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「台湾医学の父」杜聡明を偲ぶ  2月25日は35回目の命日

2021-02-25 10:41:29 | アンソニー・トゥー(杜祖健)

「台湾医学の父」杜聡明を偲ぶ

2月25日は35回目の命日 


 2月25日は「台湾医学の父」と称えられている杜聡明博士の命日です。台湾で初めて博士号を取得した杜聡明博士がその生涯を終えたのは、1986年2月25日のことでした。今年で没後35年。杜博士の三男は、本ブログにも度々登場するアンソニー・トゥー(杜祖健)博士です。杜聡明博士はどんな人生を歩んできたのか。台湾医療に果たした功績とは何か。その軌跡をたどることにしましょう。(敬称略)


「台湾医学の父」と呼ばれて

 今年1月10日、台湾・台中の台中中山堂でアンソニー・トゥー博士の母親である林雙随にスポットを当てた清唱劇(オラトリオ)が上演されました。題して『杜林雙随』。副題は「聡明一世・雙随一生」。「台湾医学の父」と呼ばれている杜聡明博士とその妻、林雙随とのロマンチックなラブストーリーを音楽と歌で再現したものです。
 開幕すると、舞台奥に掲げられたのスクリーンに「2020年に新型コロナウイルスが」という文字が映し出され、「台湾有堅強的医療衛生 防護人民的健康」(台湾には人々の健康を守るための強力な医療とヘルスケアがあります)という文字も。
 演奏しているのは、台湾青年管楽団です。しばらくして序曲《一代医人杜聡明明》(作曲・張凱博)の演奏が始まり、スクリーンには杜聡明博士のいかにも聡明そうな写真が映し出されます。「小柄ながらも頭脳は飛びぬけていました」という説明の後、数々の写真とともに杜博士の経歴が。
 舞台には杜聡明博士らしき一人の男性が机の前に腰掛け書物を読んでいます。そこに女性が登壇。おそらく林雙随でしょう。続いて6人の男女が。《往事》という曲に合わせて合唱する。その曲が終わると、一転して曲は《Blue Tango》に。10人の女性ダンサーがスローテンポの曲に合わせて踊ります。
 再び二人が登場し、《初見》(作詞/作曲・羅世榮)を高らかに歌う。男性のみが残って《上美的花》を独唱します。
 第二幕も「医学博士号をとるまで」の寸劇と歌と踊りが続きます。つまり、林雙随だけに焦点を当てたものではなく、杜聡明博士にかなりの部分が割かれたオラトリオでした。それほど、この夫妻は一心同体だったと言えるのかもしれません。
 この『杜林雙随』の動画がありますのでご覧ください。中国語が分からなくても、その雰囲気を十分楽しむことができます。

▲オラトリオ『杜林雙随』のポスター

 

■『杜林雙随』
https://drive.google.com/file/d/1u4exFpP7zuWz9NNsoPgoOuuERhJh-Dzn/view?fbclid=IwAR3vL80zQQlMUjE99jquNRqsSv4BlJElRFXnc4fQ-Ilvhf8p5yfQj5zAE_4

■霧峰林家の超豪邸 
https://www.youtube.com/watch?v=9kBwjosxpEo&ab_channel=%E5%BC%98%E5%85%89%E7%A7%91%E5%A4%A7%E7%92%B0%E5%AE%89%E7%B3%BB%E7%84%A1%E4%BA%BA%E8%BC%89%E5%85%B7%E7%A9%BA%E6%8B%8D%E8%AA%B2%E7%A8%8B%E6%88%90%E6%9E%9C

袁世凱暗殺未遂に関与
 
 台湾を清朝が統治していた1893年8月25日、聡明少年は淡水で生まれました。その2年後、日清戦争で勝利した日本が清国から台湾を割譲されたのです。滬尾公学校を首席で卒業した後、台湾総督府医学校にトップで合格、5年後の1914年に首席で卒業しました。
 非常に熱血漢で在学中には、革命を志して親友の翁俊明と一緒に袁世凱暗殺を企てたことも。1911年の辛亥革命後、孫文の追い落としをたくらむ袁世凱を暗殺しようと北京に向かいます。当初、コレラ菌を袁世凱邸の飲料水に混ぜる計画でした。しかし、あまりにも厳重な警戒態勢が敷かれていたので、断念せざるを得ませんでした。
 ちなみに翁俊明は杜聡明と同じ1893年生まれ。台南出身の俊明も台湾総督府医学校に入学しますが、在学中に神戸で孫文に会う機会がありました。孫文が熱っぽく語る「清朝打倒」に共鳴したというわけです。しかし、辛亥革命の後、袁世凱が政権を握って孫文ら革命派を排除しようとしたことに、若き台湾青年たちも憤慨し、杜聡明と袁世凱の計画を練って大陸に渡ったというわけです。
 この暗殺計画が未遂に終わった後、聡明は京都帝国大学医学部に入学しました。1915年のことです。1922年には同大学で医学博士号を授与されました。こうして台湾人初の医学博士号の取得者となったのです。この年、台湾五大家の一つである霧峰林家の林雙随と結婚式を挙げました。

▲台湾と日本本土を結ぶ船の甲板で(京都帝大在学中の1915年)

▲台北市内で挙式した杜聡明・林雙随夫妻

 その後、台北帝国大学(現・国立台湾大学)医学部の台湾人教授に就任し、薬理学教室で初期の科学研究チームを設立しました。こうして、杜博士は阿片中毒やヘビ毒、漢方薬などの分野を専門とした研究を行い、数多くの学術論文を発表することになります。

▲杜博士を紹介する記事

 


阿片中毒者の矯正に成功
 
 とくに阿片中毒の研究は注目に値するでしょう。当時、台湾には約5万人の阿片中毒者がいました。台湾との交流団体「台湾協会」(理事長・小椋和平氏)は昨年10月、創立70周年を記念したシンポジウム「台湾人と日本人」を開催、公衆衛生とコロナ対策をテーマに議論しています。その模様が『台湾協会報』(2020年11月15日)に掲載されていますので紹介しましょう。
 参加者の一人である台湾協会参与の河原功氏が、阿片撲滅で大きな功績を残した杜博士の功績に触れています。
《伝染病や地方病については日本人医学者が研究をしていきましたが、阿片の漸禁主義に直接結びつくような研究、あるいはそれに従事する人間はほとんどいなかったのです。そこで薬理学を学んだ杜聡明に白羽の矢が立てられ、杜聡明が阿片撲滅に尽力したということになります。
 杜聡明の奥さんは霧峰林家から嫁いでいます。阿片の問題、漸禁主義については、「新民会」という在京の学生たちの集まりがありました。その会長が林献堂なのですが、「新民会」としては総督府が採った漸禁主義について、これは問題がある、根拠が薄弱、主義は矛盾、自由放任で、結局、減少は死亡者によるものであって何の手立ても打っていないと批判します。
 官需は減っていくにもかかわらず、阿片収入はどんどん膨れ上がっていくのです。結局、財政の一つの基盤として、阿片は総督府にとってかけがえのない収入源となってきました。
 そういう中で、杜聡明が阿片撲滅の分野で貢献をしていくわけです。いわば、杜聡明としては、台湾の衛生状態を高めるにはどうしても阿片の撲滅が欠かせないという点において、林献堂が会長である「新民会」の考え方と同じですので、必死になって阿片の撲滅活動をするわけです。
 彼が行ったのは、どうやれば中毒者を減らすことができるかということで、減量させるための様々な研究を重ねていきます。そして、尿検査でもって阿片中毒者か否か、その程度がどうなのかということを確立していくわけです。ですから、阿片の撲滅については、結局、杜聡明しかできなかったのです。
その点において当時の医学者は杜聡明の功績を高く評価しております》

▲浴衣姿で台湾総督の長谷川清とくつろぐ台湾の有力者たち。前列左から1番目が林献堂(元貴族院議員)、3番目が長谷川総督。後列中央が杜聡明博士
 
画期的な治療法を生み出す

 杜博士が開発した治療方法は、まず患者の尿から阿片の量を調べることから始まりました。検査を迅速かつ的確なものとした禁止尿検査は、現在行われている薬物検査のきっかけとなったものです。
 また、杜博士の活動は台北帝大医学部だけに留まりません。台湾総督府のバックアップで「阿片中毒病院更生病院」を設立し、阿片中毒患者が社会復帰をできるシステムをつくったのです。
 博士が提唱したのが「実験的治療」。モルヒネを患者に供給して阿片を摂取させ、徐々に投与量を減らすというもの。この方法で中毒症状を抑制しながら栄養補助食品を与えたのです。
 こうして杜博士のチームは阿片中毒や禁断症状などの画期的な研究を行いました。なんとその後の10年間で、1万人以上の阿片中毒患者が治療さたという。今日でも世界中の機関で杜博士の「尿スクリーニング方法」が用いられています。
《この杜聡明の業績について、今の日本ではほとんど知られていない、また研究されていないというのは、ある意味ではちょっと寂しいことであります》
 阿片中毒患者への減量弁毒療法や尿検査法を確立する一方、蛇毒の成分からの鎮痛剤を抽出したり、赤痢の特効薬を開発するなど、薬理学の方面でも様々な貢献を行いました。
 第2次大戦後、国立台湾大学医学部部長に就任し、翌1946年に台湾医学会会長、台湾省科学振興会理事長、国民参政会会員などの要職を歴任しています。しかし1953年、医学部長の職を辞して台湾大学を去りました。当時の銭思亮学長と意見が合わなかったからです。翌年には台湾初の私立高等医学校の高雄医学院(高雄医学大学の前身)の開校に尽力し、1966年に退官するまで同医学院の院長を務めました。

▲杜博士が院長を務めた高雄医学院の創立1周年記念式典

 

▲自宅庭で棒を使って体操する杜博士。健康維持のために水泳や冷水浴も

 

ジュディー・オング誕生秘話

 さて、杜聡明の親友で、袁世凱暗殺計画を実行しようとした翁俊明のその後です。彼は再び大陸に渡って、香港、厦門、上海など中国各地で医療活動を行う一方、国民党の幹部として政治活動も行っていました。しかし、1943年11月、飲酒後に急死しています。52歳の若さでした。何ものかに毒殺されたと言われていますが、真相は不明のままです。

▲謎の死を遂げた翁俊明


 息子の翁炳栄にも触れておきましょう。日中戦争時に四川省の大学で学んでいた炳栄は毎日、英語のラジオ放送を聴いていました。そして「抗日」を訴える壁新聞をつくったそうです。日本が戦争で敗北した後、国民党が設立した国営ラジオ局「中国広播公司」の局長に。台湾人の劉雲江と結婚し、一人の女の子を授かります。
 炳栄が家族と一緒に日本に赴任したのは1951年のことでした。娘の倩玉は2歳になったばかり。日本ではGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の心理作戦部チーフとしてで中国共産党向けのプロパガンダ放送を担当することになったのです。中国広播公司の日本支部代表でもあったことから、日本のラジオ・テレビ局での人脈が広がりました。

 東京中華学校に入学した倩玉ですが、もちろん学校では北京語を話します。しかし、家に帰ると、英語の家庭教師が待ち構えていました。やがて、この美少女は日本の芸能界ににデビューします。「ジュディー・オング」という芸名で。(文・山本徳造)


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