2024-01-06 「The News Lens」
アンソニー・トゥ回顧録⑥
保険加入の有無で医療費は天地の差 狭き門の医師志望者はメキシコをめざす…米国の医療事情
杜祖健(Anthony T. Tu)
【注目ポイント】
日清戦争(1894~95)の結果、下関条約によって台湾は1945年まで約半世紀の間、日本の統治下に置かれた。戦前から戦後にかけて台湾医学の先駆者となった杜聡明氏の三男として生まれ、米国で世界的な毒性学の権威となった杜祖健(アンソニー・トゥ= Anthony Tu)氏。日本の松本サリン事件解決にも協力した台湾生まれ、米国在住の化学者が、米国在住約70年の経験から米国の医療について語った。
私が故郷・台湾を飛び出して渡米したのは1954年のことだ。あっという間に69年間も住んでしまったことになる。その間、何度も病気をしたのだが、米国の医療制度が、台湾のそれとはかなり違うと実感したので、今回はその話を記録しておこう。
保険会社なしに語れない米国の医療制度
たかが「保険会社」と軽く見てはいけない。米国の医療制度は、保険会社によって握られていると言っても過言ではないのだ。
▲マディソン・スクエア・パークの外れにある世界最大級の生命保険会社ニューヨーク・ライフ・インシュアランスのビル=2022年11月10日© Levine-Roberts/Sipa USA via Reut
まず手元の私の個人の経験談から話していこう。
私は米国でいろいろな手術を受けてきたので、術後は何週間も痛みが残ることがあることを痛感している。ずっと以前に脱腸(鼠径部ヘルニア)の手術をしたことがあり、そのときは諸般の事情から「可能ならしばらく入院したい」という希望を担当医に伝えた。
だが担当医がいうには、「この手術は保険会社の規定で日帰りです」という。
しかしこの担当医は好意的で、結局は何らかの理由をつけ「1日だけ入院できるようにする」と応じてくれた。私はその好意に甘え、手術を受けた当日は病院に一泊だけ滞在することができた。案の定、こういう小さい手術でも痛みが取れるまでには数週間かかったので、一番不安な術後の最初の一日を病院で過ごせたのはありがたかった。
▲カリフォルニア州の自宅近くで人工透析を受ける筆者。透析自体は約4時間だが、前後の準備を入れると約5時間座ったまま身動きが出来ないたけ「腰は痛くなり、なかなか辛いもの」という(筆者提供)
ところで私は3年前から腎臓の持病がもとで人工透析を受けるようになったのだが、そのために保険会社の力を身をもって知ることになった。
人工透析は週に3回受ける必要があるのだが、保険に加入していなければ(つまり医療費を自腹で満額で支払う場合)費用は1回2100ドル(約30万円)である。幸いにも私は保険に加入しているので、1回につき僅か40ドル(約5700円)で済むのだ。私がコンドミニアムを所持しているハワイで人工透析を受けたときは、1回わずか32ドル(4600円)であった。
何故医療費にそんなに差があるのかというと、保険加入者の医療費は保険会社が病院に支払うことになるので、可能なかぎり安く済むよう強い立場で交渉しているためである。
なかなか会えない米国のかかりつけ医
米国では通常各個人に日常の医療で最も身近なかかりつけの医師という存在があり、何か病気をした時はまずかかりつけ医に相談する。手術が必要な大きな病気の場合は、この医師が最も適当と思われる専門の医師を紹介してくれる。ある時私はかかりつけ医に相談したいと思い、電話をしてアポイントを取ろうとした。
かかりつけ医の秘書がいうには、「2か月ほど先なら先生にお会いできます」とのこと。なにゆえ米国の「お医者さま」はかかりつけ医であってもすぐに見てもらえないのか。それは医師の数が極端に少ないためである。
日本では各地に医大や大学の医学部があるが、米国では医学部をもつ大学の数が限られている。これは医師たちがむやみに医師の数を増やさないようにしているためだという。
話は変わるが米国のお医者さんは、たとえば外科医であっても自分の診療所には外科手術の設備がほとんどない、手術を行うときは各医師が大きい病院の設備を利用して行うことになる。
もちろん大きな病院といえど、その医療設備には限りがあるので、外科医同士で順番待ちになり、すぐに患者の求めに応じて手術ができるわけではない。以前私が大腸がんで手術を受けたときは3日間待たされたものだ。
手術室が空くまで3日待ち…私の病院体験から
先に述べた通り、私は3年前から人工透析を受けている。
▲米カリフォルニア州在住の筆者が最近人工透析を受けている施設。医師は1カ月に1度だけ現地に来る(筆者提供)
日本では、人工透析は充実した社会保障制度の恩恵を受けており、実際には医療費が月額40万円程度かかるにもかかわらず、患者負担が1万〜2万円で済むときいている。国が1人あたり年間500万円近く負担してくれるというありがたい制度だ。
繰り返すが米国では保険加入者の人工透析費用は保険会社が支払う。万一保険に未加入の場合、個人が自腹で負担すべき医療費は先に紹介した通り莫大な金額になる。
私の場合は米国の社会保障とコロラド州の公務員年金会社が支払ってくれている。私はかつてコロラド州立大教授だったので元コロラド州公務員ということになるわけである。退官以前は、大学と契約していた保険会社が医療費を支払ってくれた。
つまり退官の前後で保険会社が異なるのであった。
私が大腸がんになったのは1977年のことである。手術室がなかなか空かないので3日間待たされたことは先に述べたが、そのとき見舞いに来てくれたコロラド州立大学理学部の学部長が「担当の外科医は誰かね」と聞く。どの外科医がいいか私にはわからないので「まだ決まっていない」と返事した。そうすると彼が「オレがさがしてやる」という。
彼が探してくれた外科医は、ひとりは以前、市長クリニック(Mayor Clinics)に勤めていた医師医者なので信用がある。
また、もうひとりはジョンソン大統領の腹部の手術をしたこともある医師なので、「この2人がいいだろう」と彼は言う。もちろん私に異論はなく、この2人に決めた。
米国で大学医学部に進学するのは至難の業
さて、米国で医学部をもつ大学の数が限られている理由は医師たちが、むやみに医師の数を増やさないように働きかけているためだと紹介したが、どの世界にも抜け道はある。
▲ハーバード大学の卒業式でゴム手袋を振って歓声を上げる医学部の卒業生たち=2005年6月、ケンブリッジ
米国内で狭き門の大学医学部に進学できず、それでも医師になりたいという人は、たとえばすぐお隣のメキシコをはじめ、外国の大学医学部を目指して進学するという手がある。
そこで頑張って卒業して米国に戻り、所定の試験にパスすれば晴れて米国で医療に従事することが可能になるのである。
ただし、さすがに医師を志すうえでどこの大学医学部でもいいというわけではないそうだ。
たとえばメキシコ湾南方、カリブ海には多くの島があり、その島にはたいてい大学医学部がある。しかしこのあたりの大学医学部は質が高いとは言えず、米国でも評判が悪いために米国の医師志望者には人気がない。たとえ進学したとしても、ここからの医師への道は門戸も狭いし、その将来も安泰とはいえない。
メキシコならば、たとえばハリスコ州の州都で北米有数の都市グワダラハラ自治大学医学部が米国でもっとも有名なので、米国人で医師を志望し、しかし米国内では大学医学部に進学できそうにない人の多くはこの医学部に入ろうとする。
私は一度だけメキシコの大学医学部を卒業したという米国人医師に会ったことがある。
彼の話では、当然のこととして講義はすべてスペイン語で行われていたのだが、そこで学ぶ学生の大部分は米国人だったそうだ。
もちろんその米国人学生たちは、本国の大学医学部に入るのが至難の業なので、医師になりたいという志を果たす次善の策として、メキシコの大学医学部に道を求めただけのことなのだ。
▲母親と新生児の精巧なダミーを使用して出産時対応に関する授業を受けるメキシコ市の自治大学医学部の学生ら=2005年、メキシコ市© REUTERS
(2024-01-06「The News Lens」からの転載)
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