白井健康元気村

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ウィーン少年合唱団白井公演の思い出 【村民の声⑥】  

2020-10-12 14:06:39 | 村民の声

【村民の声⑥】

ウィーン少年合唱団白井公演の思い出

能登昭博 

 

 白井市にウィーン少年合唱団がやって来のは、平成14(2002)年5月1日のことでした。白井市P連(PTAの連合組織)30周年記念行事の目玉企画だったのが、何と言っても「ウィーン少年合唱団白井公演」。あの有名な合唱団がオーストリアから白井にやってくるというので、公募で選ばれて結成された白井市の「少年合唱団」が、今か今かと待ち構えていました。それも無理はないでしょう。厳しい練習に耐えて、この日を迎えたのですから。そしてちょっぴり緊張した面持ちも。
 私たちが私たちが心配していたことは、白井の「少年合唱団」のほうがウィーン少年合唱団の25人よりも多かったことです。その数、なんと42人。招聘元の大阪の朝日放送テレビには、42人全員揃って舞台に出させてほしい旨を事前にお願いしていました。しかし、本番前のリハーサルでウィーン合唱団の指揮者の了解が必要だというではないですか。どうなることかと心配しましたが、ウィーン側の指揮者が快く承諾してくれました。
 リハーサルが始まり、日本の唱歌『赤とんぼ』とドイツ語の歌が合唱されたときには、それまでの緊張から安堵に変わったことを今でも覚えています。ウイーン少年合唱団と白井合唱団の清らかな歌声が会場に響き渡ったときの感動は言葉では言い尽くせません。リハーサルを無事に終え、子どもたちを指導してくれた海老原修先生や大塚惠先生たちが思わずガッズポーズ。ホッとした瞬間でした。
 そして本番の日を迎えます。白井市文化会館大ホールが満席だったのは言うまでもないでしょう。観客が固唾を飲んで見守る中、ウィーン少年合唱団の公演が始まりました。世界を魅了した「天使の歌声」が大ホールに流れ始めると、観衆はうっとり。心の底から彼らの美声を満喫したようです。いよいよラストです。白井少年合唱団が舞台に上がりました。ウィーン少年合唱団を中心にして、42人が左右に分かれて整列します。ウィーンと白井の少年たちの合唱が終わったとき、会場からは割れんばかりの拍手が起こりました。
 もちろん、この公演に携わった白井市の大人たちの喜びもひとしおです。こうしてウィーン少年合唱団の白井公演は大成功のうちに幕を閉じました。「白井の大人が白井の子どもたちに夢をプレゼントする」という私たちの夢が実現したのです。ちなみに、この公演の半年後、共演した白井市の子どもたちが中心になって「白井少年少女合唱団」が結成されました。翌年6月の第1回定期演奏会を皮きりに、市民音楽祭、ふるさとまつりなど様々な演奏会に出演しています。
 さて、世界的なウィーン少年合唱団と名もない白井市の少年合唱団を同じ舞台に立たせようという「無謀」とも言える企画は、いつ決まったのでしょうか。公演の1年前のことです。
 私は平成8(1996)年から3年間、市立七次台中学校でPTA会長を務めていました。その間、平成10年度の白井市P連会長も兼務しています。平成13(2001)年に平成10年度市P連の元会長たちとの懇親会が行われることになり、私も出席しました。
 その席上で南山小学校の元会長の一人である亀川衛さんからこんな話が。
「ウィーン少年合唱団が来年日本で公演するけど、日本の子どもたちとも一緒に合唱してくれるそうだよ」
 それを聞いたメンバーの何人かが、「素晴らしい話だよね!」と。七次台中学校元校長の湯浅先生も、「白井市の音楽教育はレベルが高いから、白井公演が実現出来るかも」と。そこで亀川さんに相談したところ、
「来年は白井市P連30周年の年だから面白いかもしれない。歴代の市P連会長の先輩の意見を聞いたが、白井市の名誉と言われたよ」
 そんなわけで、さっそく「実行委員会」が立ち上げることになり、現役のPTA役員、地元市民、事業主の人たちなど多くの人が関わったことで、ウイーン少年合唱団白井公演が実現されることになったのです。私も副実行委員長として活動し、白井の人間になれた喜びを感じた思いでした。
 白井市で新聞店の事業を始めて33年です。何の関わりも無い白井へ、新聞社の指示で移って来ました。そんな私が、PTA会長になったのも、何かの縁でしょう。しかも、このような夢の企画を仲間たちと実現できたのです。白井という街に深く感謝するしかありません。新聞店経営の第一線から退いた今、白井健康元気村の村民して、白井市と白井市民に何らかの形で恩返しをしたいと思っております。

▲白井の子どもたちとリハーサル(白井市文化会館大ホール)▼

 

能登昭博さんのプロフィール

昭和29(1954)年、北海道小樽市生まれ。小樽潮陵高校で少林寺拳法部所属(初段)。中央大学商学部経営学科卒に入学、在学中は朝日奨学会の新聞奨学生に。昭和53(1978)に卒業後、新聞販売店の(株)イワキへ入社。ASA(朝日新聞サービスアンカー)綾瀬で主任職になって早々、全国的に部数減にもかかわらず、所属店の読者数を増やす。昭和62(1988)年に白井市で独立し、新聞店を開業する。平成16(2004)年にASA青葉の森、ASA千葉桜木町で支店を開設した。同19(2007)年、朝日新聞社から「CS優秀賞」(社長賞)を授与され、千葉中央新聞販売株式会社代表取締役に就任(4年間在職)。同27(2015)年に日本新聞協会より「地域貢献大賞」が、翌年には朝日新聞社より「CS大賞」が授与される。平成30(2018)年、千葉県中小企業家同友会代表理事就任。令和元(2019)年、次男の雅彦さんが事業を継承し、自身は一線を退いて会長職へ。

 

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●朝日新聞販売の能登昭博さん勇退 今後は子供たちの活動支援へ 
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★幅広い内容にするため、今回から「村民の主張」を改め、「村民の声」にしました。


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