたのだが、なんとなくそういうのは潔(いさぎよ)くない。そんな気がして、我流で通してきた。
 きちんとした執筆計画などは全くなく、行き当たりばったりで、思いつくまま過去の記憶をまさぐって読者に興味を持ってもらえそうな体験を語ったり、その時々の興味の赴くままに世相や気になる社会現象について浅はかな意見や感想を綴ったりしてきた。
 多くの日本の男たちと同様、私も家族に自分の仕事のことを語ることは殆どなかった。妻亡き後、娘たちや孫に、父(祖父)の足跡の一端を残しておきたいという気持も少しはあったような気がする。
 
 さて、前号「途方に暮れてフィンランド女性のアパートに」の続きである。
 パリでの最初の記憶は、ミラボー橋の上から見た景色だったような気がする。堀口大學の名訳で知られるアポリネールの詩『ミラボー橋』は、人生と恋の儚さを謳ったものだが、この詩の冒頭部分だけを私は諳んじていて、いつかミラボー橋の上からセーヌの流れを見てみたいとずっと思っていた。

ミラボー橋の下をセーヌは流れ
われらの恋が流れる
わたしは思い出す
悩みの後には楽しみが来ると
日も暮れよ 鐘も鳴れ
月日は流れ わたしは残る

 

▲ミラボー橋

▲アポリネールはフランスを代表した詩人、小説家、美術・文芸評論家

▲第一次大戦で頭部を負傷したアポリネール

 

 実際に私の目に映ったミラボー橋の上からのパリの街並みは、アポリネールが謳ったような叙情的なものではなかった。
 白或いは蜂蜜色の石で構成された整然とした美しい街並みに、当時(1973年)の雑然とした日本の風景と比べることさえできぬほど私は圧倒されたのである。美しくも威圧的なパリの街に私は拒絶され、屈辱感さえ覚えたと言ってもよい。
 その時、脈絡もなく16世紀から19世紀に掛けて何度か欧州に派遣された「遣欧使節団」の若きサムライたちのことが思い浮かんだ。1973年の日本人(私)でさえ、パリには打ちのめされたのである。彼らが受けた衝撃は如何程のものだったろうか。

 パリの物価は高く、毎日の食事は、バゲットと鰯の缶詰やハムですませていた。温かい食事は贅沢で、2日に一度くらい。それもきちんとしたレストランではなく「オートマット」と呼ばれるセルフサービスの店でだった。ホテルも裏町の最低の安宿である。
 もちろん、共同のシャワーも風呂も有料だ。シャワーだけか、湯船に湯を貯めるかで料金が違う。私は、シャワーを浴びるときにその湯を流さず、バスタブに貯めた。そして、垢と石鹸の泡が浮いた湯に身を沈めた。私が、シャワー代金を支払おうとすると、ホテルのオカミさんがまくし立てた。
「あなた、風呂に入ったでしょ。風呂の代金を払ってください!」
「いや、私は本来流してしまう湯をバスタブに貯めて浸かっただけで、風呂に入ったのとは違う。だから当然シャワー代だけで良いはずだ」
「何を言っているの!風呂に浸かったのは事実だから、風呂代を払いなさい!」
「冗談じゃない! 絶対にシャワー代しか払わない!」
 何とも底辺の言い争いである。しかし、貧乏学生の私は真剣だった。因みに、この論争で飛び交った言葉だが、オカミさんはフランス語訛りのスペイン語、私はまだ流暢ではなかったスペイン語であった。お互い、散々罵り合った結果、オカミさんは根負けしてシャワー代だけで勘弁してくれた。
 最終回の記念すべきエッセイなのに、何ともショボイ話題で締め括ることになってしまった。その後、パリには仕事で数十回は足を運んだ。「パリは最高!(傲慢な)フランス人さえいなければ!」という古いジョークがある。しかし、年々、パリは色褪せていく。(傲慢な)フランス人の数は減る一方なのに何故か。急増する移民により、風景も文化も変わってしまったからだ、と私には思える。
 この連載で主に取り上げてきたのは、主に1970年代初頭以降のおよそ50年間の個人的体験だが、その間に日本社会は大きな変貌を遂げた。高齢化、人口減少、農業の衰退、30年に及ぶ経済の衰退、移民の急増…。読者の皆様は多様な政治的信条をお持ちであろうから、できるだけ政治的なトピックは避けてきたつもりではあるが、それでもたまには、保守的な考えを披瀝することはあった。
 
 最後に、世の風潮に対する私見を述べてみたい。
 私は、様々な文化的背景を持つ人々とビジネスをしてきた。故に、相手を尊重し、相手の立場になって考えなければ理解し合うことはできない、と身に沁みている。以前にも紹介したが、英国では、これを ’Put yourself in someone else’s shoes.’ (相手の靴を履いてみよ)と表現する。
 しかし、米国(民主党)から直輸入したDEI (Diversity, Equity, Inclusion =多様性、公平性、包摂性)概念のゴリ押しには、辟易していた。DEIを錦の御旗にして、伝統や常識が軽々しく覆されていくことに我慢ならなかったのだ。トランプ大統領は毀誉褒貶相半ばする人物だが、彼が今年初め、DEIを強制するプログラムを終了する大統領令に署名した時には、快哉を叫んだものである。あれほど、DEIを礼賛していた日本のメディアも今は静かになった。

 

▲DEI法廃止の大統領令に署名するトランプ大統領(washintonpost.comより)


 日本の強みは、神仏習合に見られる如く、多様な価値を尊重しながらも、昔、鶴田浩二がある映画の中で語っていたように、「同じ日本人じゃないか!」という強烈な暗黙知の存在だと私は信じている。

 

▲パリで航空関連の国際会議に出席した筆者(2011年6月)

 

 今は「人生百年時代」らしいので、私なんかまだ若い! 面白くないことも多々あるだろう。でも、アポリネールが『ミラボー橋』で「悩みの後には楽しみが来る」と詠っているので心配していない。詩の最後は「月日は流れ わたしは残る」。そう、私の人生もこれからだ。 

 毎週一編のエッセイを書き続けてきた。時が経つのは早いものだ。気が付けば、もう100回目。最終回を迎えてしまった。その内、退屈の虫が騒ぎ始めれば、連載を再開することもあるかも知れないので、「ちょっと一休み」と思ってもらいたい。が、現時点では先のことは考えないことにしている。これまで根気よく私の駄文にお付き合いしてくれた読者の皆さんに心から御礼申し上げたい。それでは、また逢う日まで。
 

               

  

【藤原雄介(ふじわら ゆうすけ)さんのプロフィール】
 昭和27(1952)年、大阪生まれ。大阪府立春日丘高校から京都外国語大学外国語学部イスパニア語学科に入学する。大学時代は探検部に所属するが、1年間休学してシベリア鉄道で渡欧。スペインのマドリード・コンプルテンセ大学で学びながら、休み中にバックパッカーとして欧州各国やモロッコ等をヒッチハイクする。大学卒業後の昭和51(1976)年、石川島播磨重工業株式会社(現IHI)に入社、一貫して海外営業・戦略畑を歩む。入社3年目に日墨政府交換留学制度でメキシコのプエブラ州立大学に1年間留学。その後、オランダ・アムステルダム、台北に駐在し、中国室長、IHI (HK) LTD.社長、海外営業戦略部長などを経て、IHIヨーロッパ(IHI Europe Ltd.) 社長としてロンドンに4年間駐在した。定年退職後、IHI環境エンジニアリング株式会社社長補佐としてバイオリアクターなどの東南アジア事業展開に従事。その後、新潟トランシス株式会社で香港国際空港の無人旅客搬送システム拡張工事のプロジェクトコーディネーターを務め、令和元(2019)年9月に同社を退職した。その間、公私合わせて58カ国を訪問。現在、白井市南山に在住し、環境保全団体グリーンレンジャー会長として活動する傍ら英語翻訳業を営む。


この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« チグハグな日本の鉄道網 【... | トップ | 米中対立とレアアース輸出規... »
最新の画像もっと見る

【連載】藤原雄介のちょっと寄り道」カテゴリの最新記事