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【連載】赤い巡礼 チベット・ファイル③ ラサ巡礼が始まった!

2022-02-25 05:17:46 | 赤い巡礼 チベット・ファイル

【連載】赤い巡礼 チベット・ファイル③

竹内正右

 

■ラサ巡礼が始まった!

 

最初の「巡礼」でダライ・ラマ13世に接見

 ブリヤート人僧侶のドルジェフは1918年、ロシアの故郷に仏教寺を建立した。しかし、文化物を輸出したかどで秘密警察(チェーカー)に逮捕される。
 ドルジェフに死刑の判決が下されるが、ぺテルスブルクの古い友人たちの手で死刑を免れた。
 この年、革命政権の外務省人民委員会は、チべットのラサに使節団を送る構想を練り出す。いわゆる「ラサ巡礼」である。準備するには、ドルジェフは欠かせなかった。。
 この計画は1919年、東洋学者のブラビンが代表の外交団を装い、チべットを抜けヒマラヤ越えして、英領インドに送り込むというものだ。人民委員会のヒョウドレの企てである。
 科学探検隊をも装った使節団には、インドのベンガル湾に下り、インドに革命運動を起こさせる意図もあった。
 道中、インド北東部の人々に近代兵器を与え、反英闘争を強化させる狙いである。この計画にレーニンも同意した。
 1921年9月13日。探検隊を装うラサ巡礼行が計画された。共産革命を遂げて3年目で最初の企てだ。コミンテルンのモンゴル・チべット部書記長のセルゲイ・ボリソフ(オイラート系モンゴル人)を団長とする9人の一団である。
 赤軍のコサック兵ウラノフも含まれていた。ブリヤート人とカルムイク人の合体だ。このラサ巡礼の目的は、ダライ・ラマ13世をソビエト政権側に引き込むことが第一である。そのために金や銀製の皿などの土産物を用意した。
 しかし、この計画はあえなく頓挫する。こうして最初の「ラサ巡礼」は幻に終わった。

 翌1922年、赤軍司令官で、コミンテルンのモンゴル・チべット部代表のコム二コフ(カルムイク人)がチベットのラサを目指す。
 一行は出発前、自動小銃、手榴弾、そして弾薬などを準備した。不足する1500丁のライフル銃は、ラサまでの道中に現地人から仕入れていた。
 なぜ外交団は武器弾薬を用意したのか。チベットのダライ・ラマ13世側からの要請があったからだ。
 外交団はダライ・ラマ13世との初の接見に成功し、ラジオセット1台を贈呈する。が、13世は英国の反応を恐れ、モスクワに特使を送るのには同意しなかった。
 1922年末に帰国したコム二コフは、その報告書「チべット人との戦争を」の中で「英国はチべット侵攻をする意図があり、敵意をむき出しにしている。ラサにモンゴル軍を送るべきだ。チべット国軍の指導官は全てシッキム人だ」と記している。1923年には、このラサ巡礼を支えた僧侶ドルジェフを讃える論考「赤い巡礼団(Red Pilgrim)」が掲載された。

ダライ・ラマ13世からドルジェフへの手紙
24通の極秘の手紙が最近公開された

▲ダライ・ラマ13世

 ところで、ダライ・ラマ13世がドルジェフに送った極秘の手紙24通が、最近になって公開された。そのうちの1通には、次のように書かれている。
「赤いロシア人たちへの批判についてのニュースに関し、私の考えは変わることはない。赤いロシア人が大いに仏教を破壊したことも、当地に多くの噂が伝えられている。また、貴方も彼らの立場にあることも。私はこれらの噂を真実とは思わない。心配は御無用である。赤いロシア人たちは、キリスト教と対抗しようとしている。彼らの多くは、やがて仏教を敬うようになる」
 コム二コフ探検隊こと、「赤い巡礼」一行が初めてラサに到着した時、ソビエトのペトログラードの仏教寺で、赤軍兵士によってダライ・ラマ13世の暗殺されたという噂が流れたことに触れ、「寺はチべットとロシアの友好の象徴として、ドルジェフのたゆまぬ努力が讃えられた」とある。
 1924年末、セルゲイ・ボリソフを団長とする巡礼を装う一団が、モンゴルのウルガを発った。が、すぐに英国の諜報員チャールズ・ベルに見破られ,引き返すことになった。
 同年、シッキムの政治顧問の英国人ベイリーと英国のエージェントのラデンラは、13世を引きずり下ろし、チべット国軍司令官ツァロン・シャープを擁立するクーデター計画を準備した。
 ダライ・ラマ13世は翌1925年、ツァロンを解任する。自分へのクーデター、テロ容疑であるのは言うまでもない。チべットをめぐり、英国とソビエトの対峙がピークに達していた時だ。
 親英のツァロンの立場を明かす新しい資料があるので、紹介しよう。
「ツァロンは、我々の頭は英国人と共にあり、心はロシア人と共にあると述べたり、驚くべきはボリシェビキの主義・主張さえも」
 ラサ巡礼を装う、怒涛の如く浸透する一団の故である。

▲ドルジェフがペトログラードに建立中の仏教寺

 

第2回ラサ巡礼でカリーニンの親書を

 1925年、ボリソフ(モンゴル名=テイレン・ドルジ)を代表とする一団がラサ入りした。ボリソフはソ連国家主席のミハイル・カリーニンの親書を手にしていた。
 13世に接見できたものの、これ以上の成果は得られずに終わったが、ドルジェフが13世を説得したことで、ようやくモスクワのコミンテルン大学にチべット人を送ることができた。こうして1928年までに10余人がモスクワへ向っている。
 ボリソフ一団が帰国した1925年5月、モスクワでは第2回コミンテルン会議が催された。会議にはメキシコから合流したインド人共産主義者ロイの姿が。この会議でスターリンは、対インド戦略・英領植民地分析の演説をしている。
 同年12月、チべット共産化工作の要であるソ連外務省のチチェリン外相は、ラサにソビエト代表部を設置しようと企てた。外務省のアラロフは、英国への警戒心を呼び掛ける。
「チべットの中枢を英国が掌握する前に、どんな手段であれ攻撃的にする必要がある。緊急にラサに非公式の代表を投入し、13世と対話をせねばならない。モンゴル人を巡礼団と装わせるのだ」
 1928年の秘密警察(チェーカー)の報告書には「チべット大衆とその統治者は、ソビエトのモンゴル人に対し友好的だ」と記されている。
 
英国の暗躍を目の当たりにしたラサ巡礼団

 1927年4月、モンゴル外務省高官のコンポ・エシェを代表とする一団がラサ入りを果たす。ライフル銃20丁、自動小銃2丁を携行した赤軍のビムバエフ、チャプチャエフのカルムイク人2人も加わっていた。
 巡礼団を装うこの一団がラサ滞在中、チべット政府との間に不穏な空気が漂い、対話も途切れた。ダライ・ラマ13世がこの一団の受け入れに同意しなかったからだ。13世はソ連国内の仏教徒に対する迫害について糺し始めた。
 13世はドルジェフから秘密の手紙を受けとる。一団はラサの西部のシガツェに足を延ばし、パンチェン・ラマの居城タシルンポ寺を訪ねた。
 赤軍のビムバエフはシガツェのドテ地区で西欧製の銃や、チべット製の自動小銃などを目にしたので、隠しカメラで200枚余を記録している。ビムバエフの報告書には、こう記されていた。
「チべット国防相はドクバ・トンバという人物だ。チべット国軍は正規軍ではない。西欧人が訓練している。カンパ、ドクパ、ホルパの混合である。武器は貧弱で、荒々しい集団だ。南のギャンツェの砦には貿易商人を装う150人ほどの英国人がいた。彼らはゴバン・ダバンの工場でライフル銃を製造している」
 もう一人の赤軍幹部、チャプチャエフが赤軍総司令部に宛てた報告書「チべットの戦争手段」では、チべット国軍を潰す意図を分析している。

 英国がボルシェビキ・ミッションと形容したこの一団の役割は、以下である。

 ①ラサ―モスクワ間の連絡網の創設。甘粛省の蘭州府のソビエト領事館を利用
 ②情報収集の拡大―チべットの対英政策
 ③ダライ・ラマ13世をリーダーとする国家機関への支持準備
 ④チべット・モンゴル友好協定への準備・結論の根拠(1912年12月ドルジェフが署名)
 ⑤チべットへの軍事支援交渉・軍事指導官やチべット軍への武器供与、ソ連やモンゴルでのチべット人への軍事訓練
 ⑥チべット経済の調査と実行。輸出入商行為の組織化
 ⑦インドの「仏教運動」組織との接触・チべットの「国家解放闘争」・と連携させるため

 ソビエト政権からの巡礼団が自衛のためと称して携行して来た武器は、チべット側が取り上げて13世の「夏の宮殿」であるノルブリンカに保管した。英国のエージェントは、このソビエト製武器にとりわけ注意を払ったという。
 こうした巡礼団の動きは逐一、チべット人の秘密エージェント網で13世の下に報告されていた。ソ連側の期待に反し、ラサの空気が非友好的なものとなったのは言うまでもない。

▲ノルブリンカ(ダライ・ラマの夏の宮殿)。1959年3月17日、ダライ・ラマ14世はここから脱出してインド国境に向かった

 

ドルジェフからダライ・ラマ13世に宛てた秘密書簡

「私は老いた。すぐに死ぬだろう。以前のように、モンゴルは平和ではない。政府は宗教と僧侶に対して破滅的だ。彼らは救いようがない。どうか巡礼団には何もしないで頂きたい。私は彼らの13世へのボルシェビキ・エージェントの目的を書かねばならない。しかし、巡礼団が何をしたとしても、この手紙を気になさらないでください」

▲公開されたドルジェフのモンゴル文字の手紙


  ドルジェフは13世にモンゴル人巡礼団に最高のもてなしを与えてくれるよう要請していた。ドルジェフは、モンゴルの大きなチべット人社会を危険に晒したくなかったのである。また、13世はモンゴル中央銀行に巨額の資金を預けていたので、それを失いたくなかった。
 13世は巡礼団に、市内をめぐることや情報を集めることを許したが、巡礼団は監視下に置かれていた。
 ついにモンゴル巡礼団は、13世との接見を許されたが、接見後はすぐにラサを離れることを約束させられてしまう。
 こうして、モンゴルを通じて、赤いロシアとチべットとを結ぶボルシェビキの計画は成功した。
 しかし、赤い巡礼団は空手のまま本国へ帰らざるを得なかった。ロシア人が望むようにはダライ・ラマ13世はならかったのである。それは英国も、そして中国も同じであった。

《ビムバエフ》ラサ巡礼参加の唯一の生き残りのビムバエフは、ソ連崩壊後の1993年にロシア人歴史家アンドレエフのインタビューを受けている。そのインタビューで「カルムイクの私は、赤軍司令部情報局からスカウトされた」と証言している。92歳。

 

「赤いモンゴル」とソビエト軍情報部

 1928年2月28日、コミンテルン活動家のボリソフを代表とし、赤軍のァラシ・チャプチャエフ、クリモフなど14人の巡礼団がラサに向かう。第4回ラサ巡礼である。
 ドルジェフは党中央委員会に、ソ連国内のモンゴル人のブリヤート人、カルムイク人で構成したラサ巡礼団を提案し、スターリンの同意も得ていた。党には、ダライ・ラマ13世を懐柔する意図があった。 
 そして、同年6月にはソビエト軍情報部(OGPU)の将校、ポロテを代表とした第5回巡礼団がラサ入りを果たす。一行はドルジェフの修行寺であるデブン寺に泊った。

▲ドルジェフ、寺本らが修行したデブン寺。文革時代の破壊後はそのままだ

 

 ポロテは「ボルシェビキ・ソビエトとチべットとの友好を」と当たり障りのない挨拶をしている。ちなみに、軍情報部はインドにもエージェントを送っていた。
 同月29日、党中央統制委員会と反宗教委員会は、スターリン宛にラサ巡礼の重要性を強調する手紙を送る。
「反動者のブリヤートとカルムイクのラマ僧どもが、チべットの宗教センターで抵抗しています。ダライ・ラマ13世をソビエトに招くメッセージを送ってはどうでしょうか」
 第5回巡礼団にも参加したモンゴル・コミンテルン創設者のアマガエフも、
「赤いモンゴルは、中央アジアの革命推進の橋頭堡となるべく、未だコミンテルンが浸透していないチべットとアムドを要にボルシェビキ化を進めなくてはならない」
 と報告した。(つづく)

 

【竹内正右さんの略歴】

フォト・ジャーナリスト。1945年、旧満州国吉林生まれ。早稲田大学では山岳部に所属。1970年に卒業後、ラオス、ベトナム、カンボジアの激動するインドシナを取材する。とくにラオスでは1973年から82年まで撮り続けた西側のフォト・ジャーナリストとして有名。1975年にビエンチャンが陥落するが、その歴史的瞬間に立ち会う。ベトナム軍のカンボジア侵攻を取材中の1979年、ポルポト軍に捕まる。その後、スリランカ暴動、フィリピンのアキノ暗殺とマルコス政権の崩壊、ビルマ・クーデター、天安門事件、チベットなどを取材。1989年からCIAに協力したラオスの少数民族、モン族を追ってアメリカへ。著書は『ラオスは戦場だった』(めこん)、『モンの悲劇』(毎日新聞社)、『ドキュメント・ベトナム戦争1975』(パルコ出版・共著)など。

 

 著作以外では、NHK・BSドキュメンタリー「ケネディの秘密部隊―ラオス・モンのパンパオ将軍」(1999年)、「ダライラマ亡命の21日間」(2009年)を制作・出演した。


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