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【連載】赤い巡礼 チベット・ファイル④ 水泡に帰したチベット工作

2022-03-04 05:28:11 | 赤い巡礼 チベット・ファイル

【連載】赤い巡礼 チベット・ファイル④

竹内正右

 

■水泡に帰したチベット工作

 

▲ダプチ収容所(手前)とポタラ宮(丘の上)


ソビエトのチべット秘密外交

 1927年、ソビエト軍情報部(OGPU、KGBの前身)が創設される。「西欧、アジアに巨大な秘密のネットワークを構築すべし。外交官や交易人を装うのだ。極東には日本の軍拡主義者どもがわんさと隠れている」

 中国内に配置したOGPUのエージェントが逐一、日本軍の動きを報告していた。また、チべット情報と2つの宗派、ダライ・ラマとパンチェン・ラマ情報を追っていた。
 1928年、OGPU東部局は23ページに及ぶ戦略書「仏教徒地域」を作成した。将来の仏教徒たちの組織、運動に関する資料つくりである。スターリンや反宗教コミッションたちへのメッセージだ。
 極東の日本の動きを重視している。特にソビエト内のブリヤート・仏教徒地区と内モンゴル,外モンゴル、そしてチべットへの動きに注意するよう忠告。また、内モンゴルのパンチェン・ラマ周辺の反ソビエトの動きに注意するよう、次のように呼び掛けた。
「チべットは、東の仏教徒の宗教センターである。ソビエト内の仏教徒と同じく、内モンゴル、外モンゴルの僧侶と深い連繋がある。かくて、これらの関係で、ソビエトとチべットは不変の重要さを維持してきた」
「チべットと英国について。英国の影響はチべット上層部や新しく生まれたブルジョア階級を通じて及んでいる。軍、警察を掌握する戦時相、そして大衆と僧侶たちは反英であるが、1925年以来ダライ・ラマ13世の親英組織と軋轢がある」
「ダライ・ラマ13世とパンチェン・ラマ9世について。チべット内でパンチェンの影響力が大であることが、ダライ・ラマとの関係の大いなる喚起を呼ぶことに。ダライ・ラマはパンチェンをチべットに戻したいが、英国がそれを邪魔している。パンチェンのチべット脱出と中国入りは、すべての仏教反動者の要素としてまといつきだした。英国も、日本も、パンチェン・ラマを利用しようとしている」
「チべットに影響を強化しているソビエトに対抗するため、英国のプレスがパンチェンをと唱えだした。我々の情報によると、英国の役人がパンチェンに英語と軍事演習を教えた、と。これらの動きは、ことごとく反ソビエト、反モンゴル人民共和国である」
「パンチェン・ラマの反ソ行動宣言がある。『あらゆる仏教徒は共産主義の敵であらねばならない』と。中央アジアのブリヤート区域で、1918年から1919年に汎モンゴリア運動が起きた。日本と手を組んだ全ての反動仏教勢力の行動を監視せねばならない。とりわけ、ブリヤート僧侶たちと知識層を」
「パンチェン・ラマの問題は、ソビエト首脳陣の頭痛の種だ。が、パンチェンが内モンゴルから離れた場合、日本軍の介入をも招く。パンチェンが我がソビエトに亡命する考えなら、レニングラードの仏教徒ダッザンのところに寄留するがよい。彼はソビエトの秘密同調者だ。だめなら、我々の出番だ」

ニキロロフ国家計画委員会議長が企てた計画とは

 ソビエト政権の外相チチェリンのチべット政策は、中央アジア、とりわけチべット、アムドをモンゴル人民共和国を狼煙基地として革命を進めるものだった。1928年から1930年まで、チべットに関してはカラカンと、OGPU極東部のメリ二コフ、ボリソフが担当した。が、この年、共産党にとつてチべットは最重要課題ではなかった。
 1929年、国家計画委員会(ゴスプラン)のニキロロフ議長の下で、ある計画が企てられた。ニキロロフのメモを見てみよう。
「チべットは政治的に全く救いようがない。英国、ソビエト、中国の三者の中にあり、海洋に漂う羊毛のクズのごときだ。1903年に英国はラサを制圧し、翌年には協定を結ぶが、チべットそのものの門戸開放は成しえず」
  ニキロロフは、ラサと中国西部の間の道路調査を進め、チべットへの空路地図の作成、そして羊毛の開拓にも手を付け始める。さらに、アムドのココノール湖、ツァイダム周辺に中継基地を造成する計画も練りだした。メモにはこう書かれている。
「チべットでは力の均衡政策は捨てるべきだ。既に英国が掌握している中央アジアを掌握するために、甘粛省経由で中国とのリンクを図るべし。英国の浸透するチべット内にブリヤートを投入するのだ」

《ゴスプラン》1921年に設立された生産計画を決定する国家組織で、ソビエト連邦閣僚会議国家計画委員会が正式名称。最高会議幹部会に直属し、ソ連における経済計画を立案した。

 

挫折した「1万人ラサ巡礼計画」

 この計画にスターリンが興味を示した。ソビエト国内で自らが危うい集団化計画を抱えていたからだ。スターリンは1929年、第1次5カ年計画を進め、社会主義経済の基礎造りに邁進していた。
 そんな中でニキロロフが「1万人ラサ巡礼計画」を打ち出す。しかし、ドルジェフとテプキンがこの計画に反対したため、頓挫することに。
 何よりこの年は、ソビエト国内全土が危機の頂点にあった。スターリンの集団化政策の失敗は、国内に大飢饉を生んでいたのだ。飢餓はブリヤート人、カルムイク人の居住区をも襲う。
 このため、ブリヤート人たちは武器を手に反ボルシェビキ、反集団化行動に出たのである。当時、ブリヤートの仏教改革運動は終わっていたのだが、新たな深刻な食糧危機に直面し、生存のための絶望的な戦いへと身を投げたのだ。
 1930年から1933年にかけて、ソビエト内では反ソビエトの動きが頻発に生じていた。1930年12月20日、一人の僧侶カンボが逮捕される。ソビエト体制の転覆を企てた容疑とされ、反革命罪でラーゲリに投獄された。
 翌年カルムイク人のテプキンがOGPUに逮捕され、10年の刑に。このため、モスクワとラサ間の対話は決定的に絶たれた。
 ソビエトとモンゴルの国境でも仏教徒の逮捕が続く。こうして、ラサとソビエト内のブリヤート、カルムイク人との関係も絶たれてしまう。
 1931年3月、ドルジェフはモスクワに招かれ、ラサ行を打診される。ラサに向かったドルジェフに対し、ソビエト政権はドルジェフを「好ましからざる人物」扱いに。
 1932年、ドルジェフは最後のラサ巡礼を果たす。少人数の巡礼だった。翌年末、レニングラード(ロシア革命後、サンクトペテルブルクから改名)の仏教寺での公式参拝は停止された。

ダライ・ラマ13世逝去とドルジェフ逮捕

 1933年12月16日、ダライ・ラマ13世がこの世を去った。が、ソビエトのマス・メディアは見逃してしまう。ソ連共産党の機関紙『プラウダ』が報じたのは、なんと12月末のことだった。中国のプレスが「チべット政府はパンチェン・ラマに権力移譲を。南京政府がパンチェン・ラマに軍事要員を随行する用意がある」と報じた2週間後である。
 ソビエト外務省、赤軍情報局、秘密警察がチべットを監視続けていたが、チべットのキーマンである13世の死を見逃したというわけだ。とんだ大失策だった。

▲チベット国旗とチベット子供村(JCV)の児童たち(インド北部ダラムサラの亡命政府で)

 

 1934年、ドルジェフは秘密警察(NKVD、OGPUの後身)に逮捕される。ウランウデの収容所に投獄されたが、20日後に釈放された。が、3年後の1937年にドルジェフは再び逮捕されている。この時点から、ドルジェフについての記録も、何もかもが消えた。
 1991年、ソビエト連邦が崩壊する。その翌年、新生ロシアのブリヤート・カルムイク共和国公安局で、秘密警察の公文書「KGBファイル」が発見された。ロシアの歴史家アレキサンダー・アンドリエフがファイルを見つけたのだ

〈囚人ナンバー2768、氏名ロザン・ガワン(ブリヤート人名)、アグワン・ドルジェフ(ロシア名)、拘留機関1937年11月13日-1938年1月29日、罪状反ソビエト・反革命罪、日本のスパイ〉

 ドルジェフは1938年に病死している故、数カ月前まで投獄されていたことになる。秘密警察はドルジェフの所持品とチべット関連資料10箱分を廃棄していたのである。箱にはチべットを意味する「ジョー」がチべット語で書かれていた。
  歴史家のアンドリエフの「KGBファイル」発見で、ドルジェフの外務省あての遺書もやっと日の目を見たのである。ドルジェフの署名が入った遺書には、こう記されていた。
「私の40年間の政治活動の趣旨は、チべットのダライ・ラマ法王と大ロシアとの間に良い関係を構築するためであった。が、ロシア極東とヨーロッパの政治的緊張で、私は偉大なチべットの人々の独立に力を添えることが不可能となってしまった。ロシアの次の代表がその意を遂げてほしい」
                     
 また、1922年に逮捕されたドルジェフの釈放に奔走した、ポーランド人の東洋学者コーウィクとの私的書簡も見つかった。
 ペテルブルグに仏教寺を建立したドルジェフ。そんなドルジェフの仏教とチベットへの貢献を目にしていたダライ・ラマ14世の長兄、ツプテン・ノルブはドルジェフの伝記の序章に、ペテルブルクの寺に感銘したことや、ドルジェフがソビエトのエージェントだったとの意見には同意しない旨を書いている。

 ドルジェフが投獄される前年、第三回目の「ラサ巡礼」に参加した一人のチャプチャエフも逮捕された。反革命集団の一員とされ、1938年に秘密警察の手で射殺刑にされた。
 利用するときは利用し、要らなくなると処刑でも何でもするのだ。(つづく)

 

【竹内正右さんの略歴】

フォト・ジャーナリスト。1945年、旧満州国吉林生まれ。早稲田大学では山岳部に所属。1970年に卒業後、ラオス、ベトナム、カンボジアの激動するインドシナを取材する。とくにラオスでは1973年から82年まで撮り続けた西側のフォト・ジャーナリストとして有名。1975年にビエンチャンが陥落するが、その歴史的瞬間に立ち会う。ベトナム軍のカンボジア侵攻を取材中の1979年、ポルポト軍に捕まる。その後、スリランカ暴動、フィリピンのアキノ暗殺とマルコス政権の崩壊、ビルマ・クーデター、天安門事件、チベットなどを取材。1989年からCIAに協力したラオスの少数民族、モン族を追ってアメリカへ。著書は『ラオスは戦場だった』(めこん)、『モンの悲劇』(毎日新聞社)、『ドキュメント・ベトナム戦争1975』(パルコ出版・共著)など。

 

 著作以外では、NHK・BSドキュメンタリー「ケネディの秘密部隊―ラオス・モンのパンパオ将軍」(1999年)、「ダライラマ亡命の21日間」(2009年)を制作・出演した。


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