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なぜ日本企業は衰退したのか 【新連載】頑張れ!ニッポン①

2024-09-12 05:31:43 | 【連載】頑張れ!ニッポン

【新連載】頑張れ!ニッポン①

なぜ日本企業は衰退したのか

釜原紘一(日本電子デバイス産業協会監事)

 

 

 新連載が始まった。かつて「技術大国」と呼ばれた日本が抱える技術上の問題、海外との比較においての緒問題などについて書くようにとの編集部からの要望だが、私では明らかに力不足だろう。とはいえ、体験した事を書いてそれが本題に触れるものであれば幸いである。なにしろ半導体しか知らない者が書くので、独断と偏見に満ちている内容になる事も考えられる。その点はご容赦願いたい。
 

中国に利用された日本製鉄

 私は会社生活の60%を工場で過ごしたので、今でも工場見学の現場に立つと無性に血が騒ぐ。大学を卒業する1年前、修学旅行と言う感じで工場見学旅行があった。希望者20人程度がヤマハ(浜松)、東レ(大津市)、八幡製鉄(北九州市)、三菱重工(長崎)などを見学した。その中で八幡製鉄所を見学した時の事が印象に残っている。

 

▲▼八幡製鉄所(日本製鉄のHPより)


 八幡製鉄所では広大な工場敷地をバスで回ったが、現場事務所で若い技術者が説明してくれた。汚れた作業服姿でヘルメットをかぶり、黒板に溶鉱炉で起こる化学反応を化学式を書きながらスラスラと説明する姿がなんとも格好良く見え、「僕も工場の現場で働く技師になりたいなあ~」と思ったものである。
 最近その八幡製鉄所を擁する日本製鉄が、中国の宝山鋼鉄との合弁事業を解消するとの報道があったので、古い記憶がよみがえった。
 報道によれば、「日本製鉄は1970年代の技術支援から中国の鉄鋼産業の近代化に関わってきたが、半世紀にわたる関係は大きな節目を迎えることになった」という。実を言うと、私はその宝山製鉄所向けのパワー半導体(大電力サイリスタ)の生産に携わったことがある。
 ネット情報では、上海宝山製鉄所は新日鉄(現日本製鉄)の全面協力を得て1978年に着工した。その後、同製鉄所は中国の主力製鉄所として順調に発展し、中国の近代化に多大な貢献をする。こうして製鉄の増産に力を入れ続けた結果、中国は今や世界最大の鉄鋼生産国となっている。

▲中国宝山製鉄所 (日刊鉄鋼新聞より)
 

日本企業の真似をして成長した中国企業

 ところで日本製鉄と宝山製鉄所とは良好な関係ばかりが続いた訳ではない。宝山側が日本製鉄の特許を侵害したとして訴えられたこともあったのである。
 1978年当時を思い出すと、中国は自力でパワー半導体の工場を建設する意向もあったようで、中国から10人程の調査団が、私の勤める北伊丹製作所に来て、ラインを詳細に視察した事があった。その時ラインを案内したのは私だから、当時の事はよく覚えている。
 彼らが帰国後、パワー半導体製造に必要な装置一式と価格についての質問状が送られてきた。上司の指示により、私は東京エレクトロンや国際電気等の装置メーカから見積もりを取り寄せ、さらに製造ラインのレイアウト図も合わせて中国側に提出したが、その後どうなったかは知らない。

「宝山」の報道でもう一つ思い浮かぶ名前は「ポスコ」である。株式会社ポスコは韓国最大の鉄鋼メーカで、1973年に第一期工事が竣工したとネットに載っていた。
 ポスコは八幡製鉄、富士製鉄(のちに八幡製鉄と富士製鉄は一緒になって日本製鉄となっている)、日本鋼管(現JFEスチール)の3社から技術供与を受けている。私はポスコについては宝山の時のような関わりはないが、ポスコ向けのサイリスタをせっせと作った記憶はある。因みにポスコも日本製鉄から特許侵害で訴えられている。中国も韓国も供与される以上のものを取ろうとする姿勢が見えているので、いい感じはしない。

▲日本鋼管圧延工場(JFEスチールのHPより) 

 

 中国と韓国の鉄鋼産業は日本企業の技術支援により発展し、今や先生である日本製鉄をはじめとする日本の鉄鋼メーカを脅かす存在になった。これが日本が技術支援した結果なのだ。そんな事例は半導体にも見られる。
 韓国のサムスン電子は誕生当初、シャープや三洋が随分手助けしたようだ。2000年代の不況時に日本の半導体企業が優秀な技術者をどんどんリストラしたので、行き場を失った多くの技術者がサムスンに流れた。その結果先端技術が韓国に流出したと言う話も伝わっている。こうした話は私が現役を退く前後に起こったことだが、嫌でも私の耳に入るので、いろいろと考えさせられる。その一つが、技術者の処遇についてだ。

 日本企業は人事制度をいろいろ工夫はしているようだが、私の現役時代は、まだまだ更なる工夫が必要だと感じた。海外企業ではどうなっているかは知らない。が、課長、部長というラインの管理職を上がっていくシステムだけでは、大量のエンジニアを必要とする情報化社会ではうまく機能しないのではないだろうか。
 彼等のモチベーションを維持し、存分に力を発揮させる仕組みを早急に築かなければ、激しい国際競争に勝てないだろう。それだけは断言できる。また近年、国際的な人材獲得競争が激化していると聞く。日本では「理工離れ」が言われて久しい。実際、理工系人材の不足は深刻で、加えて学力低下も甚だしいという。バブル経済の中で豊かさを感じた(それが勘違いであったにせよ!)人々はリスクを取るのを避け、現状維持に甘んじているのだろうか。
 
ャレンジ精神がなくなった日本の若者 

 海外への留学を希望する学生が減っているとも聞くが、リスクを取りたくない結果なら心配だ。アメリカでは優秀でやる気のある学生は起業を目指し、そうでもない学生は企業に入って雇われる身に甘んじると聞いた。
 私の記憶では、日本では優秀な学生は国家公務員になるか、有名企業に入ることを目指したものである。が、最近は大企業や国家公務員の人気が低下し、志望者が減っているという。私も大企業を目指したので、偉そうな事を言えた義理ではないが……。
 その代わり、起業を目指す若者が増えているというではないか。そこは大いに期待したいが、最近の日本企業に声を大にして言いたい。「成長を見据えた投資をせず、将来が心配だと言っては社員の給料も上げず、内部留保だけ貯め込んで30年間殆ど成長しない」というではないか! だから、私は思わず叫びたくなる。
「お前らはこの国を亡ぼす気か! 責任者出てこい!」
 しかし、そこで天の声が聞こえてくるのだ。
「ふん、80歳才を超えた爺さんが何を息巻いている。大人しくゴルフかカラオケでもやっていろ!」
 天の声には逆らえない。仕方なく、私はパークゴルフとカラオケにいそしむ日々を送っている。

 

【釜原紘一(かまはら こういち)さんのプロフィール】

昭和15(1940)年12月、高知県室戸市に生まれる。父親の仕事の関係で幼少期に福岡(博多)、東京(世田谷上馬)、埼玉(浦和)、新京(旧満洲国の首都、現在の中国吉林省・長春)などを転々とし、昭和19(1944)年に帰国、室戸市で終戦を迎える。小学2年の時に上京し、少年期から大学卒業までを東京で過ごす。昭和39(1964)年3月、早稲田大学理工学部応用物理学科を卒業。同年4月、三菱電機(株)に入社後、兵庫県伊丹市の半導体工場に配属され、電力用半導体の開発・設計・製造に携わる。昭和57(1982)年3月、福岡市に電力半導体工場が移転したことで福岡へ。昭和60(1985)年10月、電力半導体製造課長を最後に本社に移り、半導体マーケティング部長として半導体全般のグローバルな調査・分析に従事。同時に業界活動にも携わり、EIAJ(社団法人日本電子機械工業会)の調査統計委員長、中国半導体調査団団長、WSTS(世界半導体市場統計)日本協議会会長などを務めた。平成13(2001)年3月に定年退職後、社団法人日本半導体ベンチャー協会常務理事・事務局長に就任。平成25(2013)年10月、同協会が発展的解消となり、(一社)日本電子デバイス産業協会が発足すると同時に監事を拝命し今日に至る。白井市では白井稲門会副会長、白井シニアライオンズクラブ会長などを務めた。本ブログには、平成6年5月23日~8月31日まで「【連載】半導体一筋60年」(平成6年5月23日~8月31日)を15回にわたって執筆し好評を博す。趣味は、音楽鑑賞(クラシックから演歌まで)、旅行(国内、海外)。好きな食べ物は、麺類(蕎麦、ラーメン、うどん、そうめん、パスタなど長いもの全般)とカツオのたたき(但しスーパーで売っているものは食べない)


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