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【連載】赤い巡礼 チベット・ファイル⑤ 中国共産党のチベット侵略

2022-03-11 07:10:33 | 赤い巡礼 チベット・ファイル

【連載】赤い巡礼 チベット・ファイル⑤

竹内正右

 

■中国共産党のチベット侵略

▲中国軍のラサ攻撃に使われたミグ19戦闘機と中国人民解放軍兵士。後ろがポタラ宮

 

ダライ・ラマ13世とクレムリン外交の瓦解

 チべットにおけるソビエト・ボルシェビキ外交の時期は、1925年から1927年をピークとする中国の革命運動の高揚と一致する。ソビエトの主たる目的は英国のチべットへの政治、経済の浸透を排除することであり、チべットの近代化にはさして興味を示さなかった。
 ソビエトのチべット外交の主幹は、英国嫌いのチチェリン外相である。1907年の英・露協商会議でチべットは英国の支配下に置かれた。ソビエト秘密外交でチべットを外国勢力の手から救うために、チチェリンは1918年から1930年にかけて外務省の長として奔走した。
 その主たるターゲツトはダライ・ラマ13世である。親ソビエトにさせることだった。13世の右腕の国軍司令官ッァロンも同じだ。が、英・露が競合する中、13世は「赤いロシア」と関係を早めることはなかった。
 ソビエトを支援者とする中国革命が国境に迫っていたからである。モンゴル人民共和国を例に、チべットの運命はソビエトの同盟者として中道政策をとるしかなかった。
 英・露のライバル同士のバランスを取り、チべットの独立を維持する為に13世の反帝国主義戦略はかくのごとくユニークなものとなった。中央アジアの孤高の国家政治の象徴として歴史を刻んだ。
 が、1927年のチャパエフのラサ巡礼時に、ソビエト・チべットの対話が決定的に瓦解した。その要因はスターリンの国内での仏教抑圧政策にあった。
 13世はとりわけ、ソビエトの宗教制度に疑念を抱いていた。寺院内の学行から18歳以下の僧侶を除外したからである。ソビエト内の仏教組織への危惧でもあった。1929年、スターリンは自らの集団化強制政策に対し、仏教徒の中に反動者がいると唱えだした為、モスクワとラサの対話は不能に陥る。
  
隔絶したチべット

 ソビエトが味わった現実のチべットの状況はどんなものなのか。
 そこには、原始的経済で産業の皆無、ソビエトが好むプロレタリアートは存在せず、マルクス主義の階級闘争を広める余地もない。コミンテルンの活動の場はどこにもない処なのだ。
 ボルシェビキ運動の道への大きな障害は、二国が遥かに隔絶していること、そしてチチェリンがラサにソビエト代表部を設置し、ポタラ宮殿にラジオ・テレグラフを敷設しようと企てるも失敗に帰したことである。ソビエトは、チべットを主権国家であると認めざるを得なかった。こうして、ソビエトのチべット秘密外交は跳ね返された。

 ソビエトにとってチべットの価値は、「インドに跨る長大な国境線を抱える唯一の戦略上のものだ。ソビエトの興味はチべットを横切り、南方との連絡網の確保である。インドにつなぐ南チべットの空軍基地は、究極的に対インド防衛に利用するため」(ソビエト情報総参謀)のである。

▲1965年、チベット自治区設立の背後で大きな破壊が行われた。標高4240mにあるガンデン寺もその対象に

▲青木文教も修業したセラ寺の壁には、紅衛兵が書いた「毛主席万歳」の落書きが

 

コミンテルンの触手は極東へ

 1917年の十月革命は、ソビエトと中国のコネクションを断絶させていた。が、そのコミンテルンの触手は南のチべットのみならず、同時進行の形で中国をも狙っていた。

 これまで「1920年春に中ソ国境の閉鎖が溶かれ、ソビエトとコミンテルンのエージェントが中国に投入された」と分析されていたが、最近の研究では「1928年春-1921年」との見解が広まっている。
 しかも、これまで多くの歴史家が想像してきた純粋なボルシェビキではなくメンシェビキ、アナーキスト、そして前ロシア皇帝下の官僚さえも含んでいた。ロシア人のみならず、多くの人種、民族が加わり、中国内で活動をしていたのである。
 その一例として、第一次大戦時の戦争捕虜や、帝政ロシア時代の中国人労働者、西欧やアジア諸国からの共産主義者も顔を見せる。これらのエージェントが姿を見せる前には、中国にはマルクス主義者も共産主義者も不在であったのだ。
 1918年と言えば、ソビエト外相チチェリンが「ラサ巡礼」を提案した年である。

 こうして、1919年から1922年にかけてソビエト共産党中央委員会とコミンテルンが中国共産党創設の役割を果たす。中国共産党の創設は中国人の単独事業ではないのである。ロシア十月革命、ボルシェビキの世界革命戦略、コミンテルンの極東への共産主義勢力拡大、の3要素が不可欠であった。
 党創設後の1923年に開催された中国共産党第3回全国代表大会(党大会)で、チべットをモンゴル、新疆(東トルキスタン)と共に中国の財産とみなした。共産党は1928年、国民党との国共合作が瓦解してレーニン主義に傾斜、1930年の上海会議では少数民族の権利を停止した。
 1931年の憲法会議は、コミンテルン委員と28名のボルシェビキで知られる委員で占められるほどコミンテルンの影響下にあった」のである。劉少奇はこう証言した。

「ボルシェビキが成功させた十月革命後に、中国共産党は創設された。そこには既にモデルが存在する。早い時期からレーニンの原則に従つたコミンテルンの指導の下、中国共産党は創設された」
 つまり、1949年10月の中華人民共和国樹立は「十月革命の延長」そのものなのである。

 この流れは、そしてインドシナ三国に向かう。1947年9月のコミンテルン会議における総書記ゲオロギ・デミトロワの声明内容は、2年後のハノイに登場する。
 1949年1月のベトナム共産党委員会で、チュオン・チン書記長は同じ言葉を述べた。
「戦いこそ、勝利を呼ぶ。ラオス、カンボジア戦線への軍事部門、政治部門の確立を。そのために秘密指令とする必要がある」

▲1982年4月のラオス人民革命党第2回大会でのチュオン・チン(前列中央)

▲革命肖像で埋まったラオスの首都ビエンチャンの広場。翌朝、多くの市民がメコン川を泳いで脱出した

 

 フランスの特務機関の公開資料は、次のように明示している。

「ホーチミンはコミンテルンのナンバー19で、Lucienなどのいくつもの匿名を持つ人物であり、ラオス戦略の重要さを誰よりも知っていた者として、ラオス西部戦線/秘密コード(Ban Cán Sự―ベトナム労働党ラオス事業委員会)の確立は至上命令であった」

 1940年代後半の、中国の内戦の没発と英領インド帝国の崩壊は、チべットに独自の主権政策をとらせる運命的な結果をもたらした。
 ソビエトは1937年から日本と対峙する国民党の蒋介石を支持するようになる。毛沢東の共産党と蒋介石の国民党の2つの力を巧みに操りだしたのだ。スターリン特有の戦術である。

 この戦法の前例は、1920年代のソビエト赤軍、コミンテルンの「ラサ巡礼」にある。
 ラサの大衆に親ソビエトを浸透させる為、「反英、反帝国解放運動」などを組織化する計画を立てた。これらの組織を中国南部の主たる革命勢力の、国民党とリンクさせようとの意図であった。

▲ポタラ宮の最上階に掲げられた五星紅旗


 1949年初め、国民党は満州で敗北しつつあった。
 その間隙を抜け、中ソの国境を潜行した一団があった。ミコヤン外相が率いるクレムリンからの密使である。会うのは、初対面の毛沢東だった。場所は極秘の拠点、西柏坡。二人の極秘の会話は連日続く。
 モスクワには陸路か、それとも空路か。空路は敵機の的になる恐れがある。陸路も国民党の暗殺団がどこにもいる、など話は尽きず。
  1949年末、毛沢東が変装し秘密裏にモスクワに向かう直前、スターリンはソビエト空軍を中国に派遣する。1万人の中国人民軍兵士と食糧を空輸、チべット東部で投下作戦を展開させるためだ。毛沢東のスターリンとの会談は実現し、1950年1月22日にはスターリンに「チべット攻撃の準備をしているとは。それはいい。チべット族は従属させろ」とまで語らせる。2月には中ソ軍事同盟を締結し、朝鮮戦争に参戦する土台作りを遂げていく。
 1950年10月の中国人民軍の本格的なチべット攻撃でも毛沢東に進言したように、中国共産党の指導者たちの政策決定にスターリンの意向が強く反映しているのが分かる。
 1920年代、「ラサ巡礼」を装う赤軍、コミンテルンを投入するも、スターリンはチべットの共産化工作を完遂することが出来なかった。その怨念を晴らすかのような言動である。
 チべットの人々とダライ・ラマ13世は、ソビエト・ボルシェビキ政権に大きな痛手を負わされたが、究極的に跳ね返した。ところが、チベットは中国共産党と毛沢東という新たな存在と戦うことになるのだ。(終わり)

 


■参考資料・引用文献

「西蔵問題」青木文教外交調書(慧文社)
「中国の少数民族教育と言語政策」岡本雅享(社会評論社)
「ロシアのオリエンタリズム」カルパナ・サーヘニ―(柏書房)
「スターリンの捕虜たち」ビクトル・カルポフ/長勢了治訳(北海道新聞)
・Soviet Russia and Tibet  The debacle of secret diplomacy 1980-1930s by Alexander Andreyev
・Russian Buddhist in Tibet from the end of 1930  by Alexander Andreyev
・KGB files from archives of ministry of security of republic of Buryatia and Kalmykia  2001
・For the full text of Agvan Dorjiev of testament  1992
・Russia and Tibet  A history of tsarism soviet and post soviet policy 22006 by Alexander Andreyev
・British intelligence on china in Tibet 1903- 1950    2002
・A secret Kalmyk mission to Tibet in 1904 
・Comintern and revolution in Mongolia 2003    by Iryna morozova
・Historical  dictionary of Mongolia    by Alan j.k sanders 2017 
・Great game in Tibet   Espionage history archive from SVR by Mark hackard
・The origins of chinese communist party and role played by soviet russia and Comintern  2000   by  Liu  Jianyi
・Gulag and Laogai   The function of forced labour camps in soviet union     china  2012
・French secret services  1995     by  Douglas Porch
・Tibet through Eyes of a Buryat    Tsybikov
・ST circus  naval postgraduate  2016
・CIAs secret war in Tibet    by Kenneth Comboy,James Morrison
・An unknown Russian memoir   by Agvan Dorjiev  2001
・From Tibet confidentially,secret correspondence 13th to Dorjiev 1911-1925   by Jampa samten and Nikholay tsyrempilg  2011
・Dalai Lamas representative Agvan Dorjiev and Altais professor ・Wladyslaw Kotwics letter of 1912
・Russias Tibet file    the unknown pages in the history of Tibets 
independence  1996     by Nilolai s kuleshow
・Agvan Dorjiev revolvy Letters-Stored on the dusty shelves of the anti religious museum of Verkhneudinsk

 

【竹内正右さんの略歴】

フォト・ジャーナリスト。1945年、旧満州国吉林生まれ。早稲田大学では山岳部に所属。1970年に卒業後、ラオス、ベトナム、カンボジアの激動するインドシナを取材する。とくにラオスでは1973年から82年まで撮り続けた西側のフォト・ジャーナリストとして有名。1975年にビエンチャンが陥落するが、その歴史的瞬間に立ち会う。ベトナム軍のカンボジア侵攻を取材中の1979年、ポルポト軍に捕まる。その後、スリランカ暴動、フィリピンのアキノ暗殺とマルコス政権の崩壊、ビルマ・クーデター、天安門事件、チベットなどを取材。1989年からCIAに協力したラオスの少数民族、モン族を追ってアメリカへ。著書は『ラオスは戦場だった』(めこん)、『モンの悲劇』(毎日新聞社)、『ドキュメント・ベトナム戦争1975』(パルコ出版・共著)など。

 

 著作以外では、NHK・BSドキュメンタリー「ケネディの秘密部隊―ラオス・モンのパンパオ将軍」(1999年)、「ダライラマ亡命の21日間」(2009年)を制作・出演した。


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