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素敵な女性(後半)  岩崎邦子の「日々悠々」㉙

2019-04-05 12:54:31 | 【連載エッセー】岩崎邦子の「日々悠々」

【連載エッセー】岩崎邦子の「日々悠々」㉙

素敵な女性(後半)

 

 

   さてと、前回の続きである。「マダム・オブ・トウキョウ展」の会場となったギャラリーで、林亜矢子さんがモデルとなった女性たちの職業や経歴などを丁寧に説明してくれた。60代から90代までの14、5人の方が被写体となっておられる。シニアモデルの方、浅間山荘事件で殉職された方の奥さん、若い頃は男子とラグビーをしていたとかの90歳の方、夫と共に1軒のお店から70店舗にまで広げた辣腕な方、お茶の先生等々。

「苦労されたのですね~」「なるほど~」「だからですね~」「さすがですね~」「へぇ~すごい」

   と、声に出したり心で思ったりの連続であった。

「マダム・オブ・トウキョウ展」のモデルのお一人が、先客で来ておられた女性である。お名前が八谷敏代(やちがいとしよ)さん。その方が本日のスペシャルトークをしてくださることに。

   少し薄いミモザ色の地に枝のような柄の入ったワンピース、頭には共布でターバン、誰とも被らないセンス抜群の素敵な佇まい。あとで聞くと、この生地はフランス製とのこと。目が悪いとかで、フェンディのお洒落なデザインのサングラスをかけていらした。

   靴もフェンディで、足首に色合いの良いベルトが連携している。だから、歩いていても脱げることがなく、安全な造りになっているのだとか。洋服との色合いも何とも品が良く、ブランド物とは縁のない私は見とれてしまった。

   この靴の難は履いたり脱いだりが不便だということで、この会場では脱がないまま。やはり日本向けではなく、海外仕様になっている。彼女は耳も悪いらしい。これだけが私との共通点かも。そして、やっと威張れることを見つけた。それは私の方が彼女より年上であったことだ。

 さて、この日のスペシャルトークは題して「ミシンと私」。敏代さんは、まず生い立ち、そしてご両親の話をされた。戦後の混乱期のことも。話されることの内容が多くて、テープにでも取っておけば、正確なのだろうが、私の記憶の中で印象に残ったことを記すことにしたい。

 敏代さんのご両親のお仕事はミシン刺繍。お母さんの近藤倖枝さんは、女優の田中絹代さんの帯や小物などに刺繍を施していたという。田中さんご本人はご存じではなかったが、倖枝さんの作品を身に着けて映画に出演されたとか。この話を一緒に聞いていた男性も、かなり驚きの様子だった。

   その形見のような作品を持参されていて見せていただいた。黒地に縦の地模様がある帯に、カラフルで品も良い蜻蛉の刺繍がとても素敵である。数々の刺繍の技術は相当なものだ。でも、それは母親の役割で、躍動感のある蜻蛉などのデザイン関係は父親だったという。

 ご両親は敗戦後、手元にある帆布を利用して、手造りランドセル、野球のベース、などを作っていた。が、やがて大きな転機が訪れる。それは「スカジャン」だ。横須賀周辺に駐留していたアメリカ兵からの依頼で、ジャンパーに和風の刺繍を入れることであった。あの独特のドラゴンやタイガーは、八谷さんのご両親の発案でもあったようだ。

「売れに売れて荒稼ぎしたのよ~、なにせ支払いはドル(当時は1ドルが360円の時代)だったからね~」

   敏代さんは悪戯っぽい顔をされた。アメリカ兵からはディズニーのものや、ドールハウスなどの、カタログ販売のことを知ったという。ミシン加工業の両親からはいつも子供に手造りしたものを与えられていた。残り布を縫い合わせて遊ぶことが何よりも好きだった。

   高校生になった敏代さんは、親に専用のミシンを買ってもらう。桜陰高校からは一流大学に進学するのが通例のところ、先生の反対を押し切り桑沢デザイン学校に進んだ。やがて母親を亡くし、後にコピーライターの人と結婚する。そこから悲劇ともいえる壮絶な人生が始まった。

   尋常でない話であるが、義両親や義姉妹たちから、執拗に離婚を迫られ、いじめられ続けたという。彼女はやがてうつ病になって自殺を図ったが、死にきれなかった。

「人には寿命があって、死ぬ時期でもないから死ねないのだ」

   と、あるお坊さんに言われたそうだ。そして、お坊さんから教わった言葉は、「洗耳(せんじ)」。聞きたくない妬みや、不要なことは洗い流してしまえ、という意味だという。敏代さんを虐めていた義父母が認知症や精神病になったが、その介護も彼女はしている。

 あるとき、絵を習っていた敏代さんにスペインに行くチャンスが出来た。飛行機が降り立つ時点で地中海に広がる明るい景色を見た途端、今までの暗い自分が吹っ飛ぶように抜けて、人生が180度も変わる気持ちになった。

   日本を離れてその地で暮らすようになった敏代さんの、独自な行動、考え方に目を見張るものがある。廃材となったタイルを細かく砕き、それらに色付けをして壁画のようなものを、自宅の庭周りに飾り付けた。その写真を何枚も見せてもらったが、感動ものであった。

   膨大な量のタイルを使った作品群。その体力のすごいこと。色彩感覚の素晴らしいこと。だがそれだけではない。クリスマスシーズンにそれを見に来る人達に赤い布で作ったサンタさんを幾つもつくり、無料で提供していたという。

 日本に戻った地は、世田谷の子供病院(難病の子を扱っていた)の近くとかで、ここでもシーズンが来るとサンタクロースやバッグのような袋物を沢山つくっては家の前に置き、欲しい人には自由に持って帰れるようにした。

   今もこれらの制作には携わっている。毎年8月ころになると、日暮里の行きつけの店で生地を大量に買い付けているという。目が悪いことが信じられないくらいだが、ミシン仕事は好きだからということで、その制作の手早さも凄い。しかし、鶴の恩返しではないが、ミシンのある制作現場は、絶対に人に見られたくない。ご主人でさえご法度である。

   まだまだ驚くことがある。洋服づくりに関しては、パリコレを見るだけで参考になるデザインや、良い部分は自分の洋服づくりに取り入れることが出来るのだそうだ。また、その作品を自分のお気に入りの人にあげるのだそうで、亜矢子さんは、敏代さんから色違いのコートをもらったのだと、私たちに見せてくれた。

   敏代さんは「人から物をもらいたくないのよ。私は人にあげたい」のだそうで、生地にしてもどんなものでも自分で選んだものを、最優先とされている。そして、おもむろに出された松坂木綿で作った袋バッグを何枚か出された。落ち着いた縦縞の布で男性・女性を問わず、持ち勝手も良いもので、お話を聞いた私たちへプレゼントしてくださった。

 八谷敏代さんは、度肝を抜くような事柄も、辛い体験もたんたんと話されていた。彼女の言葉の中に「妬まない」があったが、それは何を意味するのだろう。人を妬むことの愚かさだろうか、そして碌なことにならないということだろうか。

   才能とバイタリティーを持ち合わせている素敵なマダムとなっている敏代さんから、こうして親しく話が聞けたことは、銀座まで出向いた価値ありの日であった。素敵な女性・マダムとは自分の置かれた環境の中で、不平不満を言わず精いっぱいに力強く生きている人であると、確信した。

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