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【新連載】 赤い巡礼 チベット・ファイル① グレートゲームが始まった

2022-02-11 14:36:31 | 赤い巡礼 チベット・ファイル

 米ソ冷戦の一方の雄であるソビエト連邦が瓦礫のように崩壊したのは、31年前の1991年のことです。ソ連共産党も解散し、それまで西側世界の目に触れなかった門外不出の機密資料が次々と明るみに。「チベット・ファイル」も、そのうちの一つでした。

 このチベット・ファイルに注目したのが、フォト・ジャーナリストの竹内正右さんです。激動のインドシナで何度も命がけの取材を繰り返してきた竹内さんですが、チベットも熱心に取材してきました。

 そんな竹内さんが『文芸思潮』(2021年春号、アジア文化社)に「赤い巡礼―チベット・ファイル」を寄稿、ソ連・中国のチベット戦略を詳細に記したことから大きな反響を呼びました。

 ウクライナに触手を伸ばすロシア、ウイグルや香港での人権弾圧と軍備拡張に邁進する中国。そんな二つの軍事大国に隣接するのが日本です。チベットがいかにして強国の餌食になったのか。

 そこで竹内さんの迫真のドキュメンタリーを本ブログで転載することにしました。今回も含め5回の短期集中連載です。毎週金曜日に掲載しますので、お見逃しなく。なお、ブログ転載にあたって一部を加筆訂正し、読みやすいように、見出しも書き加えました。(本ブログ編集人・山本徳造)

 

【竹内正右さんの略歴】

フォト・ジャーナリスト。1945年、旧満州国吉林生まれ。早稲田大学では山岳部に所属。1970年に卒業後、ラオス、ベトナム、カンボジアの激動するインドシナを取材する。とくにラオスでは1973年から82年まで撮り続けた西側のフォト・ジャーナリストとして有名。1975年にビエンチャンが陥落するが、その歴史的瞬間に立ち会う。ベトナム軍のカンボジア侵攻を取材中の1979年、ポルポト軍に捕まる。その後、スリランカ暴動、フィリピンのアキノ暗殺とマルコス政権の崩壊、ビルマ・クーデター、天安門事件、チベットなどを取材。1989年からCIAに協力したラオスの少数民族、モン族を追ってアメリカへ。著書は『ラオスは戦場だった』(めこん)、『モンの悲劇』(毎日新聞社)、『ドキュメント・ベトナム戦争1975』(パルコ出版・共著)など。

 

 著作以外では、NHK・BSドキュメンタリー「ケネディの秘密部隊―ラオス・モンのパンパオ将軍」(1999年)、「ダライラマ亡命の21日間」(2009年)を制作・出演した。

 

 

【新連載】

赤い巡礼 チベット・ファイル①

竹内正右

 

 1991年、ソビエト連邦の崩壊。この崩壊であるものが発見された。
「チべット・ファイル」がそれだ。75年余り、このロシア語公文書に誰も触れることができなかった。KGBに依る廃棄を免れたこのファイルは、チべット史の欠落部分である。
 果たして、1918年―1930年代のソビエト・ボリシェビキ政権下、赤軍、コミンテルン、そしてスターリンはチべットで何をしようとしていたのか。限られたこれらの資料で追ってみた。

■グレートゲームが始まった

▲ロシアから見たモンゴル、チベット、中国。右下の黒模様はカスピ海、左下はバイカル湖

 

ドルジェフと「グレートゲーム」

 時は帝政ロシア。1890年末から1910年代の中央アジアの「グレートゲーム」、英国・ロシアの戦争に大きな影響を与えていたものは、スウエン・ヘディン(1901年巡礼を装い、チべットの聖都ラサ入りを試みるも失敗)、ヤングハズバンドらと同時期の、ロシアの地理学者、探検家たちだ。
 ポーランド系ロシア人の探検家、ニコライ・プゼバルスキーはその一人である。ロシア軍参謀でもあるプゼバルスキーも1879年にラサを目指すも、ラサ北部で追い返されてしまう。

 が、モンゴルに戻る巡礼団からラサ情報を得ている。その報告書の中で「モンゴル人、チべット人をジェノサイドし、奴らの土地を植民地にするのだ。この二民族をコサック部隊に仕立て、中国と対峙させろ」との言葉を残す。当時、巷間ではスターリンはこのプゼバルスキーの私生児ではないかとの噂が広まった。
 地理学者のピョートル・コズロフは、戦時省の参謀でもあった。
 この時代、帝政ロシアとチべットを往来していた人物がいる。ロシアのブリヤート人(モンゴル人)僧侶、アグワン・ドルジェフだ。モンゴル名は、ロザン・ガワン。1878年、19歳の時にラサ入りし、デブン寺で15年間仏教修行を続けた。その後、帝政ロシアのチべット全権大使となり、チべットのダライ・ラマ13世の家庭教師の一人となった。13世とロシア皇帝との間の重要な役割を担うことになる。

▲▼ドルジェフ

《グレートゲーム》19世紀から20世紀にかけて、領土拡張を図るロシアとイギリス――汎スラブ主義と汎ゲルマン主義の角逐が世界各地で起こった。このうち、中央アジア――カザフからトルキスタン、イラン、アフガニスタン方面へのロシア進出は、インドでの権益への脅威であると捉えたイギリスとの厳しい対立を生むことになり、両国関係は悪化した。イギリスは先手を打ってアフガニスタンに侵攻し、アフガン戦争が起こる。このアフガニスタンをめぐる英露の駆け引きが「グレートゲーム」といわれた。

 

《ブリヤート(Buryat)》 バイカル湖の南東部一帯に30万人が住む。ウラン・ウデが中心。1917年の「10月革命」後、ソビエト共産党の反宗教運動で4万から5万人の僧侶が投獄、処刑さる。仏教寺44が破壊された。砲撃で破壊された寺も。ブリヤート人中心の反革命軍を組織し、共産軍と戦闘を繰り広げた。

 

 1896年、ロシア皇帝ニコラス2世はドルジェフにラサでエージェント活動をしているバドマエフ(ブリヤート人のチべット医学士)に会うよう進言した。
 1898年、ロシアのセント・ペトロスブルクに戻ったドルジェフは皇帝に
接見。ドルジェフはこの1890年代「ロシアは北方のシャンバラの国――仏教保護国」説を広め始めている。
 1900年春、再び皇帝に接見。その後、ラサに戻るドルジェフ一行が携行していたのは、「ダライラマ13世への贈り物」のロシア製武器、弾薬であった。
 1901年、ラサ西部シガツェのタシルンポ寺へ。パンチェン・ラマ9世に会い、ロシア皇帝からの黄金像を寄贈。9世から伝わるシャンバラの教えを授かる。

 

《巡礼団の記録》1901年6月18日付のロシア紙「ノーブイ・ブレ―ミヤ」がこの巡礼団の遠征を記録。ドルジェフの名前と共に、「ロシア軍の将校も同行」と記している。

▲ヤングハズバンド

 1903年初め、こんな動きを見せるドルジェフの存在に英インド総督のロード・クルソンと英軍のヤングハズバンドは「ドルジェフは帝政ロシアのエージェントでは」「ロシアとチべットの間で秘密取引をしているのでは」「インドにおける我々の利益を損ねる為、ロシア人をチべットに浸透させ、英国とのグレート・ゲームを企んでいるのではないか」と疑心暗鬼の姿勢を見せた。
 後年、ダライ・ラマ14世はこの当時のドルジェフをこう述懐している。

「明らかに13世はロシアとの関係樹立を最も望んでいた。13世は最初英国との良い関係を望んでいた。そこへドルジェフが現れた。英国にとっては、彼がスパイと映った。が、ドルジェフはまじめな僧侶で、13世の家庭教師の一人であり、13世に大きな貢献をした。英軍のチべット侵攻、ラサ制圧(1903―1904)で、ドルジェフは13世を伴い、モンゴルのウルガ(ウランバートル)に退避させたのだ」
  これに対し、英領インドは1864年から1865年にインド調査局(SOI)がインド人12人余りを訓練し、チべット未踏地帯の地図つくりを進めていた。「もう一つの戦争」の始まりだ。
 最初のインド人3人が、巡礼者や交易人、そして地質調査員を装い、チべット入りを果たしていた。1866年のナイン・シン、1878年のクリスナー・シン、1882年のサラ・チャンドラ・ダスだ。英人の代用兵力としてインド人が投入されたのである。
 
英軍のラサ制圧
 
 1903年、英軍はチべット西部のギャンツェに侵攻。1904年8月2日には聖都ラサを制圧した。英軍はシッキム人主体の3000人、ラクダ荷役人が7000人。西部グルの戦闘で、武装したチべット僧700人が亡くなっている。

《英国人政治顧問のホワイト》この英軍に参画した政治顧問のジョン・クロード・ホワイトがラサまでの行軍を写真に収めていた。2013年、親族が100年ぶりにネガフィルムを見つけて公開。野営する英軍、迫撃砲を繰る兵士、ヤングハズバンドの姿、ヤク牛とシッキム兵、エベレスト、そしてラサのポタラ宮殿などが記録されている。


 英軍のラサ制圧前の1904年1月、ロシア皇帝ニコライ2世はアレクセイ・クロポトキン将軍から秘密の伝言を受けた。「情報収集の密使を送った。ウラノフ中尉のドン(コサック部隊)だ。カルムイク人の僧ウリャノフと通訳を伴う」
 この中尉は行軍中に病死するも、部隊は1905年5月にラサ入りを果たす。

 

《カルムイク人(Kalmyk)》オイラート系モンゴル人。元はカスピ海の北西部に居住していた。1920年にボリシェビキの拡大で、多くのカルムイク人はユーゴやブルガリアへ。故郷に留まったものは、スターリンの集団農場制に抵抗を続けた。が、スターリンの反宗教運動で、僧侶の投獄、処刑が拡大、寺も破壊された。1942年、ナチスドイツがカルムイクの土地を制圧。5000人のカルムイク人がナチス側につき、赤軍と戦った。赤軍側には2万3500人のカルムイク人が従軍していた。1943年末、カルムイク人へのシベリア強制移住で、1万から1万6000人が凍死、餓死した。

 

▲①クリミア・タタール人 ②ヴォルカ・ドイツ人 ③カルムイク人 ④カラチャイ人とバルカル人 ⑤チェチェン人とイングーシ人

 

日本人僧侶たちとドルジェフ

 日本人僧侶の一人、河口慧海がこの時、ラサの寺で修行中であった。
『チべットの三年』の著者である河口慧海のラサ滞在は、1900年1月4日から1902年6月15日までである。が、足しげくロシアとラサを往来するドルジェフとは、直接の出会いはない。
 チべット人僧侶たちから「ロシア人(ブリヤート)軍人の存在」を耳にした河口は、英国の情報エージェント、インド人のサラ・チャンドラ・ダスに一報。この河口の報告に大変驚いた英領インド総督クルソンは、ロシア拡大主義の現れと捉え、英軍のヤングハズバンドにチべット制圧、交易独占を命命ずる。英軍のチべット侵攻、ラサ制圧は、こうして早まった。
 河口慧海に遅れて、1911年にラサ入りした青木文教は、セラ寺で修行することになる。その青木の著作『西蔵問題』の中でドルジェフに触れている。「怪傑ドルジェフ」の形容で、ドルジェフのラサでの行動を描写しているが、両者の接触は一度もない。青木は日本軍のマニュアルをチべット国軍に教え、チべット国旗に日本海軍旗のデザインを採り入れた。
 その後の矢島泰一郎(ラサ在1913-1919)は、日露戦争の体験もあり、日本軍の訓練様式をチべット国軍で教えている。が、ドルジェフとはすれ違いだ。
 ただ一人、寺本婉雅のみが1908年にデブン寺入りした折にドルジェフと会話をしている。日本の東本願寺からの日本人僧侶の受け入れを申し出たのは、ドルジェフ自身であった。

 
《軍の練兵場》 かつてのチべット国軍の練兵場は、2021年の今、拘束されたチべット人僧侶、尼僧たちの「労改(労働改造所)」となり果てている。ラサ最大の「ダプチ収容所」がそれである。

▲チベット国軍(「ライフ」誌 1959年撮影)

 

ポタラ宮殿を世界で初めて撮影した
ブリヤート人、テイビコフ

 河口慧海がラサ入りした同じ1900年、ロシアのブリヤート人青年僧のゴンボジャ・テイビコフがラサ入りを果たした。が、この「ラサ巡礼」には大きな目的があった。
 1895年、ぺテルスブルク大学で東洋学を勉強中、帝政ロシアの外務省情報局に目をつけられたテイビコフは、ロシア地理学会のチべット探検行の一人に選ばれた。地理学会からフランス製小型カメラ「セルフワーカー」を手渡される。1898年、チべットのダライ・ラマ13世がぺテルスブルクを訪問した折、ドルジェフから指導を受ける。この巡礼行の目的は「英国からチべットを守るため、帝政ロシアがチべットの保護者となるべきと説得するため」だった。
 1899年11月25日、ロシアを出発。カメラを祈祷用の仏具に隠したテイビコフは、難航苦行の末、1900年8月にラサ入りに成功した。1901年2月4日にダライ・ラマ13世に接見。その後、チべット人警備兵の目を盗みつつラサの街中へ。当時カメラは許されない禁断の聖都。テイビコフはついにポタラ宮殿の撮影を果たした。
 ロシアに帰国後の1905年1月、『ナショナル・ジオグラフィック』に写真を公表、世界を驚かせた。何より英国人が驚いたことは、ラサから帰国後の1903年、ロシア地理学会で「中央アジアについて」の講演をしたことだ。英国は先を越された。
 テイビコフは講演で、「ブリヤート人の自分がチべットに関心を持つのは、帝政下のブリヤート人50万人、そしてカルムイク人の利益のためである。自分のラサ巡礼は経済的動機でも、軍事的、地理学的動機でもない」と話している。
 また、ラサ巡礼の自分の役割は、野外活動としての情報収集、帝政ロシアの特務としてチべットの地理、政治経済、大衆の生活情報収集、アムドのクンブム寺でダライ・ラマ13世とパンチェンラマに会う、ことなどを公にした。
 が、このテイビコフの運命も1917年10月の共産革命で大いに変わる。
 極東のウラジオストックから急遽ブリヤートに戻ったテイビコフは、民族と仏教を守るため「ブリヤート民族委員会」に参加。この反ソ・反革命行動を非難され、1930年に病死した。
 同時期にバラデインもラサを目指したが、アムドで追い返されている。バラデインは1937年、反ソ・反革命罪で射殺された。

 

《テイビコフの日記》 当時29歳のテイビコフはラサ巡礼の日記(1901年9月10日ー1902年5月2日)を残している。

 故郷からモンゴル―東部チべット・アムド―ラサのコースの日々の記録。写真記録は隠し撮り故、全く人間が写っていない。ラサのジョカン寺は、寺そのものが写っていない。カメラは御発度なのだ。

 が、1917年の共産革命で、これらテイビコフの日記、写真記録は、ソビエト政権の宝物になったに違いない。チべット共産化工作の戦術に欠かせぬものとなった筈だ。

 

日露戦争の敗北(1904-1905)

 極東でのこの戦争の敗北で、帝政ロシアはチべット支援を拒むしか道はなかった。追い打ちをかけるように、ロシアとラサの間のコネクションは徐々に遮断されていった。
 1906年英・清条約が署名され、「チべットの主権」は守られた。翌年の
1907年、英・露協商が署名され、ロシアの関心はロシア内の仏教徒のみへ。
 英国はチべットの政治、経済の権益を狙いだす。チべットは一転、英国の保護下に関心を持ち出す。1909年末、ダライ・ラマ13世はラサに戻るも、再び清軍がチべットに浸透。翌年初め、13世はインド北部のダージリンに脱出し、英国に保護を求めた。

 1911年の辛亥革命で清朝は崩壊。1912年、チべットは清軍を追放し、清国からの独立を宣言する。同年8月、13世はチべットの聖湖ナムサロワのサムディン寺でドルジェフと再会できた。が、これが最後の別れとなった。1933年、13世が逝去したのである。
 1913年12月29日、モンゴルの首都ウルガで「モンゴル・チべット友好協定」が署名された。署名者にドルジェフの名前も。が、英人外交官のチャールズ・ベイリーは、「ダライラマ13世はドルジェフに署名の権限は与えていない」と述べる。

《モンゴリアン・テキスト》 1982年発行の同テキストには、2人のチべット人、2人のモンゴル人、そしてドルジェフが署名している。

 1913年12月29日、モンゴルの首都ウルガで「モンゴル・チべット友好協チャールズ・ベイリーは「ダライラマ13世はドルジェフに署名の権限は与えていない」と述べた。(つづく)


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